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事例1【1921年:国際連盟の対ユーゴスラビア経済制裁】

※上の写真は、1913年5月30日、セント・ジェームズ宮殿にて第一次バルカン戦争の講和条約(ロンドン条約)に署名するオスマン帝国とバルカン同盟諸国の全権公使たち。
(出所:Wikimedia Commons / 『The Illustrated London News』挿絵より)

  1. 経緯
    戦間期前半における集団安全保障と経済制裁の機能を検証する上で、最初の重要な試金石となったのが、本件ユーゴスラビア・アルバニア間の国境紛争である。本件は、国際連盟が規約第16条に基づく経済制裁の発動を具体的に検討した史上初のケースであり、その後の経済制裁のあり方に大きな影響を与えた。
    本紛争の根源は、第一次世界大戦後の国境線の未画定問題にあった。アルバニアの独立は1913年5月のロンドン会議で定められたが[1]、大戦後の混乱の中で国境は流動的であり、隣接するユーゴスラビア王国(当時はセルブ・クロアート・スロベーン王国)との間で緊張が続いていた[2]。1920年12月に国際連盟への加盟が認められたアルバニア公国(1914-1925年)は、自国の主権と領土の保全を訴えていたが、1921年後半、ユーゴスラビア軍は国境を越えてアルバニア領内へ侵攻し、広範な地域を占領した[3]。
    これに対しアルバニア政府は、国際連盟規約第11条(戦争の脅威に対する連盟の行動)に基づき、連盟理事会に問題を提訴した。この動きを受け、1921年11月7日、英国のロイド・ジョージ首相は国際連盟事務総長に宛てた公式電報において、ユーゴスラビアの軍事行動を強く非難した。その上で、もしユーゴスラビアが撤退を拒否または遅延する場合には「規約第16条に基づき取られるべき措置について合意するため」に理事会を即時招集するよう明確に要求した[4]。これは、全加盟国による対ユーゴスラビア経済封鎖を示唆するものであった。
    この外交的圧力と並行して、第一次世界大戦の連合国が設置した大使会議が国境線の画定作業を進めた[5]。最終的に、この制裁発動の脅威を背景に、ユーゴスラビアは1921年11月14日、「危険な結果を避けるため」として軍の撤退を受諾した[6]。これにより、規約第16条に基づく経済制裁が実際に発動される事態は回避された。

  2. 経済制裁の有効性
    本件は、経済制裁が発動されずとも、その「脅し」自体が相手国の行動変容を促す上で有効に機能し得ることを示す初期の典型例である。
    本件における制裁の目的は、複合的であった。第一に、侵略行為は許容されないという国際社会の規範を明確化する「ルールを明示する」目的である。英国は、国際連盟という新しい集団安全保障の枠組みにおいて、ルール違反には制裁が科されることを実例で示す意図があった。第二に、連盟という公の場でユーゴスラビアの行動を非難し、その「悪行を世に知らせる」ことで国際世論を喚起し、外交的圧力をかけるデモンストレーション効果を狙った。第三に、経済封鎖という具体的な制裁内容を提示することで、それを回避したいユーゴスラビアに対し、軍の撤退を促すための「交渉の材料」として利用した。
    この制裁の脅しが決定的な効果を発揮した要因として、以下の点が挙げられる。第一に、海洋覇権国家であり世界経済の中心でもあった英国が制裁を主導する姿勢を明確にしたことで、その脅しは実行可能性を伴うものとしてユーゴスラビアに認識された点である。事実、この制裁発動の示唆は、ロンドン金融市場におけるユーゴスラビアの国債発行計画を危うくし、通貨ディナールの為替レートを下落させるなど、具体的な金融的圧力として即座に機能した[7]。第二に、復興途上にあったユーゴスラビア経済の脆弱性である。同国にとって、欧州諸国からの経済封鎖は致命的であり、国境問題という限定的な目的のために、国家経済が破綻するリスクを冒してまで侵攻を継続する動機は乏しかった。
    以上の要因が組み合わさった結果、制裁の「脅し」はユーゴスラビアの政策転換を促す上で極めて有効に機能したのである。

  3. 国際政治の極構造変化による影響
    本紛争は、第一次世界大戦後の「安定的な多極構造」への移行期において、新たな国際秩序の担い手として期待された国際連盟の集団安全保障メカニズムが、初めてその機能を試された事例である。
    この時期の国際構造は、米国の連盟不参加という構造的欠陥を抱えつつも、英国やフランスといった欧州の大国が主導権を握ることで、一定の安定が保たれていた。本件において、大国である英国が自国の利益(欧州の安定)と国際秩序維持のために、国際連盟という多国間制度を積極的に活用しようとする明確な意志を示したことは、従来の勢力均衡政治とは異なる、ルールに基づく秩序形成への試みであった。
    一方で、紛争解決の過程では、普遍的な理念を掲げる国際連盟と、主要戦勝国の国益を代表する大使会議が並存し、それぞれが役割を分担した。この二重構造は、普遍的な国際制度と大国間の現実的なパワーポリティクスが交錯する、当時の過渡的な国際政治の力学を反映している。大国のパワーと政治的意思が、国際制度の権威を裏打ちする形で一致したことで、経済制裁の脅しは現実的な抑止力となりえたのである。


[1] 木村真「ナショナリズムの展開と第一次世界大戦」柴宣弘 編『[新版]世界各国史18:バルカン史』(山川出版社、1998年)239頁。
[2] ニコラス・ミュルデル『経済兵器:現代戦の手段としての経済制裁』(三浦元博訳、日経BP、2023年)183–184頁。
[3] 同上、184–185頁。
[4] League of Nations, League of Nations Official Journal, 2nd Year, No. 10–12, December 1921 (Geneva: League of Nations, December 1, 1921), 1194, https://archives.ungeneva.org/league-of-nations-official-journal-2nd-year-no-10-12-december-1921-societe-des-nations-journal-officiel-2e-annee-n-10-12-decembre-1921/download (accessed August 16, 2025).
[5] Ibid., 1195.
[6] Ibid., 1196-1197.
[7]Gary Clyde Hufbauer, Jeffrey J. Schott, and Kimberly Ann Elliott, Economic Sanctions Reconsidered: History and Current Policy, 3rd ed. (Washington, DC: Institute for International Economics, 2009), CD-ROM, “Case Histories and Data,” Case 21-1: League of Nations v. Yugoslavia (1921: Border Dispute).

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