見出し画像

1年間で100冊読みたい人の読書日記 2026年5月



1年間で200冊読みたい人の読書日記 2026年4月


5/2 柿内正午『プルーストを読む生活』


プルーストを中心としながらも、どうもコンディションが整わない時はまた別の本を読んでみたり、あるいは本を読まなかったりしてもやっぱりプルーストに戻ってくる。そんな本と付かず離れずの日々を記録すると、人の思考が見えてくる。思わぬ形の引用でついていくのが難しい日記もあったけれど、だからこそ自分と他人の価値観の違いがあるのだよねと改めて思った。そんな思考の記録に憧れながら、本を読んで何か言葉にしてみることからであればもう既にこれがそうだよなとも思った。思考を記録することはもう始まっているという気付きに欠かせない1冊だ。

5/3 佐藤千矢子『オッサンの壁』


男性優位社会の中で、その環境に甘んじて他人への想像力を欠くことが「オッサンの壁」のきっかけを生む。日々過酷な報道の現場だからこそ、つい他者への気遣いを忘れてしまう。そういう些細で、見逃してしまいがちなことの積み重ねがこの壁をあまりに強固にしてしまった。だが、これは男性優位な場面に限らない話でもある。普段の生活でも、ふとした瞬間の想像力を働かせられないことが、静かに人を傷つけてしまうことが増えてきた。「オッサンの壁」を壊すためには社会を変えるというよりも、まずは身近なところへの想像力を絶やさないところから始まるのではないか。

5/5 村上春樹『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』

くだらない質問に的確にふざけて答える回答も好きだが、やはり小説を書くことに真剣な回答が好きだ。特に、後半の海外の読者からの鋭い質問への答えを付箋を貼りながら読んでいた。小説を書くことは簡単なように見えるけれど、それをいかに続けていくか、そして続けるために想像力をいかに絶やさないかの持続力が問われる。長編を書きながら、短編、そして翻訳と常に書くことを止めない村上春樹のストイックで孤高な営みの凄さに改めて惹きつけられていると改めて思った。それと同時に、ここに寄せられた自由な質問と村上春樹の回答に今の時代にはないある種の寛容さを感じて羨ましくなった。

5/6 長田弘『私の好きな孤独』


何気ない景色の中で思い浮かぶ言葉がある。いつもそれを捉えたい気持ちに駆られるのだけれど、いざ言葉にしてみると何か違うと感じてしまう。言葉にしたいけれど、いつもどこかに行ってしまうあの言葉たちが確かにここに詰まっている。それに気が付いてからは、綴られている言葉たちが次々と自分の中に入ってきて、思わず凄い凄いと呟いてしまうくらいに読んでいた。長田弘が紡ぐ言葉の凄さに惹きつけられるきっかけになった。

5/6 枝田氷『海をわたって砂になる』


慣れ親しんだ東京に安心感を覚えるのではなく、旅先の北欧に自然のゆとりを感じること。いつの間にか当たり前になっている生活が自分にとって心地良いようでいて、一方でその環境に縛り付けられてしまうものでもある。そんな気付きを旅行は与えてくれる。心地良かったはずの日常の見え方が変わること。そして、旅先で上手くいかないことも含めて自分が今生きていることを実感する瞬間を思うと、思い立って海外旅行に飛び出してみたくなる。旅の良さを改めて実感した。

5/6 仲俣暁生『自由について』


「自由について」をテーマに書いてと言われた時にどんなことを書くか。エッセイと思って読み始めて、最後のあとがきを読んで、そんなことを思い浮かべた。筆者の場合はかつて自由だったころから始まって、読書、以前住んでいた下北沢の情景などを題材に書いた訳だが、自分の場合はどんなものを書こうとするのか。きっとその時に自分が好きだったもの、あるいはその当時の生活をやはり自分も鮮明に思い出すように書こうと思うのだろう。その意味で、筆者がタイムスタンプを押すように文章を書くというその言葉に強く惹きつけられた。

5/8 朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』


同じ身体を共に生きるようでいて、奪い合う杏と瞬。結合児として生まれた2人の生き方は確かに特殊なのかもしれない。だが、健常者に生まれたとしても自分の身体は自己完結しているかと言われるとそうでもないよなと思った。当たり前だけれど、僕らは動物の命を摂取して自分のエネルギーに変えているし、他者がいるから、自己がいると認識できる。実は、僕らは自分の身体だけを生きているようでいて、常に他者との身体とも生きていることになる。たまたま身体が結合してしまった杏と瞬は特別ではなく、僕らとそんなに変わらないのかもしれない。

5/8 すずひら『会社を辞めて生き方を変えてからの3年間』

失敗することは意外と悪いことではない。そんな風に失敗を次に繋げていくためには、それでも自分の中で譲れないことを決めておくことだと思った。筆者の場合はそれが会社で働かないことであり、やりたいと思うことを後悔する前に動き出していくことだった。日々の挑戦の中で、先行きの見えなさに不安を感じたり、失敗に辛くなったりするかもしれない。それでも、自分の中で譲れないことがブレずに進んでいく原動力になると思うのだ。これからの人生でどう生きていくかを考えている中で、1つの生き方のお手本がここにあった。

5/10 友田とん『百年の孤独』を代わりに読む。

『百年の孤独』を代わりに読んでもらうことは可能なのか。代わりに読んでくれているのを読んでいると、『百年の孤独』の中身が分かるようで分からない。膨大な登場人物と章ごとの目まぐるしい変化。そこに読み手の脱線も重なり、混乱を極めていく。それでも、ふとした脱線の瞬間に『百年の孤独』を身近に感じることがある。思わぬ繋がりに違和感を覚えながらも、繋がりそうにないものが繋がる瞬間が読書の楽しさの1つでもあるよなと思う。『百年の孤独』だけ向き合っていたら出会うことのできなかった作品との繋がり、そして読みながら脱線してもいつか読み終わるという不思議。代わりに読んでもらうとは、読むための勇気と自由を教えてもらうことだった。

5/10 石崎嵩人『クリスマスが夏でも楽しそう』


メルボルンとニュージーランドに行きたくなる以上に、旅先で日常を過ごすことの尊さに惹かれた。観光地に出かけたり、そこでしか食べられないものをちゃんと食べたりするのも旅行の醍醐味だ。それでも、あえてその旅先を日常生活の延長で生きてみることで感じられることがある。それがその街で生きる人の息遣いだ。観光地の華やかさで埋もれてしまいそうになる、そこで生きる人の日常生活も味わう。そんな旅行に出かけてみたくなった。

5/12 帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』


いつの間にか分かりやすさばかりが求められるような時代になった。AIに聞けば何でも教えてくれる利便性は否定できない。だが、果たしてそればかりで良いのかと思うことがある。その違和感の1つに答えのでないことに対して、じっくり腰を据えて考えるネガティブ・ケイパビリティの存在があるのだと思う。分かりやすさを求める時代に、時間をかけて考えるネガティブ・ケイパビリティは相性が悪いのは明白だ。それでも、時間をかけるからこそ、1つ1つの判断に重みが宿って納得できるのではないだろうか。簡単に分かることもあれば、そうでないこともある。そういう時こそ焦らずにじっくり考えることを選べる自分でありたい。

5/15 佐々木敦『メイド・イン・ジャパン 日本文化を世界で売る方法』


どこまで行っても僕らは日本人であるから、ここから離れることができない。これまで日本文化を世界で売るためには、まず日本語というマイナー言語の壁があった。だが、その一方で、アニメや音楽は世界でも評価されることが増え、既に言語の壁は溶け始めている。であれば、それ以外の文化現象を世界に売っていくために必要なのは何か。結局のところ売れるものが答えであることは否めないような気もする。だが、それでも言えるのはマイナー言語を使い、島国に住んでいる日本性を受け止めた上でという、ある意味割り切った文化発信が勝ち残っていくのではないか。

5/15 柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』

音楽はただ聴かれる、演奏されるだけでなく、時として1つの時代性を帯びる。その1つがリバイバルという現象の中にある。その楽曲が良いからこそ次の時代にも愛されるのだろうが、そこに続く大切な価値観として、そして1つの立ち返るべきアイデンティティの在りかとして音楽が求められることもある。様々な情報にアクセスできるようになった今だからこそ、それを選ぶ意味と文脈を作り手と聴き手は必要としているのではないか。その意味で情報が加速し続ける社会の中で、よりリバイバル自体も加速していくように思える。

5/16 高山羽根子『パレードのシステム』

人の顔と死はいつも隠されてしまう。自分の顔が鏡越しでないと見られないように。死ぬ瞬間の景色がどんなものかは死んでみないと分からないように。どんなことも調べてしまえば分かる社会の中で、その2つは一向に見えないままのように思えてくる。だからこそ、人は理想の顔を思い浮かべて、そうなれないことを憂うのだし、いつか間違いなくやって来る死を想像してはできるだけ避けたいものだろう。人が生き続けるということはその2つが分からないままであることだが、それでも理解したいから僕らは言葉の力と想像力を両手に持ってその謎に迫ろうとするのだろう。

5/17 柴那典『ヒットの復権』

バイラルヒットは予測することも、人の力で生み出すこともできない。それを支えるアルゴリズムは、どんなものがどんな人にどれだけ届くかは未知数だ。それでも、「アルゴリズムの女神の微笑み」はふとした瞬間にやって来る。その瞬間に即座に反応できるか、あるいはそこに備えて準備しておくことができるかが、「ヒット」するか否かを分けているのではないか。アルゴリズムによって、僕らは思わぬ出会いとヒットの可能性に出会うことになる。だが、それはただの気まぐれではなく、良い作品は言語の壁を越えて、ちゃんと届き、売れることの可能性を秘めているのだ。

5/18 滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』

一つの景色の中にあるのは今この瞬間だけではなく、沢山の過去が積み重なっている。かつて恋焦がれていた房子の存在をきっかけに「私」が次々と思い出す過去の連続にそんなことを感じた。確かに「今」を生きているから思い出すのは「過去」でしかないのだけれど、その描写の丁寧さ、つい引き込まれる魅力的な登場人物と、いつの間にかその「過去」が「今」になるように思えてくる。そんな不思議さに強く惹きつけられながら、僕らが生きている今この瞬間も沢山の過去が積み重なった不思議な時間に見えてきた。

5/20 竹内義和『PERFECT BLUE』

思い込みが行き過ぎた人間の狂気がにじみ出ている。アイドルを応援するつもりが、理想像を押し付けて自分が守らないといけないという意識に変わっていく。気付けば、その狂気が唯一無二の正義であると思い込んでしまうことになる。そういう狂気に満ちた男の感情の変化を追いかけながら進むことで、よりその狂気が加速していくように読めた。この男は例外的なケースかもしれない。だが、そういう狂気に走る可能性を秘めている意味で、人間がやっぱり一番怖い。

5/23 蓮見翔『ロマンス』


演劇はナマモノで、その瞬間にしかない鮮度の高いものだけど、再現は難しい。一方でどれだけ時間が経っても作品として読まれ続ける戯曲の意味を感じる。『ロマンス』を観劇した時に、笑った会話劇も、印象に残った台詞も、戯曲として読んだ時に、やっぱり同じように笑ったし、印象に残っている。どちらが優れているというのではなく、演劇は生で観るのも、戯曲を読むのも、そのどちらも面白いというということだ。流行っていない(と言われる)演劇を観てみよう、戯曲を読んでみようと思うきっかけがこの1冊で良かった。劇場で観るのはその瞬間にしかできなくて鮮度の高いナマモノだけど、戯曲として読み返すことで作品は残り続けるのだ。

5/23 労働文庫『考働01』

成功体験だけではなくて、働き方に悩んで、人生が立ち止まる瞬間のような仕事の在り方をもっと知りたい。いつの間にかしっかりお金を稼いで、自分のやりたいことをやるというのが理想的なキャリアの形にされるけれど、そんなに上手くはいかない。本当は自分はこれで良いのかという悩みから始まって、人間関係、職場環境と日々の悩みは尽きない。そういう瞬間に立ち止まって、これからの自分はどうあるかを考え始める姿に人は勇気を貰うのだと思う。色んな生き方が許されているように、働き方もより自由であっていい。だから、こういう働きながら考えた人の軌跡はもっと発信されるべきだ。

5/24 みんなの日記サークル『どこでもいいからどこかへ行ってみんなで旅日記を書いてみた』

今まで出かけたことのない街から、普段の生活拠点まで「旅行」というフィルターを通すとその景色は全然違って見える。旅行とは海外でも、観光地に出かけるだけではない。どんな場所に出かけるのも旅と思った瞬間に非日常が始まるのだ。かつてはそこで過ごしていたけれど、今はもうそこにいない自分を思い出すことは、想い出と同時に、過ぎ去っていった時間を感じる切なさも含めて良いものだと思う。旅行先で自分にしか見えない日記を書きたくなった。

5/24 麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』

沢山の固有名詞とそこに宿る東京という街に対する冷笑。イメージを一生懸命に着飾る人々の批判意識を感じたけれど、読み進めていく中でその印象も変わる。自分では「これが私」だと言えるようなことが見つからないから、外側にあるものに自分を語らせようとする。そんな着飾られた「私」への批判と同時に、そうしてでも生きていかざるを得ない東京という街での息苦しさも言葉の隙間から滲み出ていたように思う。そして、そういう事を可能にさせる魔力が今もまだ東京には宿っているのだ。

5/26 菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』

「見ながら聞くことはどのくらい可能か?」というテーマから始まり、20世紀の文化現象の見え方がどんどん変わっていく。見る事と聴く事は本来別々の感覚であるはずなのに、いつの間にかそれが統合されていることに疑いもしなかった。その裏には映画とレコードというメディアの誕生と進化があり、その成長過程の中で我々の感覚も変化してきた。映画も音楽も、当たり前に受け入れて作品を語ることにばかり気を取られていたが、その中で働いている自身の感覚を疑うことで、またその作品自体の在り方が違って見える。ブラックカルチャーとヒップホップの見え方が、異端であること。そして、それがメインカルチャーとして受容されていること。その意味で、ブラックカルチャーの衝撃がいかに大きかったかが、より鮮明に見えてきた。

5/30 武田砂鉄『なんかいやな感じ』

日本の政治は急におかしくなった訳ではなく、ずっとおかしかった。平成を振り返る中で、政治家の発言、立ち居振る舞いに度々違和感があったことが分かる。それがずっと続いてしまったからこそ、「なんかいやな感じ」は拭いきれない。一方で、若者に政治への興味関心を持ってもらう必要があるというのが声高に叫ばれ続けてきたけれど、それでも関心を持たない/持てないのは、その「なんかいやな感じ」が敬遠させてきたとも思う。それでも、考えないでいると、またおかしなことは続いていく。そのために、冷静に物事を捉えながらおかしなことはちゃんと批判すること。淡々としているようでいて、そこには冷静な怒りがある、そんな筆者の文体に惹かれた。

5/30 滝口悠生『茄子の輝き』

どれだけ思い馳せたとしても過去に戻れないことは分かっている。それでも、過去に戻りたくなる瞬間がある。職場でのお茶くみ当番から、その会社が無くなったこと、そして今はもう連絡を取ることもなくなった人。今を生きているはずなのに、思い出してしまうのはかつてのことばかり。市瀬こと「私」が何度も過去を思い出しながら、時間軸がごちゃ混ぜになりながらも今を生きる姿に、過去とは思い出すものではなく、常に今と隣り合わせでそこにあるものだと思った。そして、過ぎ去った時間を今に留めるためにも、僕らは日記を書くのだし、写真を撮るのだ。

5/31 POSSE vol.61 


選挙もSNSでの呼びかけも政治を変える手段には向いていないのではないかと思うことがある。何も変わらない選挙と、時に偏った流れになってしまうSNSでの発信。それでも政治を良くしていくことを諦めないためにはどうすれば良いのか。簡単に方法が見つからないからこそ、小さな対話を積み重ねていくこと、ひざを突き合わせて語り合うこと。そういう些細なところから変革の可能性は生まれるのではないか。そして、選挙もSNSもダメになってしまったのではなく、1つの可能性として見直すこと。まずはそれが変化の一歩なのだと思う。そういう気持ちを切り替えをさせてくれる意味で、こういう雑誌があって良かった。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集