事例2【1925年:国際連盟の対ギリシャ経済制裁】
※上の写真は、1925年、ギリシャ・ブルガリア紛争(ペトリチ事件)をめぐる国際連盟のパリ会議にて、全権代表として臨む駐仏ギリシャ大使のアレクサンドロス・カラパノス(中央)。
(出所:Wikimedia Commons / フランス国立図書館所蔵「Agence Meurisse」コレクションより)
経緯
1925年10月19日、マケドニア地方の国境線上でギリシャ兵がブルガリア兵に射殺された事件を契機に、両国間の軍事紛争が勃発した[1]。パンガロス将軍率いるギリシャの独裁政権は、ブルガリアに公式謝罪と600万ドラクマの賠償を要求する最後通牒を突きつけると同時に、懲罰的措置としてブルガリア領内へ軍事侵攻を開始した[2]。ギリシャ側の主張によれば、この軍事行動は、小アジアから流入し国境地帯に定住していたギリシャ難民が、地域の不安定化によって再び避難民となる事態を防ぐための措置であった。
これに対しブルガリア政府は、自国軍に大規模な抵抗をさせず、10月22日、国際連盟規約第11条を根拠として国際連盟理事会に事件の解決を提訴した[3]。提訴を受けた連盟理事会は10月26日よりパリで緊急会合を開き、フランスのアリスティード・ブリアン外相の議長のもと、迅速に介入した。理事会は両国に即時停戦と24時間以内の軍隊撤退を要求し、この要求が60時間以内に遵守されない場合、海軍による示威行動や、国際連盟規約第16条に定められた経済制裁を含む「連盟規約が理事会に与えるあらゆる権限を行使する」と警告した[4]。
この強力な圧力を受け、10月28日までにギリシャは理事会の要求を受諾し、期限内に軍を撤退させた[5]。その後、連盟が派遣した調査委員会の12月7日の報告[6]に基づき、12月14日、理事会はギリシャの軍事行動を不当と認定し、ブルガリアへ45,000ポンドの賠償金支払いを命じた[7]。ギリシャがこの裁定を受け入れ、1926年3月に賠償金の支払いを完了したことで、紛争は完全に終結した[8]。経済制裁の有効性
本件において経済制裁は実際に発動されなかったが、その発動を示唆する「脅し」がギリシャの行動変容を促す上で決定的な役割を果たした。この制裁の脅威が有効に機能した背景には、主に二つの目的があったと考えられる。
第一の目的は、加盟国間の紛争は武力ではなく国際機関の枠組みを通じて解決するというルールを明示することであった。特に、1923年のコルフ島事件[9]でイタリアが連盟の介入を拒否した先例を繰り返させないため、連盟を主導する英仏には、ルール違反には断固たる措置をとるという意思を明確に示す必要があった。
第二の目的は、ギリシャの過剰な軍事侵攻という「悪行」を国際社会に知らしめることであった。連盟という公式の場でギリシャの行動の正当性を否定し、国際的な非難に晒すことは、ギリシャを外交的に孤立させ、行動を自制させる強い圧力となった。
この「脅し」が有効であった要因は以下の三点に集約される。
脅しの信頼性(Credibility):理事会を主導する英仏、とりわけ海洋覇権国家である英国が経済制裁の発動も辞さないという断固たる姿勢を示したことで、脅威は現実的なものとして受け止められた。事実、当時のギリシャは輸出の39%、輸入の33%を英仏伊の三カ国に依存しており、経済制裁はギリシャ経済にとって致命的であった[10]。
対象国の脆弱性(Vulnerability): ギリシャの軍事行動は、発端となった事件に比して明らかに過剰であり、国際的な正当性を欠いていた。これに加え、当時のギリシャは100万人を超える難民の流入によって経済が極度に疲弊していた。政府は「日常的な行政経費を賄う以上の現金がなく、財政義務が無視されている」という事実上の財政破綻状態にあり、制裁に耐えうる国力は皆無であった。この深刻な脆弱性が、ギリシャの抵抗を不可能にした[11]。
迅速な介入(Swiftness): 理事会が紛争発生から極めて短期間で介入し、明確な期限を設けて撤退を要求したため、ギリシャが既成事実を積み重ねる時間的猶予がなかった。国際政治の極構造による影響
本件の迅速な解決は、第一次世界大戦後の「安定的多極構造」下において、大国の協調が機能したことを示す事例である。米国の国際連盟不参加という構造的な欠陥は存在したものの、1925年10月に締結されたロカルノ条約によって安定したばかりの欧州の現状を維持したいという共通の国益の下、英国とフランスという二大国が連盟という制度的枠組みを通じて紛争解決を主導した。
大国のパワーと政治的意思が一致して行使されたことで、連盟の決定には強い権威と実効性が与えられたのである。これは、集団安全保障メカニズムが、それ自体で機能する理想論ではなく、大国のパワーポリティクスと協調によって初めて現実的な抑止力となりうることを示している。
さらに、この成功の決定的な要因として、紛争当事国であるギリシャとブルガリアのいずれも、特定の大国と強力な同盟関係になかった点が挙げられる。しかし、この成功体験は、国際政治の構造が変化し、日本(満州事変)やイタリア(エチオピア侵攻)といった大国自身が現状変更勢力として侵略行為を開始し、かつ他の大国との利害関係が複雑に絡み合う後の時代においては、同様の枠組みが通用しないという連盟の限界を露呈させる一因ともなった。
[1] League of Nations, League of Nations Official Journal, 6th Year, No. 11, Part II, November 1925, “Appeal by the Bulgarian Government under Articles 10 and 11 of the Covenant,” 1696, https://archives.ungeneva.org/league-of-nations-official-journal-6th-year-no-11-part-ii-november-1925/download (accessed August 16, 2025).
[2] Gary Clyde Hufbauer, Jeffrey J. Schott, and Kimberly Ann Elliott, Economic Sanctions Reconsidered: History and Current Policy, 3rd ed. (Washington, DC: Institute for International Economics, 2009), CD-ROM, “Case Histories and Data,” Case 25-1: League of Nations v. Greece (1925: Border Skirmish).
[3] League of Nations, League of Nations Official Journal, November 1925, 1696..
[4] Ibid., 1699-1700.
[5] Ibid., 1707-1708.
[6] League of Nations, League of Nations Official Journal, 7th Year, No. 2, February 1926, “Report of the Commission of Enquiry into the Incidents on the Frontier between Bulgaria and Greece,” 196–210, https://archives.ungeneva.org/league-of-nations-official-journal-7th-year-no-2-february-1926/download (accessed August 16, 2025). この報告書の203頁には、ギリシャがブルガリアに支払うべき賠償額を3,000万レヴァ(45,000ポンド相当)と確定するとの記載がある。
[7] Ibid., 172-177.
[8] Hufbauer, Schott, and Elliott, Economic Sanctions Reconsidered, Case 25-1.
[9] 筒井若水『国際法辞典』(有斐閣、1998年)、159頁。「1923年8月にイタリアの将校がギリシアにおいて殺害されたことに対して、イタリアが、ギリシア政府に事後救済を要求したがこれに難色を示したため、ギリシア領のコルフ島を攻撃・占領した事件。ギリシアは国際連盟理事会に提訴したが、理事会から諮問を受けた法律家特別委員会は明快な判断を示さなかった。国際連盟下における、戦争に至らざる武力行使・武力復仇の事例の1つ。」
[10] Hufbauer, Schott, and Elliott, Economic Sanctions Reconsidered, Case 25-1.
[11] Ibid.
