本雑綱目 90 今村仁司編 現代思想を読む事典
今回は今村仁司編『現代思想を読む事典』です。
講談社現代新書 921、ISBN-13 : 978-4061489219
NDC分類では103。哲学>参考図書[レファレンスブック]
前提知識必要度(哲学概念):★★☆☆☆
新書なのにめっちゃ分厚かった記憶がある。
これは乱数メーカーを用いて手元にある約6000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
最近長い傾向にあるので、目次を置くことにした。
1.読前印象:今村仁司編 現代思想を読む事典
分類がレファレンスなので事典なんだよなと思いつつ、現代思想とはなんだろうと考えると、共産主義とか社会主義、資本主義は比較近代にうまれた思想だし、哲学だとすると構造主義とかもうすこし前だと実存主義とかも入るんだろうか。哲学はすごく基礎的なところと以外は局所的に知ってるくらいで、大局的にはあんまり知らない。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
はじめにを読む。
古典思想を語る者は現代思想を見下したり無視する。古典研究から始めることは正当であるが、現代的な思想を否定するのは病的だ。この現代思想へのアレルギーは古典崇拝に隠れて自らの思索を放棄した精神の怠慢である。古典思想も当時は現代思想であり、鋭ければ弾圧された。最初から秩序だつ言葉などない。現代との対決のなかで生まれる言葉こそが生きた思想である。客観性などその後の討議次第である。本書は20世紀に登場した重要な思想運動のエッセンスに触れる基礎用語を収録する。辞典である以上正確性という客観性を重視するが、同時に哲学者の主観性を強く出すことにする。
思想なので主張がなければたしかに意味がないし、ピンとこないのは間違いない。そもそも哲学という学問には縁がなかったけれど、古典研究者は現代を馬鹿にするの? 人の精神も周辺事情や環境に応じて進化かはわからんが変質しているものだと思うのだが。
目次はあいだ(間)から始まってアイデンティティ、アクティング・アウト、阿闍梨コンプレックスなど各項目1,2頁のものがあいうえお順に続き、ところどころ著者が重要なものと考えているものが大きなフォントで書かれている。その大きなフォントを抜き出すと、『新しい歴史学』、『イスラーム』、『イデオロギー』、『ウェーバーの思想』、『エディプス・コンプレックス』、『家族』、『貨幣』、『管理社会』、『儀礼』、『現象学』、『権力』、『構造主義』、『コミュニケーション』、『資本主義』、『社会主義』、『シュルレアリスム』、『情報社会』、『スピノザの思想』、『生産様式』、『贈与』、『ダーウィニズム』、『ダダ』、『テクスト論』、『ニーチェの思想』、『フェミニズム』、『物象化』、『フロイトの思想』、『ヘーゲルの思想』、『弁証法』、『暴力』、『マルクス主義・マルクス思想』、『唯物史観』、『レヴィナスの思想』、『労働』がある。うーん、上記以外でも異化、カーゴ・カルト、記号論、語用論、シニフィアン・シニフィエ、受容美学、認識論的切断あたりは気になるんだけど、とりあえず大文字書きの奴をざっとよんでみます。多いけど1単位は少ないのと(とはいえ極大文字は10ページくらいあるが)、基礎を押さえるのだ。雑多タイトルな家族は共同体論で贈与はレヴィ・ストロースなのかなとか想像がつくしなんとかなるだろ。そんなわけでこれまでイチ文字数は多い。
いつも通り前段はまとめ、後段は感想。
3.中身
『新しい歴史学』について
60年代を境目に欧米で急激な変貌を遂げた歴史学は、自らに課していた自己限定の枠をはずし、人文・社会学の各分野において横断的多角的な角度で検証が行われるようになった。その最たるものが歴史人口学で、家族形成を巡る従来の歴史像は変更を余儀なくされた。またこの変革は歴史認識における時間と空間の多層化をもたらす。従来は短い時間の枠組みを前提としていたが、人と社会の長期的な持続要素や構造的要素に着目し、一国的史観やヨーロッパ中心主義、進歩史観を否定する。また、民衆という日常性を重視し、物質的な生存条件のなかで人々がどのような精神活動を形成したかを問う。技法的にも数量化され、資料が残っていないものも含めて資料化が進んでいる。
改めて言われれば少し前まで人類は時間がたてばたつほど発展し続けてよいことが続くと当然に考えられていたわけで、多分ディストピアの発想って悪魔つきみたいなイメージな気がしてきた。文系は何故だか縄張り意識が強くて、今も考古学と民俗学の仲が悪いイメージがある。
『イスラーム』について
西洋はイスラームは過ぎ去った価値として手前勝手に評価し、その中核となすタウヒードの教えを無視した。タウヒードとは一化の精神であり、一為る神を源として世界の全てが存在として等価である。キリスト教では聖と俗、精神と物質を二元的垂直に分け、イエスが贖い主として十字架に登るというドラマがキリスト教徒の独特な心象を形成しているが、イスラームにおいてはマホメッドは神の言葉は伝えるものの存在としては水平的に等価である。人は様々な能力や差異があるが優劣はなく、多くの能力を授けられた人間は共同体のなかでより多くの責務を果たす。このようなイスラーム的価値観は西欧が量子力学の発想やDNA理論に基づく生物学理論によって人間が最高であることを否定し(注:おそらくDNA的には全ての生物が等しく観測されると言う意味合いと思う)、デカルトがいう個と神の対比から社会から人を考える構造主義への発想の変化に現れている。
意外なところで価値観の転換を自覚する。科学と宗教はやっぱ原理原則が相いれない宗教で、今は科学が優勢なんだなと改めて思う。前に何かで書いたが、僕は科学は物理定数が不変である事を狂信した宗教だと思いつつも、実際のところ定数はそうそう変わらないだろうとも想像しているので、科学の信徒です。あらためて同じ一神教でもだいぶん発想が違うよなって思うところで、むしろ個人主義的なところを除くと道家(道教ではない)に似てる気がしてきた。そういえばオスマン朝のデウシルメではキリスト教徒の子弟を奴隷徴兵しても後に宰相になったり王になったりするよなと思う。西欧では奴隷は改宗しないと自由民になる、というかコミュニティに入るのが困難だったはず。なおイスラム教原理主義というのは古神道みたいに近年にできた概念なので、あれをもともとのイスラームと考えるとちょっと違う。
『イデオロギー』について
この語の初出はトラシーの『イデオロジー要論』で、観念の論理学の意。宗教や哲学等の社会によって規定されたものは全てイデオロギーと呼ばれたが現在ではこの考えは廃れた。イデオロギーの社会的機能は現存秩序と権力の正当化機能であり、有効に働くには構造に参加する者の同意が必要である。当該同意を無意識レベルに取り付けることがイデオロギー固有の動きで、暴力の強制と異なり自発的服従を植え付ける。
構造主義的に書かれているが、国民の均質性を前提としているからWEBによっていろんな垣根を飛び越える現在及び未来は情報統制をしない限りイデオロギー的な動きは難しくなっていると思う一方、情報統制による知識の均質化によってかえって思想統制がしやすくなっているような気がしなくはない。
『ウェーバーの思想』について
ウェーバーの思想は比較文明論的視座とこれを明らかにするための社会学的方法であるが、彼自身は西欧文明偏重から近視眼的になっている。それはそれとして宗教と社会層を媒介するものとしてエートス概念を取り上げ、歴史の多元的相関的視座への道を開き、価値相対主義を説く。
今の中学生の歴史の教科書って世界史と日本史が一つの本に収まっていて世界の動きの中でのそれぞれの歴史把握を前提としているのは、このウェーバーの理念が起点なのだなと思うと感慨深い。最近になって漸く市民に浸透してきた概念だよな。
『エディプス・コンプレックス』について
フロイト的に人の成長は男根を中心として形成され、家族関係や禁忌について学習する。男児は父を愛着と同時に嫉妬し不安を抱く等の心の動きをもたらす等。
近年全てを男根に結び付けることで評判を低下させているフロイトさんですが、この思想は当然ながらとてもフェミと相性が悪いものの、当時の時代背景を考えれば社会的役割や宗教・民俗も含めて男性中心主義だったために女性を主体とした概念が浮かびずらかったのはある意味当然であるだろうという事情を完全に無視して時空を超えて殴りに行きたいほど憎しみを抱いている層はカルシウムが足りないのだろうかと思う。
『家族』について
家族は人と動物を分かつ特色であり女性が育児を担うことによっていつでも生殖が可能となった。家族成立の最小要件は①近親婚禁止②外婚制③コミュニティ④配偶者分業といわれていたが、近年①②④は人固有とみなすのは難しいと指摘され、③のみが最小条件と考えられる。人が友好関係を築きうるのは言語による相互関係及び共同行為の構築により、この維持のために様々な婚姻関係が生じた。
家族といいつつコミュニティに話を広げればすでに主題は家族ではないのでは、という気はしなくもないが、共同行為は犬とも成立するので必ずしも言語が必須かは少し疑問。極論をいうと同種生殖だろうとは思うんだけど、じゃあ鶏姦の位置づけは消費かとか頭が少しこんがらがる。
『貨幣』について
近代では非物質的なものも含めて全てが商品であり価値物であり、価値地平の形成をにより相対的に価値を有しこれが自律的に運動することによって貨幣自体が価値となり、貨幣に依存した社会は資本主義経済へと展開する。また物と物の交換は直接的には不可能で、貨幣という特別の第三者の迂回が必須であり、これを回避するには権力(あるいは神)によって絶対的な価値を創生する必要がある。
異文化における貨幣なしでの直接交通は不可能と書いてるんだけど、古代の沈黙交易ってダイレクトにそれなのではと思うんだが、この本が古いせいか僕が何か勘違いしているのか。経済論は門外漢なんだよな。
『管理社会』について
統治者から見れば管理社会は良い社会である。完全に管理された社会では私(公に対する)が消滅し、個人の自立性が欠如する。そもそも私が存在する限り他と対立するため派閥と闘争は消滅せず、管理社会と自律社会は両立しない。
管理社会っていうとディストピアに直結するのは多分このあたりからくるんだけれど、僕は私というものは様々な関係性の中で浮かび上がるものなので完全な管理社会の緩やかな幸福という方法も否定しなくていいんじゃないかなと思っていて、というか管理社会と戦う話ってそれは既に完全に管理されてないからそもそも完全な管理社会に失敗してるんだよ。
『儀礼』について
宗教儀礼とは典型的な一定の形式に習慣化された行動と表現であり、シンボル化され日常的意味から切り離された行動様式が特定の社会的意味(共感性や通過儀礼、時には反構造)を生じさせる。儀礼が超越存在を生み秩序構築に向かうには暴力を含む社会構造としての力の関係から把握する必要があり、非該当者を排除することによって権威の正当化をもたらしうる。
この方向の儀礼の性質についてはこれまであまり意識していなかったのでわりに参考になったかもしれない。極限まで抽象化された儀式の中で何かの秘密を見つけ出す試みはミステリーに似てるから、この切り口で殺人事件とか立てれば面白そうとか不謹慎なことを考えてみる。
『現象学』について
基礎概念は心理的働きの所産とする心理学主義は学問の基礎から普遍性を失わせ、文化の全ては歴史の所産だから相対的という歴史主義はその立場すら相対的にするという批判を受け、フッサールは論理学的基礎概念は理念的な即時的存在で使い方を超えて妥当すると主張する。様々な前提を除去し超越論的な自我との相関を考えれば、意識の志向性の産物であるとわかる。
この辺の実在論とか現象学で前々から違和感があるのは超越存在を人間が把握定義できるものかという点で、確かに宇宙論や量子力学は虚数時間や13次元(またはより多数)を想定して議論してたりするけれど、いずれ仮定なんじゃと僕みたいな雑頭ではエアバトルにしかみえない。
『権力』について
権力には支配の概念が含まれ、多くの学者がマルクス主義の観点から分析する。17世紀では自然的な力を自己保存の力と呼んだが、個人の自己保存は他者のそれと対立し、ホッブスはこれを万人の万人に対する戦いと呼ぶ。この暴力発現を抑止し教導秩序を作るものが権力である。権力は聖性と穢れ性という二側面を有し、排除される外部があるからこそ共同体内のイデオロギー的正当化がなされ儀礼を通してその内部では自発的服従を自明化する。
この辺は異人論でよく語られる構造だけれど、最近読んだ本では基本的に外部を穢れとする一方訪れる異人は他の神でもあるので聖性を有するから聖穢はその力による相対的な概念だなと感じていて、それとは別に外部的な穢れを近代の西洋的解剖概念で病気として分類したことによる一個人の中に個別に穢れを内包して生き苦しくなったという理論がわりに好き。神とは。
『構造主義』について
構造主義自体が多義的だがこれによって人間という主体中心から人間が構造の一要素でありそれが形作る社会という枠組みに視座を移した新しい科学認識を打ち出した。
改めて考えるとこの認識の転換というのはものすごく大きなもので、神概念が世界的に陳腐化したのも構造主義によるところが大きいと思う。
『コミュニケーション』について
コミュニケーション(以下、コミュ)という語は多義的だ。発信受信の立場に基づく情報理論は言語を解すコミュの一部で、言語外の記号概念を有する人間は他者の態度を取り込み自我を形成する。そのためコミュには社会的役割形成の側面を持つが、近代マスコミは受け手が受動的になり大衆操作の可能性を開いた。交易交換をコミュに含めれば義務的贈与返礼の研究は経済人類学に大きな影響を与える。
コミュで1枠使うのは幅が広すぎて無理かろうと思う。ここにわざわざ記載するより各項目で詳細を書いてリンクを張る方がよい。これまでも教会教訓なんかはマスコミ類似の働きをした気はするが、マスコミは受動者が自ら選んで情報を受け取るという無自覚なリアクションから信じ込みやすいのかなと思った。各自が再発信源になるだろうし。
『資本主義』について
資本主義の条件は①商品生産と交換が一般化し社会分業体制がある、②生産者が生産手段から切り離され概念的に賃労働者化することが必要である。つまり資本主義は形態は様々あれど、資本家が賃労働者を搾取し剰余価値を追求する体制であり、直接の人的結合を超えた労働の社会的結合の体系を作り出し、イデオロギーを取り込んで社会構成として自律した。
改めて考えれば資本主義強すぎる。変えるには多分再び生産者が自ら業を営む必要があるんだけど社会は資本主義にFixした形式で複雑化し政府は殺しにかかるから、QOLが高止まりしない限り資本家を切り崩すにはやはり完全な管理者が必要か。
『社会主義』について
資本主義的所有・搾取・階級関係廃止による経済システムの変更と生産管理による平等配分を目指した社会主義は、産業革命以降の窮乏化や貧困という弊害を批判してきた。そのほか社会主義や共産主義思想の歴史的展開について。
社会主義が資本主義に負けたのは、欲が抽象的だったためだと思う。資本家は富を搾取すればするほどQOLが向上し、その独占と発展のために強烈な欲という変革への強い原動力を持つ。翻って社会主義は労働者の地位を向上するために革命し資本家の立ち位置を相対的に平等にするものであって、その運動は相対的にはさておき、自分が得することが目的ではない。羊飼いとして暮らすならともかく、人は共同体に所属する以上、相対性という価値概念に基づき欲得したいという思考を抱くのは、その性質からして仕方がなく、それが強い方が精神論的にも勝ちに来る。
『シュルレアリスム』について
シュルレアリスム宣言によってシュルレアリスムは人が美的または倫理的つまり理性の管理なしに行う心的自由活動と定義されたが、その後精神の全面的開放手段と定義されてトロツキーに傾倒した言い出しっぺのブルトンによって革命運動として展開され、当該運動はブルトンの死によって終息した。
宣言(といいつつ結構な長文なんだ、あれ)の熱に浮かされたみたいな意味不明な文章は嫌いじゃないんだけどさ、それがその後ブルトンの革命運動というある意味理性的な行動原理になってしまう不思議。ダリとブリュネルが夢を映像化したという『アンダルシアの犬』をいつか見てみたい。
『情報社会』について
1970年代から使われるこの用語は従来の産業社会とは異なる新しい社会形態として認識され、地域や社会のネットワーク化を構想する。この便利な社会をユートピア視するのは危険だ。何故なら脳内で行っていた情報を外部化するもので、脳内までも所有者と被所有者の分化をもたらす資本主義の支配関係の再編成をもたらす。
これは少し古い本なので、危険性はともかくとして情報化社会というものの理解が昔の世代だなとは感じる。実体としては確かに二極化はしているがそれはマスコミュの仕業という側面からの見方が強く、むしろ人は人の体外に自己を拡張しているのではないかと僕は感じるのだけど。自分の辺縁を曖昧にしすぎると荒ぶるツイ民が増えて面倒なんだけどさ。
『スピノザの思想』について
デカルトが思考する真たる私のもつ観念から真偽をもとに世界を統一的に定義したのに対し、スピノザは世界から受容する直感知を起点に理性的推論によって世界を定義する。デカルトの有する存在と認識の相互関係に基づく不安定さを克服するため、スピノザは全を唯一の実体として延長と思考を属性とした。その他略。
デカルトを一部小説にしたことあるんだけど、スピノザもしたいんだよ。ただ概念が抽象すぎて物語にぶっこむにはちょっと大変なんだ。なんとなくスピノザはPCのツリー構造に親和性がある気がする。時代的にデカルトもスピノザも神をどう扱うかという観点がとても面白いんだけど、3行で書くのは無理なので割愛。
『生産様式』について
マルクスがこれまでにない諸用語をたくさん創設した一つが「生活様式」であり、賃労働者である人間及び道具体系を含めた生産諸力と、この所有を巡る支配たる生産諸関係の結合と述べる。
言葉というものは世界を作る。言葉を定義するということは世界に新しい概念を生み出すと同義であり、そう考えるとマルクスはこの世界に様々な概念を作り上げてそれを思考の基底に置くことを矯正したと考えれば、その思想はとりあえず棚上げにして凄い奴だなと感じる。まあ光アレで光ができたみたいなものだ。なんかそんな話が書きたいというかその戦いをうちの話でちょくちょくやってるので、この観点で修正しよう。
『贈与』について
贈与交換について現在①贈与が社会契約論(国家保証)と同程度の重要性を持つ、②贈与は多面的な全体的社会事象である、③贈与考察が産業社会の商品交換を相対化する、④多くが記号論的議論がなされる、という点が議論される。
未開社会での贈与交換は適切な返礼ができなければ相手の支配下(所有)に入るという観点がスルーされてる気がするけれど、この贈与交換文化は反資本主義が嫌いな方々は憧れを抱くものだということを認識している一方、お中元お歳暮近所づきあいなくなれと思っている僕は資本主義の下僕です。
『ダーウィニズム』について
ダーウィニズムとは種の起源による時間経過による斬新的変化と自然淘汰を重視するものから、実験研究に基づく集団遺伝学を根拠とした突然変異からの自然淘汰へのネオ・ダーウィニズムに変化し、これが現在の基本である。60年代以降分子生物学の発展により突然変異はDNA複製時に生じたエラーでありこれが世代を通して集団に固定される過程と解釈されるようになった。
これは実験ベースでそうなのだから、そうなんでしょうねとしか。ところでアメリカでは未だ半数近くが進化論否定と聞くが、僕はキリスト教という神を中心とした宗教と物理定数は普遍であることを中心とした科学という名の宗教の宗教的戦いであると考えているので、僕としては不思議でもない。科学の徒が信者に何故理解しないのかというのは信者が科学の徒に神の言葉を何故信じないのかと言ってるのと同じで、自分絶対正義がすれ違ってるんだよ。
『ダダ』について
ダダ宣言は宣言の意味自体を無効化するメタ宣言であり、一切の秩序とシステムを拒否する破壊と否定の肯定及びダダは何も意味しないというとてもアナーキーでヒステリックな時代感に後押しされた叫びであるが、精神状態として見直してみればダダは①単なる否定と破壊ではなく否定/肯定、破壊/想像という二項対立システム自体の拒否からくる無秩序状態を求め、②反戦を基礎としても文字そのもの以外に裏の意味を置く言語文化を破壊することによって言語に基いて成立する世界を転覆しようとしたが、最終的にブルジョアを喜ばせる娯楽になった。
この界隈の人は宣言が好きだね。この本末転倒な帰結もダダっぽくてよい。ええじゃないかで廃仏毀釈したのと同じ空気感を感じる。この愉快犯的な方々は現在をぶち壊すのと同時に何らかの秩序を意味する未来構築自体も否定してしまったわけで、まあ他に道はなかったな。
『テクスト論』について
テクスト論は意味の産出と産出空間の分析を問題とし、記号を固定化しそのずれや記号解体としての自己増殖を導き、起源もしくは超越論を否定して循環する開かれた構造を打ち出す。
ソシュールもラングも相変わらずよくわからない。マルクスと違って定着が困難なというか一元理解できない言語というものは僕に混乱をもたらす。翻訳の問題かもしれないが、ここでいうテクストという語は文章という意味じゃなくて記号を創出するための抽象概念……なんだよな。よくわからん。
『ニーチェの思想』について
ニーチェは自己批判によって近代が本来宿した真の解放へのエネルギー革新を求め、ヨーロッパ理性への全面的な批判と否定を試みる。人の結びつきを打算的な市民社会から切り離し、人間本来の力を芸術に与え、権力から自律した芸術によって近代理性を果たそうとする。
他と違って唐突にニーチェの生い立ちから始まる。『人間的な、あまりに人間的な』は僕にとってすでにゴダールに紐づいたわけのわからん語だ。それはさておき、僕のニーチェの理解は「社会が色々僕に命令するから僕は色々抑圧されてダメ人間になっているけど、自由になれば僕はすっごい芸術でみんなをブァァァって感化して社会変革ができるはず! だけど無理だったアァ~⤵」なんだけど、ニーチェの言葉って例えも含めて内向きすぎて外からわかりにくいからもっと言語化してほしい。あれ、僕はディオニュソス的?
『フェミニズム』について
近代の資本主義経済は男性にのみ適応され女性は男性に従属するものと考えられていたが、1830年代西欧で女性の法的無権利状態の解消と政治参加権を求める思想が生まれ、1960年代以降、男性中心の女性差別社会構造に対する批判主張を行ったため、現在のこの用語は女性解放論一般を指す。
ここに何か書くと炎上するので控えます。
『物象化』について
人と人の関係が物と物の関係に見えることを指すが、マルクスは商品価値は抽象的人間労働の凝固で価値の実体は労働だというものだから混乱が生じる。バーガーは制度が客観化すると物象化が生じるという。
少し前の日本ほどそうと感じられないほど物象化した社会もなかった気はするが、やっぱり権力が強いかどうかで完全な管理社会になれば……(ry。
『フロイトの思想』について
フロイト以前は意識の中に精神活動を動かす動因があると考えていたが、自己を分裂させその欠如と分裂を統合再生させる企てがフロイトの思想と精神分析の起点である。自省して尊敬対象である父に嫉妬を抱いていることを発見し、トラウマの起源を原父殺しの神話に求める。夢という圧縮置き換えを無意識を読み解くためのツールと理解する。
フロイトになんとなくの気持ち悪さを感じるのは全てを父の男根に結び付けるからではなくて、あくまで自分の経験をベースに理論を発展させてるところに見知らぬ個人に性的コンプレックスを赤裸々に開示されるような居たたまれなさを感じるんじゃないかと。
『ヘーゲルの思想』について
愛によって運命と和解するという思想が後の弁証法の原型となる。対立と総合を通じて展開する実体は精神でなければならず、その精神は個人・心理的なものではなく世界の設計図であり、客観的絶対的観念によって完成する運動体である。実存哲学は絶対個別性としての現実論は理性にとらえられないと反論し、マルクスらは法哲学から基盤を精神に置く観念論を批判し史的唯物論を唱えた。
これもまとめのまとめは無理な奴で、何を絶対とするかという話。
『弁証法』について
もともとは古代ギリシアの対話術で、仮設命題から出発して当の命題自身の当否を吟味する論理的手法で、中世にかけては論理学と同義に用いられた。近代カントが論理学から弁証法を区別し、ヘーゲルは形式理論と区別し矛盾率を相対化する理性論理として宣揚した。ヘーゲルの弁証法は「自己自身を自己吟味し自己の限界を規定しつつ内在的に自己止揚する思惟運動」。
上同。この辺は不勉強故違いがいまいちピンとこない。そういえば論理学苦手だった。僕は考えるのが苦手なんだ。
『暴力』について
人間の活動の内、暴力にについての研究は乏しく、暴力は理知的な検討から排除されている。多くの人間が想像し満足する物理的暴力は暴力の一角にすぎない。人はそこに存在するだけで特定の場所を占有し無形的に暴力を行使し、相互排除している。秩序が生じるとき、原理上何かが排除され、それによって秩を神聖化する。これらの働きを第三項排除と呼ぶが、秩序は暴力を内在する。暴力を合理化し抑制する装置として文化が作られたが、文化は危機に際して物理的暴力を拡大生産する。
暴力の定義的な問題にもなるとは思うけれど、確かに秩序を守るためには常に物理力の行使がセットと考えれば秩序とは従わない人間を最も暴力的に排除する暴力であるというなんかグルグルしてくる奴。
『マルクス主義・マルクス思想』について
革命家としてのマルクスは組織中央の形式的主導権を握る者の掌握としては少数派で、いずれも抗争に敗れて思想的影響は弱かった。マルクスの思想は死後、主にエンゲルスによってまとめられ哲学としても発展したけれど、本当にマルクスの主張とは少々ずれていて修正主義論争に陥った。旧来の西欧史観では真に存在するものは実体であり感性は受動的であるとされたのに対し、マルクスは真の存在は関係であり感性は実践的活動的であるとし、新たなパラダイムを提示した。マルクスの思想体系は後継者によって弁証法的唯物論と自然弁証法・史的唯物論に整理される習わしになっている。
改めて冷静に考えるとマルクスは新たな概念を作り世界のものの見方を変化させたという点で偉大だなとは思うものの、どうも友達になれない空気がある。
『唯物史観』について
広義には生起事象全般、中期には人間界の事象、狭義には人事界の歴史を現すが、実質は教義の歴史観を主とした。これは通時的歴史観とは異なる構造的社会観を包摂し、物質的な生産諸関係を下部構造、法政・数強・芸術等の精神的形象を上部構造とした。上下は構造的な問題で優劣ではなく、因果律を廃し相互作用を認め、究極的な主導性は下部構造にみる。
構造的な歴史の見方ってわりに大切だと思います(この本は事典なので唯物史観に基づく歴史例示はないのでこの程度にとどめる)。
『レヴィナスの思想』について
悪は存在への固執に由来し、主体が自己肯定の為に他者と関係するとき、他者は必然的に否定され、承認されるときのみ他でありうる。この求心的行動は苦痛であり、内的活動から意味と可能性を奪い取り、無意味な自己の存在のみ残る。
何で重要項目の中にレヴィナスが入っているのかよくわからないものの、ユダヤ人虐殺の最中でレヴィナスは虐殺によっても世界が変わらず継続していくことに恐怖し自分と他者あるいは世界との関係性を理屈付けようとした人と認識している。レヴィナスの使う用語は他者にしても全体性にしても通常の日常語とはずれた意味をもつのでとっつきづらい印象がある。
『労働』について
現在、人間の労働は社会構造の面でも人の精神面でも重要性が低下し続け、労働より技術や消費が重視されている。労働はかつて未開社会においては美的・遊戯的であり同時に宗教・芸術活動として神や悪霊との交通の意味を有していた。また労働は思考の源泉であり、対象の性質を認識し分析能力を育てた。現代はこの2つの要素が分裂し、多種の搾取対象になっている。そのため労働と労働観の変革は搾取からの解放と労働が非労働(美的・遊戯的)になることを目的とする。
この辺は前の資本主義の項ともかかわるんだけど、職人的であった仕事がマニュアル化されることによって思考と芸術性との価値をあえて失わせることによって誰にでも代替可能とした。それによって労働は賃を得るための作業となる。賃作業と労働の間にはたしかに何かの価値差があってそれが美的遊戯的なものとすれば、貨幣という代替物に価値を奪われたといえなくもない。
まとめ
全体的に、基本的に知っている単語の意味について再確認するのと、それぞれの用語の関連性について考える契機になったのでなかなか興味深かった。わりに読みやすいけれど、観念的なものは事典的に短くまとめきれないから、その辺は限界があると感じる。とはいえそれぞれの単語をわざわざ調べるなら専門書を読むだろうし、だらだら流し読むタイプの本でもないような気はするから、この本の使いどころがよくわかりません。
小説に使えるかというと、完全な管理社会を目指してディストピア書くには使え……るほど例示はないわけだが、世界観を作るには役立つけれど、普通自前で世界立てたりしないだろうからあんまり役にたたないかもしれない。僕は世界を作るの好きだから役にたった!
4.結び
それぞれ前段、結構意訳した。改めて書いたの読み直しても前段は素人お断り感がある。短くまとめるの難しいな。俺一長文になってるけど、それは取り上げる用語が多いという純粋にそれだけの理由。それにしてもマルクスについては認識している以上のものを得た気はするけれど、あんまり深堀りする気にはならない。
次回は『戊辰戦争と秋田』です。
ではまた明日! 多分!
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