#48 文部科学省の言葉に乗る教育研究者への違和感
日本の教育研究は、本当に「研究」なのだろうか。
文部科学省から新しい言葉が示されるたびに、それを解説する論文や書籍が次々と現れる。だが、そこで立ち止まって問い直す研究は、どれほどあるのか。
本稿は、教育行政関係者、教育研究者、そして大学院生に向けた問題提起である。
教育を外から眺めてきた人間ではなく、30年近く学校現場に立ち続けてきた者として、日本の教育研究に対して抱き続けてきた違和感を、あえて言語化する。
これは、耳障りのよい話ではない。
だが、避け続けてきた問いでもある。
1.日本の教育研究は、決して弱くない
最初に確認しておきたい。
私は、日本の教育研究を全面的に否定する立場ではない。授業研究を中心とした実践の積み重ねは、日本の教育研究の大きな強みである。
授業を公開し、検討し、改善するという文化は、世界的に見ても例外的だ。学校という組織そのものを学習主体にしてきた点は、正当に評価されるべきだろう。
また、個々の実践を全国的な知見へと一般化しようとする姿勢もある。条件の違いが大きい中で、それを目指すこと自体、容易ではない。土台はある。問題は、その土台の上に何が積み上がっているかだ。
2.研究が「説明」に変わる瞬間
教育政策から新しい用語が示されると、状況は一変する。
・「言語活動の充実」
・「主体的・対話的で深い学び」
・「個別最適な学び」
これらの言葉が出てくると、大学教員や研究者は一斉に動き出す。その多くは、こうした言葉をどう理解し、どう現場に当てはめるか、という解説である。しかし、ここで本来必要なのは、
その概念は何を前提としているのか
日本の学校文化と本当に整合するのか
何が見落とされているのか
といった問い直しではないだろうか。
研究が、批判や再構成ではなく、政策用語の「説明作業」になってしまう瞬間が、確かに存在する。
3.翻訳できることと、研究できることは違う
日本の教育研究者の多くは、海外の理論や動向に詳しい。英語論文を読み、最新研究を紹介する能力も高い。だが、それがそのまま「研究」になってしまっている現状には、強い違和感がある。
海外で生まれた概念を、
日本語に訳し
日本の教育に当てはめ
「示唆がある」とまとめる
この作業が、研究の中心になっていないだろうか。
私は、かつて物事を究めたいと思い、研究の道を真剣に考えた人間である。その立場から見ると、翻訳は研究の入口であって、出口ではない。研究とは、本来、自分の言葉で、自分にしか立てられない問いを生み出す行為のはずだ。
4.なぜオリジナリティが生まれないのか
ただし、これは研究者個人の資質の問題だけではない。制度や評価のあり方が、特定の研究を選びやすくしている側面がある。理由の一つは、日本の教育研究が「安全」すぎることにある。
公平性、前例、説明責任。
それらを過度に重視するあまり、失敗を前提とした研究が成立しにくい。本来、思い切った研究を担うべき国立大学や私立大学でさえ、政策の枠から外れる研究を避けがちだ。
結果として残るのは、
無難
予測可能
批判されにくい
そうした研究である。
だが、それは「研究ができない」のではない。研究しないことを選び続けた結果ではないだろうか。
5.大学院生へ――研究とは何かを考えてほしい
特に、大学院生には伝えたい。
英語ができることは、確かに重要だ。だが、それは研究者になるための条件ではあっても、十分条件ではない。
研究とは、
・「海外ではこう言っている」と紹介することではない。
・「自分は何を問題だと感じているのか」を言語化することである。
翻訳できる人間と、研究できる人間は、別だ。
6.現場に30年立った者としての問い
私は30年近く、学校現場に立ってきた。その間、教育政策も、用語も、何度も変わった。だが、学校の現実は、それほど簡単には変わらなかった。だからこそ思う。日本の教育研究に今、必要なのは新しい流行語ではない。新しい問いである。
その問いを、誰が立てるのか。どこで引き受けるのか。この問いを避け続ける限り、日本の教育研究は「翻訳」で満足し続けるだろう。
