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事例3【1932年:米国等の対パラグアイ、対ボリビア経済制裁】

※上の写真は、1938年、チャコ戦争の平和条約が調印されたブエノスアイレス平和会議におけるボリビア・パラグアイ両国および中立 mediator(仲介国)の代表団。画像出典:Wikimedia Commons

  1. 経緯
    本紛争は、南米のグラン・チャコ地域の領有権を巡り、1932年から1935年にかけてボリビアとパラグアイの間で発生した武力紛争である[1]。当初、国際連盟は近隣米州諸国の調停に期待し、積極的な介入を控えていたが、戦闘の泥沼化を受けて1933年に調査団を派遣した[2]。しかし、両国は停戦勧告を拒否した。
    事態の悪化を受け、連盟はより強硬な措置として、1934年5月、国際連盟規約第11条を根拠に、紛争当事国であるボリビアとパラグアイ両国に対し、武器及び軍需品の禁輸措置を全加盟国に勧告した[3]。これは、特定の侵略国ではなく、紛争当事者双方を対象とした、連盟史上初の包括的な武器禁輸措置であった。英国やフランスなど30カ国以上がこれに応じ、非加盟国であった米国も別途、同様の禁輸措置をとった。しかし、同年11月にパラグアイが連盟の和平案を拒否したため、連盟は勧告を修正し、パラグアイのみを対象とする一方的な武器禁輸へと移行させた。これに対しパラグアイは連盟からの脱退を表明するに至る[4]。最終的に紛争は、両国の軍事的な消耗が限界に達する中、米州諸国グループの仲介によって1935年6月12日に停戦合意[5]が成立した。

  2. 経済制裁の有効性
    本件における武器禁輸措置は、戦争の終結という目的を達成できず、有効ではなかった。この制裁目的は、主に二つあったと考えられる。第一に、満州事変で揺らいだ集団安全保障体制の権威を回復するため、武力紛争は許容されず、連盟の枠組みで解決すべきであるという「ルールを明示する」目的があった。第二に、両当事国への武器供給を断つことで、その戦争遂行能力を直接的に削ぎ、紛争を強制的に停止させるという「相手国の戦略的能力を弱める」目的があった。
    しかし、Hufbauerらによると、この武器禁輸が両国経済に与えた直接的な打撃は限定的であった。特にパラグアイへの経済的影響は「無視できるレベル(Negligible)」と評価されている。ボリビアに対しては、食料品と軍需品の輸入減少による厚生損失が年間240万ドルと推計されたものの、これは当時のGNPのわずか2.6%に過ぎなかった[6]。実際に、両国の貿易統計を見ると、禁輸措置が課された1934年から35年にかけて、輸出入額が著しく減少した形跡は見られない[7]。むしろ専門家は、戦争の終結は制裁の効果というよりも、両国が「疲弊と財政的枯渇」に陥ったことが直接的な原因であると指摘している[8]。
    これらの事実を踏まえると、制裁が無効化した要因は以下の三点に集約される。。
       制裁の抜け穴:連盟を脱退していた日本、非加盟国のソ連、非協力的なイタリアといった国々が存在し、これらの国を経由した武器供給が続いた[9]。これにより禁輸措置は不完全なものとなり、両国は戦争継続に必要な兵器を調達し続けることが可能であった。
       事前の備蓄:両国は開戦前に相当量の武器を備蓄しており、禁輸措置が発動された時点では、その効果は限定的であった。
       ナショナリズムの高揚:戦争の長期化は、両国の国民感情を先鋭化させ、外部からの圧力に屈することを許さない国内政治状況を生み出した。制裁が、相手国の政策転換を促すどころか、むしろ抵抗を硬化させる結果となった。
    これらの要因が複合的に作用した結果、連盟による武器禁輸は実効性を欠き、紛争抑止に失敗したのである。

  3. 国際政治の極構造変化による影響
    本件は、1930年代の「不安定な多極構造」下における集団安全保障の機能不全を明確に示した事例である。1920年代の「安定的な多極構造」下では、英仏という主要大国が協調して連盟のメカニズムを主導することで、限定的ながらも紛争抑止機能を果たしていた。
    しかし、チャコ戦争が勃発した1930年代には、日本、ドイツ、イタリアといった現状変更を志向する大国が台頭し、国際政治における協調体制は崩壊していた。これらの「極」が連盟の制裁に非協力的であったため、制裁の普遍性が確保されず、致命的な「抜け穴」が生じた。これは、集団安全保障が、国際制度の理念だけでは機能せず、主要大国の利害の一致と協力が不可欠であることを示している。
    さらに、本件は地域主義の台頭という構造変化を象徴している。最終的に紛争を終結させたのは、グローバルな安全保障機関である国際連盟ではなく、アルゼンチンやブラジル、米国といった利害関係の近い米州諸国による地域的な調停であった。これは、普遍的な国際システムの権威が低下する中で、紛争解決の主体が地域大国ブロックへとシフトしていく、当時の国際政治の力学を反映している。


[1] 山澄亨「チェコ戦争をめぐるアメリカと国際連盟」『二十世紀研究』第4号(2003年12月)1–38頁。山澄亨「国際連盟におけるチャコ戦争調停交渉(1)調査団の覇権」『社会とマネジメント』第1巻第2号(2004年3月)287–289頁。ミュルデル『経済兵器』287–289頁。
[2] League of Nations, Report of the League of Nations Commission on the Chaco Dispute Between Bolivia and Paraguay, The American Journal of International Law 28, no. 4, Supplement: Official Documents (October 1934): 137–147, https://www.jstor.org/stable/2213383 (accessed July 10, 2025).
[3] U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers, 1934, The American Republics, vol. 4 (Washington, DC: Government Printing Office, 1951), 66–67, https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1934v04/pg_66 (accessed July 10, 2025).
[4] Gary Clyde Hufbauer, Jeffrey J. Schott, and Kimberly Ann Elliott, Economic Sanctions Reconsidered: History and Current Policy, 3rd ed. (Washington, DC: Institute for International Economics, 2009), CD-ROM, “Case Histories and Data,” Case 32-1: League of Nations v. Paraguay, Bolivia (1932-35: Chaco War).
[5] “Gran Chaco Conflict (1928–35),” Max Planck Encyclopedia of Public International Law, Oxford Public International Law, D. The Peace Conference, para. 13, https://opil.ouplaw.com/display/10.1093/law:epil/9780199231690/law-9780199231690-e140 (accessed August 16, 2025).
[6] Hufbauer, Schott, and Elliott, Economic Sanctions Reconsidered, Case 32-1.
[7] Ibid. 資料中の貿易統計表によれば、ボリビアの輸入額は1933年の820万ドルから1934年には1590万ドルへとむしろ増加している。
[8] Ibid. “[The cease-fire] was not due to any outside efforts but simply to weariness and financial exhaustion.”と英国の国際政治学者Alfred Zimmernの分析を引用している。
[9] Viscount Cecil of Chelwood, House of Lords debate, “The Chaco Arms Embargo,” Hansard, vol. 93 (July 12, 1934), col. 568, “it is the country of Italy—added to the list of States which others had asked should assent, the States of Russia and Japan, knowing quite well, I should have thought, that in the case of these two additional States there was more difficulty in obtaining assent than in the case of the others,” https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1934/jul/12/the-chaco-arms-embargo (accessed August 22, 2025).

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