建築・街・都市 山北駅(構内図)
いかがお過ごしでしょうか?
今日は、建築・街・都市シリーズとして、構内図と写真を中心とした山北駅そのものの話です。先の記事に未掲載の写真もあります。結果的に、またまた濃い(長い、、)話になってしまい、資料の準備に時間(約1ヶ月)がかかりましたが、ようやくお披露目です。
山北駅についての先の記事は、旅・景色シリーズとして駅周辺の環境を含み、思い出話も少々、で、こちら↓です。
では、参ります。図・写真70枚、8800字です!!!
m(_ _)m
記事作成の顛末
旅・景色シリーズの次に、その拡大版として、建築・街・都市シリーズとして御殿場線の他の駅や山北町にある東名高速の土木構築物の話を書こうかなということはなんとなく考えていました。そこでひとつ思い立ってしまったことがあります。そうだ、鉄道資料館に展示してあった駅の構内図をCADでトレースしてそれも載せよう!と。駅の構内図について、軽い気持ちでCAD作業していたら、、、これがなかなか。。。その記録も含めて、一つの記事としておきます。
CADでトレースした構内図
まず最初に、完成版の構内図はこちら!!ここに至るまで、想像した以上に、、かなり苦労しました。なんだか地味な、線路の配置が記されているだけのように見えますが、、そうです。結果は地味なのです。ですが、、この駅としては。恐らく最大規模だった時の構内配線だと思います。その配線状況は、線の色でわかるようにしています。青線は現在も残っているもの、赤線は大正時代の構内図に載っているもの、ピンク線は昭和初期に増えたものです。このピンクの線!これが大変厄介な線でした!この線だけは、昭和初期の白黒写真からベース図をスケッチし、そこから平面図を起こしたのです。後ほど詳しく書きます。要は、パース作成と逆の手順をした、という事です。これはもう完全にトレースの範囲を逸脱しています。。。。

では、その作成過程について。話が脱線しながら、ゆるゆると。
山北駅前の鉄道資料館(展示スペース)に飾ってあった、下の写真から。


この時は、、まだ大正と昭和初期、ほぼ同じ時期。。と思っていました。
鉄道資料館、、とは言いますが、過度な期待をしてしまうといけないので、、補足を。。展示の規模感は展示コーナーの規模かと。。しかし、展示物はとても濃い貴重なものだと思います。超お宝な写真や資料!!それがもっと伝わるといいのですが、。扱いが少々勿体無いと思いました!!展示のアイデアとして、構内図や上の白黒写真。もっと大きく印刷してドーンと飾りたいと思うんですよ。その思い出が一番の売りな駅ですから。桜木町駅のように写真を展示してもいいと思います。展示してあるものが価値があるだけに、そういう展示デザインのプロに頼めるといいのですが。
構内図はずっと眺めていられます。これをNゲージで作れないだろうか。いっぱいある線路をどんなふうに使っていたのか。連結したり切り離したり、とか考えながら。
構内図をCADでトレースして、3Dにすれば下の写真のように見える?なんて軽い気持ちです。やってみっか!ここで、後で気がつく重要なことを見落としていました。それで苦労したのですが。。

とその前に、、一つ検証
上の写真、、なんだか違和感を感じませんか?この写真の大きさではわかりくいかもしれません。拡大表示してみてください。違和感の原因を部分拡大します。下↓です。

これ、変に思いません???何が?
線路の幅がものすごく広く見えるのです。しかも、奥の方が人が大きい???どういうこと?人を合成した?で、写真内を測ってみました。国鉄(現;JR)の在来線の線路幅は、狭軌1067mmです。ちょうど、各人の横に線路があるので、それを定規にして。そうしたらば、、、。下のような結果に!!

それぞれの身長は、、、もちろん多少の誤差はあると思いますが、いい数値だと思います。
❶の人は146cm
❷の人は161cm
❸の人は167cm
なんと!手前の人がとても背が低かったのです!ならば、先の違和感の正体に納得!!そして、奥の人の方が背が高い!!!遠近感が狂う訳です。
ちなみに、代表的なゲージ(軌道幅)は下記です。
狭軌 在来線等 1067mm(欧米では3feet6inchとキリが良いのです。)
標準軌 新幹線、京急等 1435mm
広軌 1435mmより広いもの
で、身長ですが、、成人男性で146cm??えらい低いな、、。調べると、、なるほど。下の表は1947年スタートですが、、戦後の栄養改善から大きく伸びているので、その前はそれほどの変化でもないと思えば、そういうことかと。

webサイト「社会実情データ図録」(下記リンクサイト)から転載
話を戻します。CAD構内図の作成記です。
随分、貴重な構内図と写真だと思います。SLが重連で煙をモクモク出しながら爆走する、この白黒写真は、前の記事にも載せました。似たアングルでの現在の写真と並べて。なかなか迫力があって、かつての山北駅の栄華が感じられます。
そして、せっかく作図するのであれば、ポイント(分岐器)のカーブ半径(r)のルールも知っておこうと調べたら、下のリンクのわかりやすい記事がありました。
なるほど。ちなみにNゲージ(S=1/150)は、嘘みたいにカーブがきついので、現実では難しい配置でもできてしまうのですが、一応、構内図の最小半径はr=120mとし、作図開始。Nゲージはr=30cmのカーブが普通にありますが、それを原寸に戻すと、、r=45mです!路面電車並み?きつっ。
しかし、トレースしていたら、、どうにもr=120mでおさまらないところがありました。特に東側の分岐が連続するところ。。図面の長さにカーブが収まらないのです。これは、、写真の歪みの関係かもしれません。全体を優先して合わせました。
大苦労のもと
トレースは、ただひたすらなぞるので、、比較的簡単です。ある意味、何も考えずにあっという間です。しかし、そこから3Dにして写真と合わせるのがなかなか大変でした!まず、、写真と図面で線路の数が合わない!!!ここでハタと気がつきました。そうだ、図面は、大正・・・・元年。写真は、、昭和8年!!おっと、なんとも20年以上ずれているのです。しかも、写真は、、昭和9年の丹那トンネル開通直前!ということは、、山北駅は最大規模!?そりゃ、線路も増える。重ねるのは諦めるか??いや、図面からのパースと写真を合成して検証、それを諦めきれないのが、職業病。。。やってやる、と意気込みました。ではどうするか?
それを解決した手順→そして、完成!
こういう手順を考えました。まず、写真の線路をトレースする。線だけ抜き出して、パースの歪みをとる。奥行きを図面に合わせる、そして、それをトレース。です。では順を追って作業した画像を貼ります。各画像にメモを書き込んだので、PCで2画面で見られる方は、、ブラウザを2画面開いていただき、一つは記事を表示させ、一つは拡大画像のスライドとするとわかりやすいと思います。

説明(コメント)は後から書き込みました。線の色もあとで分けました。青線が今も残っている配線。赤は大正の図面から。ピンクは構内図には無く、写真で増えている線。



手前の分岐器と転車台の位置関係が基準になります。

緑の扇型が写真の撮影アングルです。ちょうどそのの中心点(撮影地点)が橋に届きます。やはり橋からの撮影ですね。増えた線路はこれで解決しました。もちろん、先に大正時代の構内図はトレースした上での追加作業です。

そして完成です!!実は、ここに至る前に、、写真から歪ませた線のトレースを2回やり直しています。。。なぜか?それも後ほど。
さて、作図したCADの線を色々と検証します。

この図(↑)と下(↓)のトレース線路+昭和の線路の図を見比べると、線路が増えた場所が分かります。

この後に載せる航空写真での検証の結果も反映してあります。いろいろと発見がありました。特に関東大震災の被災後に駅舎の位置が変わったこと、橋が架け替えられたであろうこと。保存されているD52がかつての引き込み線上!!にあること。崖の上の矩形の構内敷地には小屋?が建っていて、そこが今は町営住宅になっていること。駅周辺の変化も含めると、深い、もっともっと深掘りできそうですが、それは今後の研究とします。しかし、かなり本腰入れて足を使わないとこの先に進めない気がします。。しかし、この駅の周りは、、タイムスリップしたようにまだ残っています。それも、あと少しかもしれません。。。。
では、山北駅の1960年代の航空写真、2020年代の航空写真。そして現代の新宿駅との比較です。

まだ、構内は広々とした空間が残っています。元構内の一部(機関庫跡)に役場が立っています。そして、電化される前なので、、架線柱がありません。当然といえばそうなのかもしれません。一番驚いたのは、東の転車台の跡?現役?が残っていること。CAD構内図の重ねるときの位置決めに役立ちました。

変わらないことと変わったことがよくわかります。西側の橋(三良橋)は位置が変わったようです。最初、航空写真を合わせるときに知らなくて、苦労しました。いろいろと資料を読み漁っているときに、震災後に架け替えられた、というようなことを知り、他のもの(崖の上の矩形の構内敷地やプラットホーム、用水、擁壁)で合わせました。そしたら、ぴったりに!!図面があるので、航空写真と縮尺を合わせて重ねればピタッとくる、と思っていましたが、、時間軸の違いや、斜めから撮影した写真からのトレースで思わぬトラップが多数。。こういう作業をしようと思って写真を撮っていなかったことも、そのトレース作業やりなおしの大きな要因の一つです。無事に重なってよかった。

国道246号(新/旧)線形をオレンジ線でトレース
広い構内の名残がわかります。保存されているD52の位置は、この写真からの逆追い検証です。そうすると、当時の引き込み線上で保存されたのであろうことがわかりました。

新246号、東名高速ができています。で、この新旧の246号の位置を次の航空写真にも載せました。構内の広さ大きさが新宿駅と似ているのは想像どおりなのですが、なんとも偶然に、山北の新旧国道246号の位置が、新宿の駅ビルを含んだ広さとほぼ一緒!!しかも新宿駅西口側(上の写真の下側)は246のカーブが駅ビルの範囲といい感じで呼応している!!そういう広さ感なのですね!ジャーン!現代の新宿駅との比較。

作図3D線路と写真の重ね合わせ
さて、お待たせしました。構内平面トレース等から起こした、3Dパースの線路(赤青桃の線)と、白黒写真の線路(緑の線)の重ね合わせです!!これのためにトレースして、昭和の線路を足しました!で、重ねてみると、、少しずれているところもありますが、まぁ及第点かと。(一番右のS字形の緑線は擁壁の位置です。)地味な絵ですみません。しかし、平面作図の技術的な検証としてはOK。実は、、、最初に重ねたときはもっとずれが大きくてガックシでした。原因は、写真からトレースした線のゆがみを取る過程で、やはり画像が荒れてしまうので、、それから拾った線の誤差や、さじ加減で調整した線が、、結構ずれたりしたのです。なので、もう一度写真と比べながら、ゆがみを取ったベース図のプロポーションを調整したり、、トレースする際にも完成形をイメージしながら位置合わせや角度合わせを加味しました。。それが結構大変。もうAIでそういう作業もやりやすくなるのだと思います。どうもお部屋とかは写真から平面図が描けるようになってきているようです。。

また、なぜ及第点かというと、手探りで、3Dモデル上で行ったり来たりぐるぐる動かしながら、ようやくここまで合わせました。合わせながら、、全てがピタッと合う位置がなくて、これがひとまずの限界です。写真は厳然たる事実ですが、、作業上の誤差もあったかもしれなくて、それをパースで見ると思いのほかずれが大きくっはっきりしてしまったり。。また、元の構内図も設計段階か?施工結果を反映したものか?によっても精度が違います。当時は施工現場での変更もよくあることでしょうし。。でも、苦労して、なんとかここまで合ったのでホッとしました。
昭和初期の写真と現代の写真の位置合わせ
次に、昭和初期の写真と現代の写真の位置合わせを試みました。これが意外と結構いい形です。これも最初はうまく合わなくて、、掲示してある白黒写真を斜めに撮っていたので、、。歪みと傾きの調整が必要でした。現代の写真の立ち位置が左右にほんの少し違うのは、、こんな位置合わせをするなんて考えずに撮っていたから。それにしては、立ち位置は1〜2m(線路幅+α)程度のずれだったのはラッキーです。


緑の線は、白黒写真をトレースした線で、一色にしました。
プラットホームが昔のままなのがよく分かります!山(丸山)の位置までバッチリです。D52がかつての引き込み線上に保存されているのもわかります。立ち位置は、あと三〜四歩だけ左から撮影していたらドンピシャです。今度撮ってきます!ロマンスカーも狙って!

現代の写真の右側の1/7くらいの部分、解像度が悪い理由は、望遠で撮影したこのアングルで、そこが足りておらず、、同じ位置から広角でも撮影していたので、それを拡大してくっつけたからです。。下の写真の緑枠内が上の写真です。広角写真をこんな使い方をするとは露ほどにも思っていませんでしたが、、撮っておいてよかった。。ほっ。しかも、少し引いて、、三良橋の手摺も入れていました。


緑枠が、その昭和初期の白黒写真のおよその範囲です。
これは立ち位置がさらに右側に数歩ずれていますね。
アングルがやや左を向いているのは、、
右の集合住宅を写し込みたくないからです。。
ということで、軽い気持ちで、作業を始めましたが、、、、想像以上に大変な作業だったということです。まぁ。それなりの精度で完成したのと、作業中にいろいろと検証して発見や習得があり、報われました。
いつか模型(Nゲージ)にしたいですが。。。
構内の長さは、だいたい600mあります。プラットホームは300m。ということは、、Nゲージの1/150で、それぞれ、4mと2m!!!でかすぎる。どこか公的な場所でないと置けませんね。。これは是非とも山北の鉄道資料館に!昭和初期と現代を並べたらとても興味深くわかりやすい展示になるかと。そして語り継いでいけるのでは?課題は製作費か。。。その大きさになると、、恐らく軽く数百万はしてしまうかも。クラファン??私にはそのノウハウがないけれど、ライフワーク的にそれらも勉強してみようかしら。その模型のニーズはあるのでしょうか?私は是非に作ってみたい派です。当然か。。。
山北駅の写真
まだ、もう少し記事は続きます。。ここまででもお腹いっぱいかもしれません。。少々お付き合いお願いします。
ここから、リアル山北駅の写真を貼っていきます。前回記事と同じものも含まれますが、未掲載だった写真もありますので、どうぞ。構内図作成の際に気がついた歴史の跡も検証しながら。
まずは三良橋です。どうも昭和初期の設置のようです。構造は、、鉄骨、、というより、レール造です。昔のプラットホーム上屋等でもよく見られるかと。

いい撮影ポイントです。
大正の構内図ではもう数十メートル西側にあったようです。架け替えられたのは、、、関東大震災で被災したからでしょうか。

簡素な作りですが、いずれ大切な鉄道関連遺構になると思います。大事に使って欲しい。

右の4階建ての集合住宅は、町営住宅です。かつての構内敷地だったところに建っています、国鉄の職員の当直用?建物があった?ところが、町に払い下げられ、その後に建ったのでしょうか?

右の側溝は川村用水のひとつです。降雨不足か、冬で利用されていないのか、枯れています。昔(夏)は滔々と流れていて怖いくらいでした。戦後に植えられたという桜は道路キワ、擁壁上ですね。これ、重要なポイントです。

三角屋根の下のD52の向こうは山北駅。この擁壁の位置は、歩道部分が拡幅されたようです。ちょうど桜の木の位置が昔の擁壁位置かと。昔の図面では、D52の位置の引き込み線と擁壁はもう少し距離があります。

D52の場所はかつての引き込み線。ぜひ、、本線と繋がってほしい。動態保存の目標はそれ!らしいです!

レールのレベルは本線と同じようなので、周りの地面が盛土されたのですね。。この動態保存のためのレールを延長する時にレンガ基礎?の遺構が出てきたそうです。西の転車台の遺構か?という考察ブログがありましたが。私の見立ててでは、小屋の基礎か、灰を落とす溝かと。転車台は、位置的にもう少し先(写真手前側)だと思います。図面考察したので自信あり。

このまわりはデッキによる雛壇があります。いかんせん、、屋根が狭くて、柱があって、D52の写真が撮りづらい。。もう少し梁間が桁行くらいに広ければ。もしくは、できれば駅のプラットホームのような、方持ち屋根がベストです。そうすれば片側は柱なし!下のようなイメージで!明治、大正、昭和初期の雰囲気!大切です。下は、横浜の赤レンガ倉庫の鉄道遺構です。屋根を波型ガラスに換装しています。こんな屋根だったら雰囲気があって素敵かと。。
で、D52の脇には下の碑も。機関区への、鉄道への愛を感じます。

山北機関区の想出を語る会

ディーゼルカー運轉開始記念碑

山北機関区思出会員一同

この擁壁の際までが元の駅構内かと。擁壁の上に積み重なっている平板は、構内で使われていた敷石でしょうか。。

D52まわりは、なぜか1m程度の盛土がされています。きっと土の中には何らかの遺構があるかも。

この、使われていない低い部分がとても雰囲気があって素敵です。よくぞ残っています。

駅舎は建て替える?計画もあるようで涙。この、特別感のない大正時代のノーマルな感じの駅舎がとてもいいと思います。是非に、、補強しながら残してほしい。そして、提案は、駅舎の線路側の増築部の壁は撤去して、庇だけ残して、その下はオープンテラスのカフェにできるとサイコーです。是非に!鉄道は浪漫です。「銀河鉄道999」のような。この記事を書いているときにメーテルの声優(CV)、池田昌子さんが逝去されました。「鉄郎、、、」という声が聞こえてきます。その「999」を牽引するC62はD52から改造されて誕生しています。

この不思議な空間。とても大切だと思います。想いを馳せる。どこまでも。


リベットなので、これもそれなりの年式かと。

跨線橋から駅舎までの通路がゆったりしていて素敵!!!木造屋根はいつの架構でしょうか?駅舎と同じ大正ならば、大切な構造です。柱頭の方杖の下にはささやかな飾りも見えますね。質素な中にも粋を感じます。

改札周り、もう少しやりようがあると思います。もったいないなぁ。。提案ベースで、、レトロを全面に押し出していいと思います。昔の本物。フォントとかも。旧大社駅、、程ではないにせよ、時代感は一緒です。本物の上屋が残っているからこそ、、この趣にできるといいと思うのですが。
この駅前の空間も一緒に計画すべきで、、、すが、もう間に合わないかもしれません。
広い駅前は寂寥としていますが、そこには想いが。。。

右に昔のプラットホームの名残があります。

2014年頃までは、、下のキャプチャのような小屋がありました。いつ無くなったんでしょう。。かわいい味のある小屋。使われていなくても、、窓口が配されているのが、人の気配が感じられます。中身は倉庫でも仕方ないですが、、このような形、いいと思います。



プラットホームの遺構の断面が手前に見えています。


「大正十年建立」
「是ヨリ一里半余」
と側面に掘り込みあり。
道了尊の大雄山最乗寺への観光拠点だった名残かと。今は、小田原からの大雄山線もありますね。貴重な石碑です。最乗寺、古刹です。おすすめ。
この、山北駅の大正、昭和初期の痕跡。是非に後世へ伝えていきたい。

上の写真の右側も構内でした。古いプラットホームと地面が一緒の高さなので、、掘ればなんらかの遺構が他にも出てくるかもしれません。

これでも、桁が薄くなって高さのクリアランスは少し増えたそう。。当時は、、トラック、、というより馬が通れれば良い、という設定かもしれません。

構内を横断する昔と変わらない川村用水。

↑奥側のコンクリートの台はプラットホームの跡と思われます。

山北は用水もぜひ観光資源とすべきかと。勿体無いです。いわれもあるし。ブラタモリ的です。皆瀬川の取水口を見に行きましたが、、ほんとに勿体無いなぁ、、と。なんせ、宝永の噴火から話が始まりますから。。。

向こうに停車場中心の標とプラットホーム遺構。。。これら、本当に、何か統一的なデザインの説明板があってよいと思います。
もう少し。。検証!昭和8年の機関庫について。
かなり長くなってきましたが、、、この流れで、もう少しお伝えしたいことがあります。記事を分けてもいいのですが、せっかくなので??続けます。。
先に出ていた写真(↓)の、、今度は上左側の写真(機関庫)を検証しました!


この写真を検証します。色々とインターネットを彷徨っていたら、、綺麗な写真がありました。↓しかも、もう少し広い範囲が写っています!おぉ!!そういえば、この写真の頃、山北で生まれ育った明治生まれの祖父は、25歳くらい。この風景の中を生き抜いてきたのですね。

こちらのサイトからです。このようなサイトがあるのは、、やはり、さすが旧東海道本線ということでしょうか。
で、機関庫の写真は、下の「現代の航空写真+昭和初期の構内図」に記入した、四角い雲マーク部を少し高いところから撮影した風景だと思われます。

で、その雲マーク部分を拡大し、昭和初期の白黒写真と目を凝らして見比べると、、。最初に、下の❶(用水路)と❷が写っている(残っている!)ことを見つけました!おぉ!

昭和初期の写真(↓下)に、この❶と❷をプロットすると。。。。こうなります!そして今度は下の写真で❸の蔵を見つけ、ストリートビューで通りを見てみたら、それも残っていて、上の航空写真に❸をプロットしています。検証するため、これらの写真を行ったり来たり。。。

で、この写真(↑上)をどこから撮っているか?高いビルもありませんので、山からです。で、下の航空写真に示した雲マーク部付近とあたりをつけました。成就院というお寺の裏あたりです。東名高速は成就院橋というトラス橋が架かっています。

このアングルだと思います。
そして、ストリートビューで検証!なんとも便利な時代です。撮影ポイントをほぼ特定できました!!!上の写真の❾地点の付近、もう少し標高が上の❽が昭和初期の撮影地点かと。今回の下の写真は❾地点からです。❽の地点のストリートビューも見ましたが、展望が良くありませんでした。残念!❹と❺のマークは後ほど説明します。

ズームすると↓こうなります。痕跡の❶❷❸がしっかり写っています。

アングルは、ほぼ一緒ですが、微妙に撮影ポイントの標高が違います。今度、現地を踏査したいと思います。もしかすると、東名高速の建設で、、ピッタリ同じ撮影ポイントは失われてしまったかもしれませんが。。。
もう一度、昔の写真を載せます。これらの図画、是非に写真だけスライド表示で見ていただければ。変遷が一目瞭然です!この下の写真は残っている建物がわかるように、該当する❷と❸の雲マーク部の建物の輪郭を黄色い線でマークしましてみました。

その輪郭の黄色い線をコピペして現代の写真(↓下)に重ねるとこうなります。

ほぼドンピシャです。そして、ここまできて、、新たに見つけた❹と❺、これらも昭和初期から残っている建物のようでした。それぞれ、拡大航空写真やストリートビューで確認しました。現代でも屋根の形が一緒です。❹の付近の写真を拡大すると大きなトラックが見えるので、(新)国道246号の少し向こう側です。この新情報によって、先の撮影ポイントを推定した航空写真にも❹と❺をマークし、❽と❾のアングルは既に微修正してあります。
ちなみに、撮影地点の標高が少し違うので、、向こうの浅間山の山裾の写る位置(点線水平線の表示が昭和初期の写真の山裾ライン)が違います。現代の写真の方が地面が寝て写っています。なので、機関庫の形状は上の現代写真の画像では少し形状補正(奥行き方向をつぶす)しています。
最後にもう一度、昭和初期の写真。

この地に、この規模の駅!当時の活況が伝わってくる気がします。このあと太平洋戦争に突入するわけですが、その前の「モボモガ」の時代。当たり前のことですが、今の生活があるのは、先人の生活があったから。こうやって調べて痕跡が残っていることを確認すると、100年ほど前のことが身近に感じられます。
ここまで、山北駅構内の図面復元から、現代の駅の写真、昭和初期の写真を見てきましたが、なかなかに、、深く、結構な作業でした。これをちびちびとまとめていたので、山北駅に関して、次のこの記事ができるのに1ヶ月もかかってしまった次第です。。。。
ここまで、長い文章を読んでいただきありがとうございます。最後にほんの少し余談です。
余談。鉄道定規。
構内図をトレースしていて思いました。今はCAD作図なのでどんな大きな半径のカーブでも中心を決めて描けます。半径の大きな鉄道のカーブは、当時、人間の手で作図するには、円の中心を決めて描くわけにもいかず、、(円の中心が用紙の外、机の外になってしまって作図できない。。それにそんな巨大なコンパスもない。。)それで、かつては、規定の半径のカーブ定規のセットが、、その名も「鉄道定規」というのがあったことを思い出しました。「鉄道定規」ご存知ですか?ある年齢以上の方はご存知でしょう。大きな半径の円弧の一部が幅数センチの薄い板になっていて。それが数十枚入った、木の箱があって、昔ながらの蝶番と留め具で蓋をする。調べたら、、まだ売っていました!!びっくり。いいお値段です。
手書き図面の時代は、これが設計事務所にはありました。手書き時代の文具として、、他にも色々あります。字消し板とか、雲型定規、自在定規やそれを抑えるちょっと変な形の文鎮、文字テンプレート、図面内でよく使う文字のスタンプとかは、都度その案件名のスタンプ等を注文したりしていました。あぁアナログ時代。手書きなので、、原図、という概念があって、それはそれは大切に。大型コピーが普及する前は青焼きで、2010年頃までは使っていたかな。CADの普及とA3プリンタのレーザー化で、徐々に大型(A1、A2)の紙図面は使わなくなりましたね。今はPDFが中心となりつつあります。
余談は以上です。
今日の話は、ここまで。
山北駅はかなり書き尽くした気がしますが、、駅空間等に関しての提案を少しまとめたいと思っていたりします。この記事の最初の方に書いた、御殿場線や山北周辺の東名高速の土木構築物に少し話を広げる拡大記事もまだ準備中です。
今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
また、次に記事でお会いしましょう!
