律法から学ぶNo.17『イテロ』
2026年1月4日
年が明けて2026年最初の聖日に皆さんと聖書に触れることができることを感謝します。本年も聖霊なる神が私たちを教え、知恵を与えてくださり、それぞれ置かれているところにおいて福音を告げる器に力を増し加え、その歩みが守られますように祈ります。
さて、今年最初はパラシャット・ハシャブアの第17週目、「イテロ」といわれるパラシャ(聖書箇所)について考えていきます。「イテロ(יתרו)」(新共同訳では「エトロ」)はモーセの舅であり、妻ツィポラの父の名前です。主なる神がイスラエルの民を導き出されたことを聞いたイテロはモーセの妻ツィポラと子供たちを連れてシナイ山までやってきたところから今回のパラシャがはじまります。
■今週のパラシャ
出エジプト18:1~20:26
■ハフタラ(預言書)
イザヤ6:1~7:6
イザヤ9:5~6
■新約聖書(メシアニック・ジューの方々が参照する新約聖書の箇所)
ヤコブ2:8~13
1ペテロ2:9~10
※バイブルクラスのスケジュールの関係で本来のパラシャット・ハシャブアの朗読週間とは一致していません。
1.御旨にかなったエトロの助言
新共同訳聖書では「エトロ」と記されていますのでここからは「イテロ」ではなく「エトロ」とします。
パラシャのタイトルは以前もお話しさせていただいたように、その週に読まれる聖書箇所の冒頭のところから単純にユニークな語句をとってタイトルとしているだけでパラシャの内容を反映したものではありません。けれども、パラシャを学んでいくなかでそこにも神の意図があるように思えて非常に興味深く感じます。
今回もそのように考え始めたのですが…「エトロ」…モーセの舅とは言え、ミディアン人の祭司…ですよね。このタイトルから何か読み解けるような気が…しないです。しかも、シナイ山に到着して十戒を授かるというところでこのタイトル???
もうちょっと、ほかの語句をみつけられなかったのかなぁ…と思ってしまいます。
気を取りなおして、まずはエトロについて考えてみましょう。
ミディアン人はアブラハムの子、ミディアンの子孫(創世記25:1~4)とされており、その祭司だったエトロは先祖の神であるアブラハムの神に仕えていた可能性もあり、偶像の神に仕えていたとは言い切れません。エトロは主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いてシナイ山にやってきました。
この時、不思議なのはエトロが燔祭の犠牲を携えてやってきており、この危険な神の山で全焼の生贄を自ら捧げて、モーセとアロン、イスラエルの長老たちと神の御前で食事をしたとあります。(出エジプト18:12)
これは驚くべき話で、もしエトロが偶像の神の祭司であったなら決して赦されない行為だった筈です。主なる神がこれを受け入れられたことを見ると、異邦人ではありながらもアブラハムに現れた主なる神を拝する者であったと考えられます。
エトロはその後、モーセの立ち振る舞いを見て、ひとりで何事もこなすのではなく信頼できる者を選んで供に働くよう勧め、モーセはその助言を受け入れました。このことについて主なる神は何も言われていないので、それは御旨にかなう助言だったのではないかと思います。
このエトロの助言を第1のポイントとします。
2.神の臨在に触れるということ
イスラエルの民がシナイ山に着いたのはエジプトを出発して45日目のことでした。(出エジプト19:1)先のエトロの話の後のように書かれていますが、エトロはシナイ山に宿営しているモーセを訪ねていますので(出エジプト18:5)、恐らく時系列からいえば19章が先の話だと思われます。
話が前後したのはここからシナイ山における様相が一変するからではないかと思われます。
前のエトロの話ではシナイ山を前に異邦人の祭司を受け入れるような神の寛容さが示されたかと思えば、ここから空気が一変、主なる神が臨在を現わすということ、主のもとに居るということがどういうことかを思い知らされます。
■出エジプト19:10~13
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
モーセは主なる神との会見のために民を聖別、衣服を洗わせ清さを保つよう命じます。
■出エジプト19:16~19
三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
主はシナイ山の頂に降り、頂に登ってきたモーセに語り、祭司以下、民は山に登ってはならないと厳命します。
私たちクリスチャンは忘れてしまいがちですが、これは主なる神の臨在について正しく語られているところです。
神は罪を赦される愛をもった方でもありますが、罪を持ったまま神の臨在に触れることは非常に危険なのです。
この危険な神の臨在に触れることが本当にどういうことなのかというのが、第2のポイントです。
3.十戒とは何か
神はモーセとアロンを山の頂に呼び寄せられ、律法における10の戒めについて語られました。
律法は613の定めから成っており、律法のなかで最も大切な戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(申命記6:5)と「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)だとされています。
では、いったい十戒とは何なのでしょうか。もし、律法の根幹にあたるとするならば、十戒のなかにそれが明記されていてもよさそうなものですが、「愛する」という言葉は十戒のなかにないのです。
十戒が何を意味するものなのかいろいろと調べ、ユダヤ教的な考え方も探してみたのですが、残念ながら明確な答えを探しきることができませんでした。
この十戒が何を示すのかという難題が第3のポイントです。
【イテロ(モーセの舅の名)についてのまとめ】
最初にこの話がペンテコステに関わる話だということを覚えてください。
主の過越しから45日経過してシナイ山に着き、そこから清めの期間3日を含む6日で十戒を授かったことになり、これは七週の祭の日と重なります。ですから、キリストが過越し祭のなかで十字架にかかり、翌、日曜日の初穂の祭で復活、そこから七週、50日を数えた十戒を授かった同じ日に聖霊が降るペンテコステのできごとが起きたのです。
エテロについての助言ですが、この話を読んだ時に使徒言行録の話を思い出しました。
初代教会の成長期に12使徒(ユダの代わりにマティアが加わる)のところに日常の様々な問題の相談が持ち込まれるようになったため、弟子たちはこう決断しています。
■使徒言行録6:2~4
わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。
これはエテロの助言と似ています。出エジプトでは十戒を授かるにあたってイスラエルの民を聖別し、ご自分の民とされました。そして、後に70人の選ばれたイスラエルの長老たちもシナイ山に登るよう命じられます。(出エジプト24:1)これはエテロの助言があってのことだったのではないかと思います。
異邦人であるエテロが一時的にではあるにせよ預言者の務めを果たしたことになるのではないかと思います。
聖霊による教会成長においてもこのことは無視できません。優れた指導者がいればよいということではなく、信仰を継承していくという意味においても様々な面で支える器を備えておく必要があります。
次に恐ろしいまでの神の臨在をイスラエルの民が経験したことについてですが、これは清さにおける神の不変性を示しているように思えます。
このバイブルクラスで何度かお話しさせていただいていますが、神の清さに人は近づくことはできず、それは永遠に変わることがありません。しかし、神は御子であるイエス・キリストを通して人の罪を赦し、キリストを信じることで罪のない清い者として扱われるようになったのです。
ですが…それにあぐらをかいて神の清さを軽んじてはならないのです。
もし私たちが本当に神の臨在のなかにいることを願うなら、神の清さについて正しく理解した上で自分の罪が完全に取り除かれていると確信しなければなりません。神はその臨在のなかで私たちと語られることを待っておられるのです。
■出エジプト19:9
見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。
最後に十戒についてですが、4つは神に対しての戒めであり、6つは人に対しての戒めとなっています。
なので、これは神と人との間に立って神と向き合う者についての戒めなのではないかと私は思います。
最初の4つの戒めは言うまでもなく、当たり前のような後半、6つの人についての戒めはキリストが解説しているように行動だけではなく、それを心に思ってもならないというところに及びます。(マタイ5:21~30)
そうだとするならば人にとって、この戒めを守るというのは非常に困難なものになります。
誰だって「あんな奴、死んでしまえばいい」と思いますし、人が持っている物は羨ましく思い、父や母をいつも、どんな状況でも敬えるかというと難しいケースも出てくるのではないかと思います。
だからこそ神はこの戒めを示したのだと私は思います。
人に対しての思いというのは自分でなかなかコントロールできるものではないですが、そこに「私たちは旅の途中」ということと、「すべてを支配される神」ということを加味することで、できなかったことが可能になってくるような気がしないでしょうか。
私たちは旅の途中にあり、家に帰れば何でも不自由ない生活がありますが、今はそうではないのです。旅として目的地に到着するということが第一であるなら、ほかのことは少し犠牲にしなければならないことがあるのではないでしょうか。
また、私たちは人に対して怒りなど悪い感情を持つこともありますが、愛する者が窮地に追い込まれているのを見て平気でおられる神ではないのです。すべてを支配される神が私たちのために怒るのであれば、私たちが小さな怒りを人にぶつける必要などがどこにあるのでしょうか。
神は私たちが思いを整えて主の山に登ってくるのを待っておられるのではないかと思います。
そして、これらがペンテコステで聖霊なる神の臨在に触れる私たちの向き合い方、そのものを示しているのです。
イテロ(エトロ)の名の意味は「彼の豊かさ」です。以前、「彼」というのは誰か考えた時にエトロ自身だと考えていたのですが、彼が祭司だったことと、今回の取り扱いを考えると「主なる神にある豊かさ」と捉えていいのではないかと思います。
これは物質的な豊かさにかぎらず、十戒に示されるあらゆる面にわたる包括的な豊かさなのです。
選ばれた器がイテロ「彼の豊かさ」を知って神の臨在に触れることができますように。
新年、最初の祈りとさせていただきます。
※このパラシャット・ハシャブアの学びは聖書箇所についての答えを出すということではありません。与えられた聖書箇所についてもう一度、深く考えていくということに主眼が置かれています。
※このTICA JBCのすべての記事の著作権は聖霊さまにあるので、少しでも皆さんの参考になるようなところがあるなら、神さまの働きのためご自由に利用ください。記事に関して著作権フリーです。
皆さんの働きが祝福されますように。
