本雑綱目 97 若桜木虔、長野峻也 時代劇の間違い探し 峰打ちしたら刀は折れる
今回は若桜木虔、長野峻也『時代劇の間違い探し 峰打ちしたら刀は折れる』です。
新人物文庫、ISBN-13 : 978-4046010582。
NDC分類では382。社会科学>風俗史. 民俗誌. 民族誌
前提知識必要度(江戸時代):★☆☆☆☆
これは乱数メーカーを用いて手元にある約6000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。時々恣意的に選んでいることもあります。
★図書分類順索引
1.読前印象:若桜木虔、長野峻也 時代劇の間違い探し 峰打ちしたら刀は折れる
峰打ちとあるからターゲットとしては江戸時代なんだろう。僕が時代劇で書くのはせいぜい幕末以降か平安以前なので、ターゲット層とは微妙にずれてはいるけれど、今甲子夜話の私訳をしているので知識の補完に丁度よさそうな感じ。というか江戸時代って300年続くからその時期によって結構変わるところも多いけど、一方で技術的なところはお上が発展しないように規制をかけていたりとか、変な時代。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
まえがきを読む。
著者が小説家から時代考証家になったのは生育環境に遠因する。祖父母いずれの系統も戦国時代は北条家に仕える城代クラスの地位にあり、その後も明治時代まで藩士として名前が出る家だ。古文書が蔵にやまほどあり、実家の集まりでは戦国時代からの愚痴が話題に出る。その関係で時代劇に詳しくなった。巷の時代小説や時代劇に初歩的な間違いや史実の捻じ曲げが多いので筆を執る。
なんか……強いな。オリジナルの古文書は滅失するまえにスキャンしてほしい(淡い希望。
目次を見る。
『ヒトのウソ・ホント』、『モノのウソ・ホント』、『コトバのウソ・ホント』という章立ての中に各数頁のテーマが設置されている感じ。
知らないところを中心に、ヒトのウソ・ホントから『江戸時代まで正座という習慣はなかった』、『代官より力のある百姓代表もいた』、『火付盗賊改の出張旅費は長官が自費で出した』、『御庭番が「影の存在」ではない時期があった』、モノのウソ・ホントから『日本刀はなぜ両手で握るのか?』、『鉄砲団は竹の束を纏めた盾で防いだ?』、コトバのウソ・ホントから『庶民や下級武士の家には玄関がなかった』、『正式の場では本名を呼ばないのが鉄則』を読みます。
いつも通り前段はまとめ、後段は感想・雑感。
3.中身
『江戸時代まで正座という習慣はなかった』について
正座習慣が普及したのは早くとも江戸末から明治以降で、正座をするのは御白州に引き出された罪人のみである。胡坐か立膝が正式な座り方だった。胡坐は両膝を大きく左右に割り開いて足裏を合わせる。茶道は寛いだ場所での交際を目的とするため、現在の正座は当時は崩した座り方であったが、時代が下るにつれ格式化し正しい座法となった。板の間が畳敷きとなり、座布団が普及したからだろう。三つ指も髷の崩れを嫌った吉原の遊女が始めた中途半端なお辞儀であり、武家の子女は胸を張って挨拶した。ふすまの開け方も戦闘を前提とするならば、つま先が入るくらいは立ったまま手で開け、抜き放てるよう懐剣に手をかけながら足で開けて入る。
両足裏をつける胡坐って平安絵巻にあるやつか。そう考えれば色々納得できるところがある。あの胡坐の体勢から攻撃に移るのは容易ではない。多分一番攻撃から遠い姿勢だから、おそらく殿中とか高貴な場所ではあの座り方をしたのかな。そして立膝は逆に攻撃に移りやすい座り方で、なんなら刀を傍らに置いていればそのまま抜き打てる。そう考えればこれは戦時の作法だろう。なんとなく胡坐と立膝は両方とも正式な座り方だったとしても、そこには温度差がある気はする。それとは別に三つ指やふすまの開け方なんかは知らなかったところで、理にかなっているのでこの辺を書くときに留意しようと思う(でも多分改めてはかかない、詳細な描写をしても読者が混乱するだけだろうから)。
『代官より力のある百姓代表もいた』について
徳川の江戸時代が厳しい時代であったというのは明治政府の言葉狩りに基づくプロパガンダで、戦国時代は合戦に敗れたトップとその一族は粛清されたが、幹部家臣は収入を維持できる形で残され幕府に吸収された(本領安堵)。そのため天下統一は短期間で推進された。全ての家臣を召し抱えることは不可能だったため、百姓を兼業していた武士は百姓の専念を定められ、名主、庄屋、本陣、百姓代といった村役人階級が発足した。このような成り立ちから、村役人階級が吸収された大名家臣団より下であるとは限らない。年貢の検見法(毎秋の収入により年貢高を確定)と定免法(過去十年の平均を基礎に年貢高を確定)の決定は村役人の了解が必要だったし、合意しない場合は代官のほうが首になることがあった。秀吉が刀狩り・太閤検地をする前の百姓は武装集団で、武器を取り上げる代わりに土地所有身分を確定させた。
江戸時代の士農工商は明治政府がこじつけた概念であって、百姓は江戸時代は極めて苦しい生活に置かれたというのが明治政府のプロパガンダという話は最近通説になっている気はする。ところで武士の起源は様々あれど、戦国時代ごろでは農業や他の職業についていたものを徴兵して用立てるのが一般的だったはずだ。織田信長が土地と切り離して兵農分離(専業兵士化)したという話があるが、例えば蜂須賀氏は木曽川の水運業をやっていたのをスカウトしたものなので、そもそも『武士』とは何かあるいは自分が武士なのかという認識がそもそも戦国時代にあったのかという点には少々疑問がある。その一方、僕は室町当時の土地の所有関係がどうなっているのか知識が不足しているので、時間があったら調べてみよう。平安前期から戦国末まで知識がごっそりないんだ(そもそも日本史履修してないから)。
『火付盗賊改の出張旅費は長官が自費で出した』について
火付盗賊改の行動範囲は広く、越後等も行動範囲に含まれていたが、出張費用は長官からの支給だった。越後からの訴えをうけた当時の長官船越は、同心を越後に派遣し数日で七人を捕縛したが、江戸護送までの費用をだれも出さなかったため、同心たちは盗賊を釈放して江戸にもどった。船越は江戸までの護送費用を交渉した後、同心を再び派遣し吟味したところ、当該盗賊団は略奪防止に村々が雇った用心棒で、痛い目に合わされた盗賊団が虚偽の訴えを起こし、拷問で虚偽自白を得たことが判明する。他、日本左衛門の件等について。
新潟と聞いて、現代の裁判管轄も関東高裁管轄は新潟までで遠すぎるだろと思っていたんだど、江戸時代に新潟までいくのは大変だよな。火付盗賊改が護送も行ったというのはよく考えれば当然(他にする人がいない)なんだろうけれど、訴えた地に移送するのもなんだか現代と同じだなと思う。でも連れて行くのは極めて大変だろう。火付盗賊改長官の収入はよくわからないが付け届けみたいなのも多かったような印象だから、ちゃんと賄えていたのかな。江戸時代の歳入歳出はいまいちよくわからないところ。
『御庭番が「影の存在」ではない時期があった』について
忍者が人知れず暗躍していた戦国時代から時間が流れ、政権が盤石になるにつれ影の存在だった忍者は旗本として出世し屋敷も構えるようになる。吉宗は彼らを隠密業務と並行して飢饉時の各地の救荒作物の蒐集に従事させた。本格的な飢饉に際して御庭番兼業では間に合わず、民間人を発掘するように命じて登用されたのが青木昆陽や田中丘隅(本名は田中休愚)らである。また、吉宗はキリスト教以外の文献を多数輸入して天候について研究し、様々な土木工事を行った。検見法から定免法に変更して役人を減らし、多方面に人を回した。江戸後期になれば御庭番は外務官僚として活躍し、動きの遅い幕府に先駆けて活動していた。
忍者の役職というのはよくわからない部分も多いものの、江戸時代のある程度経過した後は将軍の外出に付き従い、その際の服装なんかも決められていたと記した本を前に見たことがある。書名は忘れたけど、思い出したら追記しよう。ところで忍者というのはそもそも忍ぶものなわけだから、その本旨に従えば資料が残っているはずないよなぁと思いつつ、この項ではむしろ吉宗が気になった件について。江戸時代も幕末以外はほとんど知らないんだよな……。吉宗のイメージが暴れん坊将軍しかなかったことに気が付く。
『日本刀はなぜ両手で握るのか?』について
中国やアジア他国でも刀剣は片手で持ち、もう片方の手には盾、或いは刀剣をもう一本もつのが普通で、西洋剣術でも長大な剣以外は同様だ。長くて重い刀剣を使う場合は両手で持つことから、南北朝時代の大太刀、野太刀が流行したから両手で持つようになったのではないかという説がある。当時戦場では弓矢、槍・薙刀が用いられ、これらが使い物にならなくなった時に副次的に太刀を用いるところ、他のものは両手武器であるので同様に両手で持つようになったという説がある。大太刀や野太刀の誕生は槍や薙刀をいくつも抱えていくのが大変なので一つで用を成そうとし、槍や薙刀に対抗するために刀身が三尺以上ある刀が登場したのではないか。寸法の短い脇差は片手で使うのが基本である。
何かで斬馬刀(日本)を生で見たことがあるけれど、両手でも化物しか持てないだろっていうくらい狂気的にでかかったのを思い出す。馬上で振ってもスタミナやばそう。基本的に南北朝から戦国期に両手で持つような太刀が流行り、その時の流行というか流派が後世まで残ったのではないか、というのは頷けるところ。でも居合とかは片手だよなと思いつつ、あれは刀身を滑らせるスピード勝負だからまた別なのかといろいろ疑問は沸く。なんとなく、日本の刀剣術は盾を想定していな気はする。おそらく刀は盾で受けるものではなく体さばき等で避ける(ずらす?)もので、それを前提に技が組み立てられているような? けれどこれは剣術としてまとまって後の話で、戦国時代は鈍器だっただろうとも思う。剣術はやったことがないのでよくわからないけど。そういえば前に日本刀とサーベル戦書いたけど、あのサーベルは本式のものより随分刃が厚い気がしてきたから後で確認してみよう。武器によって重心の置き方や体の使い方、つまるところ戦い方が随分違うんだよね。
『鉄砲弾は竹の束を纏めた盾で防いだ?』について
対鉄砲には鉄板を張った鉄盾もあるが、貫通しにくい工夫として竹束を纏めた盾が用いらた。真球の弾丸があたると繊維によって軌道が曲がり、貫通力が失われる。簡単に作れるので大坂の陣等に用いられた。笠の内側に鉄板を張って防具とする工夫も残されている。ある武術流派では鉄扇を用いて手裏剣を叩き落す。日本と中国の扇子術の差として、日本では和紙を張り外側の親骨だけが鉄だが、中国では布を張りすべての骨を鉄で作る。使用方法も異なる。
どうも竹の束の盾というのがピンとこなくて調べたら、盾というよりは壁のようだ。3~4人隠れるほどの厚さに隙間なく竹垣を組む。戦国当時は次弾装填に時間がかかるから、ある程度効果的だったのかもしれない。ただ真球の弾と書いてあるから、現代のような細長い円柱形では貫通するのかな。鉄扇で球をはじくとか刀で弓を切る(厳密にははじく?)という話はちょくちょく聞くんだけど、目で見て間に合うものなんだろうか。音で判別してたのかもしれない。或いは殺気。なんかそういう戦い書いてみたい。戦闘はいいぞ。でも敵を無力化する工夫とか卑怯戦も好き。
『庶民や下級武士の家には玄関がなかった』について
玄関は騎乗が許される上士身分の武士のみに許され、徒士(徒歩)の武士には許されなかった。玄関の概念も現代と異なり、玄関扉を開けると広い土間があり式台が張り出していて、ここに駕籠を入れて横づけして地面に足を下ろさずに式台に乗れることが必須である。一般庶民の家にはせいぜい上がり框しかない。一方で庶民でも名字帯刀の名主、庄屋、本陣の者は玄関を構えることが許されていたが、これは戦国時代は騎乗身分の武士であり、往時の生活の維持を容認したためである。
玄関感に現代と時代差がある気はするが、あまり気にしたことがなかった視点で面白い。上がり框と式台について調べてみると、上がり框と土間の間の高さを埋めるための間サイズのものが式台だとあった。この認識で正しいのか少々心もとない。
『正式の場では本名を呼ばないのが鉄則』について
呪殺するには本名を知る必要があり、正式な場では本名は隠された。例えば柳生宗矩は惣目付を経て大和柳生庄を領する大名となったが、柳生又右衛門宗矩、柳生但馬守宗矩と変遷しているため、「又右衛門殿」または但馬守に就任して以降は「但馬守殿」と呼ばなければならない。役職はその時点では一人であるので、例えば重複した場合は下位の者が改称する。例えば永井尚志(旗本)は玄蕃頭に任じられていたが、田沼意尊(大名)が玄蕃頭に任じられた際に下位の永井は主水正に転任となり、田沼が解任となった際に玄蕃頭に復帰し、その都度呼び名を変えている。また、故人は戒名で呼び、吉宗の死後に吉宗を指すときは「有徳院様」と呼ぶ。大名の奥方は夫が死ぬと仏門に入り戒名を得るので戒名で呼ぶ。甲子夜話の松浦静山は正式には松浦壱岐守清だが、静山は生前戒名であり、フル戒名は豊功院殿静山流水大居士である。
これ、まじで文献読んでて困るやつ。石川壱岐守って誰なんだよみたいな。ひょっとして探したらどこかに年代別対応表とかあったりするのかな。誰か検索できるデータベース作って! あと士農工商的な身分関係は存在しなかったけれど、大名旗本的な武士内での上下関係は結構厳密で、でもよくわからないところでお心を効かせて融通したりするので本当にややこしい。そういえば甲子夜話では故松平豆州という人がでてくるんだけど、故ということは死んでいるはずで、生前役職名で呼んでいる。戒名で呼ぶというのは口語的なもので書面では異なるのかとか、色々名称問題は困る。まあ平安になるとそもそも名前が残ってないこともままあるからそれよりはましか。
まとめ
全体的に、気がついていなかった視点も多々あって勉強になった。結局全部読んだ(最近このパターン多い)。とはいえそもそも江戸時代は長く、全ての時代にわたって通じるのかとか前述の文書だと異なるのかとか精度的によくわからない部分も多い。なのでやっぱり都度自分で調べるのが重要とは思うんだけど、おかしいなと気づけるかどうかっていうのも経験則なんだよな。なかなか難易度が高いです。
小説に使えるかというと、江戸時代を描くのなら一通り目を通してもよいと思う。あとですね、武士を書くならやっぱり武術やるべきだと思った。なんていうか体の動かし方とかそういうので直感的に違和感を持つ部分ってあるんだわ。でもラノベなら「キンキンキンキン」でいいらしいからいらない気はする(別に揶揄するつもりはまったくないかというと否定できないところがあるけれど、見たいものが違うからこれはこれで別に)。
4.結び
実のところ、若干本当かなと思うところはあるんだわ。どこがとはあえて指摘はしないけれど。なのでわりと本格的に書くならやっぱり自分で調べるべきなんだけどさ、AIとかに頼り始めるとこの勘所は全然育たないんだろうなとは思う。僕は全くAI否定派ではなくて文房具だと思ってるから使えばいいじゃんとは思うんだけど、しばらく前にGoogleのトップに紀貫之が女流作家とでてからこの国はやばいんじゃないかと思い始めた。時折ツイッタでAIが言っていたことを根拠にして大上段に威張り散らしてる人がいるけれど、AIは正解ではなく大多数の正解の認識を提示するだけなので、ちょっと怖い。
次回はベルトルト・ラウファー『ジャガイモ伝播考』です。
ではまた明日! 多分!
★似たテーマの本
これは習俗の話だし明治の話だからだいぶん違うんだけど、僕の蔵書は江戸時代より明治についての本が圧倒的に多いので、まあ致し方ない。
★一覧のマガジン
#読書 #読書レビュー #レビュー #うちの積読を紹介する #書評 #読書感想文 #note感想文 #読書記録 #最近の学び
