1年間で100冊読みたい人の読書日記 2026年6月
1年間で100冊読みたい人の読書日記 2026年5月
6/2 スズキナオ『新幹線から見えたすき家へカレーを食べに行く』

いつか過ぎ去ってしまう場所と時間がある。大切なはずなのに、気付いたら目の前の生活の中で、いつの間にか思い出すこと自体が少なくなっている。それは悲しいことだが、今を生きているというのは常に先を見なくてはならないものだ。それでも、時にそういう過ぎ去っていったものに想いを馳せたくなる瞬間がある。スズキナオのエッセイを読むと、いつもそう感じるのだ。彼が訪れた場所も、出会った人も、残念ながらこれを読んでいる今はもうこの世に存在していないことがいくつもあるが、こうしてちゃんと書き留められているからこそ、いつでも思い返せるし、その瞬間に立ち戻れるのだ。それが好きだから、僕は変わらずスズキナオのエッセイを手に取る。
6/5 高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』

民主主義は万能なものではなく、常にその在り方を巡って対話するものである。話題は別々であるようでいて、この48本の時評には常に「民主主義はどうあるべきか」という問いが続いているように思うのだ。時に国を大きく揺るがすような大震災や国同士の過去の因縁が起こった時に、その問題の解決に向かうと同時に、自分自身の考え方自体も見直して、そうあるべきかを問い続けていくこと。そして、関わる他者の意見に耳を傾けること。そういう煩わしさと向き合ってこそ民主主義は機能するように思う。だが、それを疎かにし続けてきた今、民主主義は機能不全のように感じてしまうのではないか。10年前の時評が2026年の今へ。過去と現在を繋ぐ時評でもあった。
6/6 武田砂鉄『わかりやすさの罪』

分かりやすいことは心地よい。そこには迷いもなくて、変に頭を悩ませる必要もない。できるだけ選択肢に悩むことなく生きられたらどれだけ良いだろうかと思っている。それでも、選んだ方よりも選ばなかった方、そうしなかったことにばかりに意識がいくことがある。結局、もう一度悩んでやっぱりこっちと選び直すことになるのだが、そういう迷いこそ大切にしたいよなと思った。分かることよりも分からないことに、ちゃんと目を向けること、耳を傾けること。そういう些細な意識が分かりやすさから逃れる自分なりの方法だと思っている。
6/9 武田砂鉄『マチズモを削り取れ』

マチズモ=男性優位主義の中で生きている苦しさを突き付けられるように読んだ。配慮のない同性に対する嫌悪感が募りつつ、そんな社会の中で不利な立場に置かれている性差は落としにくい水垢のようにこびりついている。少しずつ理解は進んでいるとは言え、マチズモを削り取り切れないのは、それが心地良いというよりも、変えることへの抵抗が邪魔をしているからだろう。それでも、こんな男性優位主義の中で生きていかなくてはならない生きづらさを見逃したくはない。まずは日常的な場面での想像力を絶やさずにいることがそんな抵抗力を確実に削いでいくためにできることなのだ。
6/10 武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』

第三者として考えること。それは「ある」側の言葉で埋もれてしまうものを、あえて「ない」側で語ることで見えてくるのではないかという想像力の在り方ではないか。子供を産み、育て、親になることを身の回りで見かけることが増える年齢になったけれど、自分はそうじゃなくても良いよなと思う。それは子供を持つことよりも、自分の人生を生きることを全うしたいから。常に少子化が叫ばれる日本の中で、それは求められる生き方ではないのかもしれないが、それで何が悪いのだろうか。声が大きくなりがちな「ある」側ではなく、「ない」側の生き方もアリだと強く主張できる世の中を作っていくのは険しいことかもしれない。だが、その灯を絶やさないためにも、「ない」側の声をかき消さない想像力が求められるのだ。
6/13 武田砂鉄『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』

芸能人に対しての悪意を確かに感じるのに、そこまで不快に感じないのはなぜか。対象を語る上で一旦それを受け止める寛容さがあるからだ。一方的に気に食わない部分を批判するのではなく、彼ら彼女らのテレビでの活躍、ブログやインタビューでの言葉など、その人となりを理解し、咀嚼した上で成り立っている悪口とも言える。本来、悪口とはこのくらい時間をかけて放たれるものなのかもしれない。そして、その語り口は芸能人を感情的に批判する声への皮肉のようにも読める。何か気に食わないことがあれば芸能人を感情的に叩いてしまうことが当たり前になっているけれど、人のことを嫌いになる、悪く言うというのはそんなに簡単なことではないとも思うのだ。
6/14 みかみてれん『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ 102期活動記録 ~Ties of Triangle~』

102期の蓮ノ空を突き動かしてきたのは藤島慈のワガママだった。だからこそ、彼女が竜胆祭での事故でスクールアイドルクラブから欠けてしまった時の喪失感に繋がる。ここからの物語は間違いなく重たく、抜け出せない暗闇が待っているだろう。こんなにも102期の蓮ノ空を突き動かしながら、その結束力の繋ぎ目になっていた藤島慈がいなくなってしまうから。そんな蓮ノ空102期から103期に向けて、どんな物語があって、蓮ノ大三角形の葛藤があって、日野下花帆という花咲くことを信じた後輩が入ってくるのか。過去の話ではあるけれど、繋がらなかったものが1つの軌跡として確かに続いていることを知る面白さがこの102期の物語には確かに宿っている。
6/18 青井未帆『憲法を守るのは誰か』

日本国憲法を変えようとする政党の動きに危機感を覚えたので読んだ。憲法という揺るがないものがあった上で、法律ができている。憲法の解釈が難しいから、その度に様々な価値感が行き交い、議論を交わす。日本がこれまで平和国家で居続けているのはその慎重な積み重ねがあったからだ。また、単に憲法の一文を変えただけで何かが変わるのではなく、その解釈に慎重さが失われるから危ないのだ。簡単に憲法を変えてしまおうとする危うさの中で、いかに自分たちの平和が揺るぎ、自由の獲得が難しくなるかを知ると改めて改正に対して反対側であるという自分の立場が見えた。一度変えたら元に戻らない。それくらいにこの日本国憲法を守るためにこの慎重さをまだ捨てられない。
6/19 戸部田誠 つやちゃん 小田部仁『星野源論』

『Eureka』を聴いた時に悟りを感じていたが、それは意味からの逸脱だった。いつの間にかポップスターの位置にいた星野源には、生み出す作品、吐き出した言葉の1つ1つに意味が与えられてしまった。そういう意味づけへの嫌悪感も間違いなくあるだろう。だが、そこには彼が様々な「型」の中で描いてきた「生活」があるとも思うのだ。「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」と歌ったように、この生活はただ続いていく。それなのに、そんなただの日常にさえ、僕らは色々な意味を見つけ出そうとして、正解を追い求めてしまう。そういう生きづらさから逸脱するように、この日々を生きていくこと。それが『Eureka』の悟りであり、その結晶が『Gen』というアルバムなのではないか。その到達点の凄みを知るのに欠かせない1冊だ。
6/19 滝口悠生『長い一日』

自分がこの作品の中にはいないはずなのに、なぜか「ここ」で生きているような感覚を抱いた。それは、作品の中で様々な「私」の日常の機微が営まれているからだ。どこのスーパーがお気に入りだとか、今日どこでご飯を食べようとか、そういうささやかで当たり前に思い浮かぶことは、過ぎていく日々と同じようにいつかどこかへ消え去っていってしまう。気付いたら僕らの日常は意味のあることばかりを追い求めるようになってしまったから。だが、そういう過ぎ去っていく些細なことを長い一日という時間をかけて、「ここ」で語られているから、僕らは日々生きる中で流れているささやかなことを思い出して、生きている感覚になるのだと思う。そういう日々が積み重なった手触りが残る作品だ。
6/23 Th.W.アドルノ『音楽社会学序説』

理想的な音楽作品の在り方、その受容の仕方はどこにあるのだろうかと思いながら読んだ。その問いは解消できないままに本書を閉じてしまったのだけれど、それでも思うのは音楽をただ音楽だけで語るのではなく、その周辺にあるものを交えていかに語り得るかということ。筆者に関して言えば、音楽を取り巻く社会環境を哲学を交えながら批判していくことが、1つの語り方だったのだろう。加えて、自由に哲学を繋げていく飛躍も時として必要だったのだと思う。そこに着いていくことはできなかったが、音楽を語る1つの方法として、何かと混ぜながら語ることの可能性をここで垣間見た。
6/23 長谷部恭男『憲法とは何か』

改憲やその手順の簡易化に危機感を抱いているのだが、やはりそれらは今のところ必要ないのではないか。改憲したい思惑はあるだろうが、それにしてもなぜ変えるのか、変えることで何が変わるのかが明確にならないままに改憲という手順を踏むのはあまりに急ぎ足で、冷静さを欠いているように改めて読みながら思った。改憲する前に、まずは身近な法律で我々が安心して生活できる環境を整えていってほしいと思うのだが、世の中を見ればそうなっていかないことにまた別の危機感を覚える。改憲する前にまずは我々の生活を何とかしてくれというのが政治を観察する1つの指針となった。
6/25 平野啓一郎『私とは何か』

たった一人の本当の「私」を生きるのではなく、分人を生きること。人に対して態度が変わるように見えることもあるけれど、それはその他者に対して適切な自分を提示していることになるのではないか。何よりそれは他者とのコミュニケーションを円滑に行っていくための方法であり、その他者との間にしか発生しない分人=私なのである。その意味で、分人を生きるということは他者の中に新しい「私」を見出し、それをまた他者に委ねる生き方でもあると思うのだ。本当の私という在りそうでないものに苦しめられるくらいなら、他者に「私」を委ね、そういう「私」が沢山いる方が生きやすいのかもしれない。
6/29 京極夏彦『鵺の碑』

事件の鍵を握るとあるエネルギーと反戦の意志が垣間見えた時、物語の想像力が戦前を予感させる今へと繋がっていく。話自体の面白さやキャラクターの語りの魅力があるからこそ物語は進んでいくけれど、それ以上にただの物語が現実に食い込んでいく力を感じた作品だった。そして、シリーズ最新作まで読み終えて思うのは、小説はどこまでいってもフィクションなのかもしれないが、時としてそれが今という「現実」を読む力へ変えていく可能性を信じてみたいということだ。
6/29 中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』

20世紀の中で、世界各地の音楽がいかに広まっていったのかという壮大さを感じた。例えば世界音楽のルーツはカリブにあり、それがアメリカや各地に伝播していくことでまた違う音楽が生まれていく。その意味で、様々な音楽が生まれると同時に、各地に合わせてローカライズされていったのが、20世紀という時代であり、「ポピュラー音楽」という形式なのだと思う。一方で、20世紀に比べてモノもヒトも行き交うことが当たり前になった今の時代においてリバイバルを繰り返すのは、ある程度の音楽的な行き交いが20世紀になされてしまったからこその現象なのかもとも思った。
