ステイ元気
一昨日の朝、5日ぶりぐらいに夫が部屋の外に出てきた。
熱は2日で下がったが、結果が出るまでは隔離してもらうことにしていたのだ。
熱が38.9度まで上がったときはちょっと心配したが、2日で解熱し、3度の抗原検査と週明けのPCRで陰性だったので、やはりドラマの夜更かしが影響したのかもしれない。
5日間ほど自宅にて自主隔離生活を送ったわけだが、これは結構大変なものだなと思った。
幸いといっていいかわからないが、夫は熱以外の症状がなく食欲も旺盛だったため、ハモン、ヤギのチーズ、パスタ、肉じゃが、カレー、プリン、カスタードなどとどれだけ食べるのだという量を食べていた。それらを作って部屋まで持っていくのは私の役目になるから、てんてこ舞いである。
お茶や食事の準備ができると部屋の前に置き、電話で準備ができた旨伝えた。食器は直接食洗機へ、トイレは使用後にアルコール除菌、手洗いが必要な食器は熱湯をかけてから洗っていた。
ここはスペイン田舎、頼れるのは自分たちだけだ。そんなとき、私まで倒れるわけにはいかないと、冷凍のグリーンピースを詰めたジップロックを足の裏にあてながら考えた。なぜ足の裏にグリーンピースなのかという話は、よろしければ後ほどお付き合い願いたいと思う。
PCRはドライブスルー方式だった。検査場所も遠い。夫はスペインでも運転できるように免許を書き換えたが、我が家にはまだ車がない。私は免許すらない。これはタクシーしかないかと考えたが、検査場に行ってからどのくらい待つのかわからないので、予算的に大丈夫だろうかと不安になった。地元の友人に経過を報告しており、おそらく断られるだろうと思いながら夫が聞いたら、「よっしゃ!、迎えに行くから明日は家の前で待っとけ!」と連絡が来た。小学校の校長先生である。
その日、学校の先生たちは祝日で時間があったらしいが、それだけでOKしてくれるような話ではない。
昨日、PCRの結果が出てすぐに校長先生に電話をした。検査当日、FFP2マスクの上にサージカルマスクを重ねづけしてきた校長先生は「まあ、大丈夫やと思ったけどな!」と言いながら、とても喜んでくれた。自分の感染リスクも心配だったに違いないのに、迷うことなく来てくれた彼には感謝してもしきれない。これからも遠慮せずなんでも頼って! と温かい言葉が嬉しかった。ちなみにこの校長先生は、その昔笑顔でワーターファと言った人であった。
そんなてんやわんやの後、昨日は何度目かの足の病院に行ってきた。
一カ月程前から踵が痛い。ぴりぴりする。海外在住邦人向けのオンライン医療相談を今月末までやっていると聞き、早速申し込んだ。歩きすぎではないですか、と担当してくださった先生はおっしゃったが、まあその通りで毎日5~6キロ早足で歩いていたのがよくなかったのかもしれない。アスファルトや石畳を早足で歩くのは足の裏に負担がかかるとのことだった。
3週間前にこちらのかかりつけの病院を受診したら、まず総合病院でエコーをしてくるように言われた。次回受診日まで冷凍のギサンテを足にあてること、というアドバイスとともに。ギサンテってあのギサンテですかと二度聞いたら、そうよと言う。ギサンテはグリーンピースである。あれが一番いいのよ、炎症をとるには、と先生。おばあちゃんの知恵袋的なものだろうかと考えながら病院を出る。
総合病院の予約をし、実際にエコーができたのは2週間前のこと。そして、再びかかりつけの病院の予約をして結果とデータを持っていったのが昨日の朝である。
エコーの結果には、炎症はないが踵骨棘があるようなのでX線で確認されたいとあった。
「じゃあ、今度はX線してきて」と先生が言い、診察は2分程で終わった。靴も脱がず、このために履いてきたかわいい靴下も見せる必要はなかった。
また総合病院に行かなくてはいけない。なぜそんなにあちこち行くのかという話であるが、病院の統合や私の加入している民間保険などの関係から、エコーとX線は総合病院でとなっているようだ。最初から総合病院で全部できればいいのだが、その総合病院にはたまたま私の必要とする診療科はない。だから、行ったり来たりしている。
というわけで、これから私はX線の予約をとり、再びかかりつけの病院に戻ることになる。
ギサンテね、と先生。
はい、ギサンテ。
しかし、炎症はないと先生は言っていた。春になったとはいえ、冷凍のギサンテは足にこたえる。
やはりお風呂がないのはつらいなあと思いながら日本語のクラスをしていたら、どこからともなくラベンダーの香りがただよってきた。
何だろうと思ったら、何かが足に触れた。
下を見たら、夫が床にしゃがんで上目遣いで足湯を持っていた。正確に言うと、上目遣いの夫がお湯とエッセンシャルオイルを入れた容器を持っていた。
5日間の看病?を申し訳なく思ったらしく、彼なりに何かできることはないかと考えたらしい。しかし、なぜ今なんだろうか。私は仕事中である。そして、クラスのとき私は椅子には座らず立っている。
どうしようかと考えたが、無言のまま何度も上目遣いで見てくるのを放っておくわけにもいかず、私は学生さんにわからないように靴下を脱ぎ、足湯に足をつけることになった。
オンラインだからこそできることなのだろうと思いながら、画面を見ると、中3女子はシャワーから出たところらしく、びしょびしょの髪のまま暖かそうなパジャマを着ており、高校生男子は半袖が寒いからか(なぜ半袖を着るのだ)毛布のようなものにくるまっていた。それを見て、まあ足湯も大丈夫かと思うにいたった。
妙だけれど足が温まるのは間違いない。極楽、極楽と思いながら、20分ぐらいすると寒くなってきた。お湯が冷たくなってきたのだ。
これはまずいな、風邪をひいてはいけないと思っていたら、左の方から紙がさっと出てきた。

なぜかわからないが、夫はこういうときに筆ペンを用いる。「どっち」の小さい「っ」が抜けているのがおしいが、「出る」を指で示すと、夫は無言で私の足をタオルで拭きはじめた。どういうプレイなんだろうと思いながら、ありがたく任せることにした。
久しぶりの足湯はとても気持ちがよかった。

やっぱりみんな元気が一番いい。
日本の友人家族から陽性になったとLINEが届き、親からも発熱したと連絡がきた。国際ニュースを見ると、どんよりとした気持ちになる。エルサレムのヘブライ語学校ウルパンで一緒だったロシア人、ウクライナ人たちは今どうしているだろうか。ロシアでは弁護士だったという女性、教授だったという男性は、エルサレムでは私たちは仕事に就けないと笑った。ウクライナから来た幼い姉妹は私を見るときゃーきゃー言い、街中でも私を見つけると、からくさー!!と駆け寄ってきたのを覚えている。
イスラエルに移住してきた人たちのためのクラスでは、現地に溶け込もうと皆必死だったからか誰が何人とかどこから来たかはあまり関係なかった。先生の前では、みんなかわいい赤ちゃんだった。しばらくの間私がヘブライ語だと思って堂々と使っていた言葉がロシア語だったことに途中で気付き、皆から大笑いされたのも今となっては懐かしい。
ウクライナの友人とは今日か明日電話で話すことになっている。十代の時にイスラエルに移民としてやってきたユダヤ人の彼女の両親は、今もウクライナに住んでいる。
身近な人たちが大変な状況にあるのはつらい。そして、それに対して何もできないのはもっとつらいのだなと思う。
私にとっての戦争はイスラエル滞在時に経験したことだ。
エルサレムに初めてミサイルが飛んできたときには、とうとう聖地まで攻撃対象になったのかと驚いた。シェルターのない家に住んでいたことで、サイレンが鳴るたびに伏せの体勢をとりながら、ああもうだめかと思ったことが数回あった。まるで赤紙が来たみたいに、招集連絡を受けた友人たちは次々と町から姿を消した。
停戦中ではあったが、友人のお兄さんが相手方から放たれたミサイルに倒れ帰らぬ人となった。戦争で自分の知っている人が亡くなるということを初めて経験した。初めて会ったとき、「ようこそ、イスラエルへ」と穏やかな笑顔で言ってもらったのが忘れられない。
毎週のように行っていた旧市街には、対立が激化していることから足を踏み入れられなくなった。別の町に住んでいたときは、夜中でもなんでもサイレンが鳴るたびに飛び起きてシェルターにかけこんだ。どすん、どすんとシェルターを通してでも体中に響くミサイルやロケット弾の着弾音またはアイアンドームによるミサイル迎撃後に破片が落ちた重い音に、これは現実なのかと、子どもの頃に戦争の話を聞かせてくれた祖父のことを思い出した。
大使館から緊急避難の連絡が届き、日本へ向かう飛行機に乗ろうと向かった高速道路では、ミサイルとアイアンドームの音が交互に鳴り響いていた。車窓からはどちらかが町の上空を飛んでいるのが見え、何度か車を降りて伏せの姿勢をとった。
情報戦に戸惑い、どこのニュースを見るか、そして物事はどこから見るかによって180度変わるという事に胸が苦しかった。住んでみないと、そして住んでいても地元の人でないとわからないこともたくさんあった。だからこそ、私は簡単にこう思うと言えなくなった。今回のこともそうだ。でも、大事な人たちが苦しんでいるのを見るのはいつだってつらい。
コロナも戦争も対岸の火事ではないと思う。私にはみんなのステイ元気と幸せを祈ることしかできないから今日も祈る。
おばあちゃんの知恵袋ギサンテの冷たさと、足湯のぬくもり、校長先生からもらった愛を感じながら。
