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「国体護持」という呪い

イシ: ここからは、原爆投下後から日本の無条件降伏までの経過を見ていこう。
 8月6日に広島に原爆が投下された直後、理研の仁科博士は新聞記者や軍関係者に会って情報を集めていた。
 7日、軍首脳部は原子爆弾委員会を設置し、広島に落とされた新型爆弾の正体について議論したが、そこでは「原爆ならば1トン爆弾の900倍以上の威力があるといわれている。広島の被害はそれほどではないから原爆だとは認められない」と結論づけた。なんとしても、アメリカが先に原爆を作ってしまったことを認めたくないという悪あがきだね。
 仁科は7日に広島に向けて飛んでいたんだが、飛行機が故障して引き返し、1日遅れて8日に調査団の一員として広島入りした。上空から広島市街を見下ろしただけで原爆だと確信した。
 ちなみに仁科が広島に調査に行っている留守中、理研の仁科研究室に参謀本部の参謀の一人である大佐が日本刀を持って乗り込んできた。その大佐は仁科が留守だと知ると、留守番役をしていた田島英三(1913-1998、後に立教大学名誉教授)研究員に、「原爆を作るのにあとどれくらいの時間が必要か。何か月と、具体的に言ってくれ。それを聞けば、我々はそれまで、どんなに辛くても戦い抜く覚悟だ」と言ったそうだ(保阪正康氏による田島英三本人への直接取材。『日本の原爆 その開発と挫折の道程』p.198)。
 その参謀は二号研究がすでに終了していて、日本には到底原爆を作る余裕もないことを理解していなかったわけだ。
 東京帝大の嵯峨根遼吉(1905-1969)教授のところにも軍の高官がやってきて「11月までに原爆が作れないか」と迫った。
 嵯峨根はかつてアメリカのカリフォルニア大学バークレー校のローレンス原子核研究所で学んでいたことがあって、そのときの研究仲間3人が嵯峨根教授宛に宛てた手紙を軍に託していて、長崎に原爆が落とされたとき、短波発信器付きのパラシュートで投下されていた。そこには「アメリカではすでに原爆を開発し、この3週間でアメリカの砂漠で1発、広島で1発、そして今朝3発目を長崎で爆発させる。この爆弾の威力をよく知っている君が、貴国の指導者たちにこれ以上の戦争継続をやめさせる努力をすることを強く望む」といった内容が書かれていた。

 8月9日、政府は朝から緊急閣議および、首相(鈴木貫太郎)、外相(東郷茂徳)、陸相(阿南惟幾)、海相(米内光政)、参謀総長(梅津美治郎)、軍令部総長(豊田副武)による最高戦争指導会議を開いて、ポツダム宣言の受け入れ可否について話し合った
 緊急閣議の参加者は概ねポツダム宣言を国体護持(天皇制の存続)という条件のみで受け入れるべきという意見だったが、最高戦争指導会議では阿南惟幾陸相が「占領は小範囲で短期間」「武装解除は日本の手で」「戦犯処置は日本の手で」を追加した4条件をつけて問い合わせ、それが拒否されたら本土決戦しかないと主張した。そんなことをグダグダやっている間に、午前11時2分、長崎に2発目の原爆が落とされた
 まとまらないまま午後1時過ぎに一旦休憩に入り、その後、緊急閣議を開いたが、そこでも米内光政海相が「本土決戦などとても無理だ」と述べたのに対して、阿南は「少なくとも最初は撃退できることは確か。必勝とは言えないが、必ず負けるとも限らない」などと食い下がり、夜10時になってもまとまらなかったため、鈴木首相は天皇を招いての御前会議にすると提案。阿南はそれに反対したが、鈴木首相が「天皇の臨席を賜り、我々の意見を聞いていただくだけ」と説得した。
 こうして、深夜0時頃、皇居の地下に作られた防空壕で御前会議が開かれた。
 司会は内閣書記官長の迫水久常。まず、東郷外相が、もはやポツダム宣言を受け入れるべきだと発言。条件は「天皇の国法上の地位を変更しない」という一点だけでよいとした。これに米内海相と急遽会議に召かれた平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
 それに対して阿南惟幾陸相が反対し、梅津参謀総長、豊田軍令部総長も阿南支持に回り、3対3に分かれた。
 話がまとまらないまま午前2時になり、鈴木首相は自分の考えを述べず、すべては天皇の御聖断に委ねると発言。
 天皇は「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」と答えた。
 さらに続けて、「陸軍も海軍も言っていることと現実とが食い違っている。戦局は日に日に不利になり、世界の大勢もまたわが国に有利ではない。のみならず、敵は新たに新型爆弾を使用してきており、この惨害がどこまで膨らむか想像もできない。本土の防備もほとんどできていないようだし、こんな状態で本土決戦に突入したらどうなるのか。日本民族はみんな死んでしまうのではないか。今となっては一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、将来再び立ちあがってもらうしかない。そのためには自分はどうなっても構わない。皇室のことも留保するに及ばぬ。堪え難きこと忍び難きことだが、この戦争をやめる決心をした」という内容のことを述べた。
 これを聞いて、ついに阿南も黙って受け入れた。
 午前3時に御前会議は解散となって、総理官邸で結果を待ち受けていた閣僚たちに伝えるための閣僚会議が開かれた。朝7時に、スイス経由でアメリカと中国に、スウェーデンを通してイギリスとソ連に通達するように両国の公使に電報が打たれた。

凡太: 遅すぎますよね。すでに長崎に2発目が落とされているのに。

イシ: そう。何度も言うようだけど、6月の御前会議が最後のチャンスだった
 で、ここから先、まだまだゴタゴタが続くんだ。『木戸日記』や、貴族院議員だった富田健治(1897-1977)著『敗戦日本の内側 近衛公の思い出』(1962年)、高木惣吉著『終戦覚書』(1948年)、その他の関係者の日記や戦後の回想などをもとに時系列で経緯を追っていこう。

 8月10日の御前会議で、天皇制護持という1条件のみでポツダム宣言を受け入れることが決まったわけだけれど、問題はこの「天皇制護持」についての解釈が鈴木首相ら講和派と陸軍の軍国派ではまったく違っていたことだ。講和派は大正デモクラシーの流れを汲んだ立憲君主制をイメージしていたのに対して、軍国派は天皇の統帥権独立を維持した専政政治を続けることだと解釈していた。この決定的な違いをどちらの側も分かっていたはずなのに、ここでも無責任な「認知的不協和」が出てきて、はっきりさせないまま事を進めようとするんだね。
 「国体護持の一条件」をさらに明確にするために「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は含まれないという了解のもとに」という一文を加え、10日午前7時にポツダム宣言受諾を伝達した。
 阿南は陸軍若手将校らがクーデターを起こすことを怖れていた。阿南は午前9時頃陸軍省で「かくなる上はただただ大御心のままに進むしかない。厳格な軍規のもと、一糸乱れずに行動しよう。不服な者はまずこの阿南を斬れ」と訓示した。
 10日午後5時、近衛文麿が東久邇宮稔彦王を訪ね、無条件降伏を進言した。その後、連合国側の反応を知るために内務省、外務省、放送局などを回ったが、どこも無人で、宿直すらいなかった。
 この日、内閣情報局総裁の下村宏(1875-1957)は、「終戦は近い。死に急ぐことがないように」と受け取れる談話を国民向けに出している。しかし、陸軍の青年将校の一部が勝手に「国体護持のため、たとえ草をみ、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」作成して、阿南の決裁をとらずにマスコミに発表した。
 これを知った下村が阿南にこの「陸軍大臣布告」の新聞掲載中止を申し入れたが、阿南は「いいのです。掲載してやってください。軍人とはそういうものなのです」と容認してしまう有様だった。無理に押さえ込むと暴発してクーデターが起きるからやらせておけ、という意図だったらしい。この「陸軍大臣布告」は、夜にはラジオで全国民に伝えられた。

凡太: 暴走する若手将校をトップが抑え込めない……なんか、五・一五事件や二・二六事件のときのことを思い出します。

イシ: まったくだ。あのときの空気と同じだね。これこそ無責任な「認知的不協和」の最たるものだ。

 8月12日午前0時、日本からの「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は含まれないという了解のもとに」ポツダム宣言を受け入れるという表明に対して、連合国側はバーンズ国務長官が書いた返答をサンフランシスコのラジオ放送で公表した(バーンズ回答)。そこには、
天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の支配下に置かれる
最終的な日本の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定される
 ……という2項目が含まれていた。
 これを傍受した外務省は、このままでは陸軍抗戦派を刺激することになると考え、「支配下に置かれる(be subject to)」を「制限下に置かれる」というマイルドな表現に、「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)」を「政府の形態」と、意図的に歪めた形で訳して発表した。「政府」であれば天皇は含まれないという歪曲だ。
 天皇は「これでいい」と了承した。
 しかし、陸軍も原文を入手していて、be subject to には「隷属する」というきつい訳をつけた。
 10日の御前会議では1条件のみの受諾に賛成した平沼騏一郎も「このままでは受け入れられない」と木戸内大臣に訴えた。
 12日午後の閣議でもそれが問題となり、このへんから鈴木首相も動揺し始めた。
 このままではまずいと思った東郷外相は木戸内大臣に事態が悪化していることを訴え、松本俊一外務次官も、湯河原にいた近衛に、すぐに上京して鈴木首相や平沼を説得してほしいと要請した。
 12日の夜、木戸は鈴木首相に会って、「これを受諾することで万一国内で暴動が起きても、我々が命を捨てればよい。もはや迷っている場合ではない」と説得。鈴木首相も「やりましょう」と同意した。
 しかし、この間、軍部はさらに態度を硬化させていた。
 13日朝、阿南陸相が木戸を訪れ「これ(バーンズ回答)を呑めば日本は亡国となり、国体維持が不可能となる。これは受け入れられない」と訴えた。しかし、天皇や首相の意志を確認していた木戸は「陛下の御決意は固い。この期に及んで確たる理由もなしに拒否すれば、陛下は世界から馬鹿か狂人のごとく批判をうけられることになる」と反駁したが、阿南は納得しなかった。
 この日、最終確認のための閣議が開かれた。15名の大臣のうち、12名は受諾に同意。阿南外相、安倍源基げんき内相、松阪広政法相の3名が反対し、玉砕論さえ主張した。

安倍源基

安倍源基(1894-1989)
山口県出身。東京帝国大学法学部法律学科卒業後、内務省入省。警視庁特別高等警察部長、警視総監などを経て鈴木内閣で内務大臣。特高部長だったときは共産党員らへの拷問により「赤狩り安倍」と呼ばれ、1933年だけでも作家の小林多喜二を含む19人が特高取り調べで虐殺された。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕されるが、東条ら7人の市警失効後に不起訴・釈放となる。その後、岸信介、木村篤太郎、安岡正篤らと共に新日本協議会を結成し代表理事に就任。全国警友会連合会会長、東京都警友会会長、松陰会会長などを歴任。自民党右派で構成された自由民主党政務調査会治安対策特別委員会(治対委)でも中心人物となる。1989年、95歳で死去。

松阪広政

松阪広政(1884-1960)
京都府宇治市出身。東京帝国大学法科を卒業後、検事に。共産党員弾圧の三・一五事件、四・一六事件を指揮。司法省刑事局長、東京控訴院検事長を経て、1941年に検事総長就任。1943年、反東条運動を展開していた衆議院議員・中野正剛を強引に逮捕させ、割腹自殺に追い込む。1944年、小磯内閣の司法大臣となり、続く鈴木貫太郎内閣でも留任。戦時体制下の思想弾圧を強めた。戦後はA級戦犯として逮捕されるが、釈放され、晩年は佐藤栄作の弁護士を務めた。1960年に75歳で死去。

 13日午後3時半頃、近衛が米軍の空襲をぬうようにしてようやく東京に戻り、木戸に無条件降伏をするべきと訴えた。近衛は14日にも細川護貞を通じて鈴木首相に「この際、形式や文字に拘泥している場合ではない。大局に立って国家を救うべし」と訴えている。
 木戸は軍の抵抗を抑えるためには政府閣僚と最高戦争指導会議のメンバー全員を集めた特別な御前会議を開き、天皇直々に終戦を厳命してもらうほかないと考えた。鈴木首相もそれに同意し、14日午前11時頃から御前会議を開いた。
 そこでも阿南陸相、梅津参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人は涙ながらに「連合国側の回答をそのまま呑めば国体護持が困難になる。改めて問い合わせられないなら、戦争を継続して死中に活を求めるしかない」と訴えた
 それに対して天皇は「他に意見がないなら自分が言う。どうか私の意見に賛成してほしい」と前置きした上で「私の意見は9日の会議で示した通りで少しも変わらない。連合国からの回答もあれでよろしいと思う。私の戦争終結に対する決心は世界の大勢と我国力判断によっている。私自らの熟慮検討の結果であって、他から知恵を付けられたものでない。望みのない戦争を続ければすべてを失うことになる。私の手足となってくれた軍人から武器を取り上げ、信頼した者を戦争犯罪人として差し出すことは辛いし、幾多の戦死者、傷病者、遺家族、戦災国民の苦労を考えると同情に堪えないが、三国干渉の時の明治大帝の御決断にならって、このように決心した。陸軍の武装解除の悔しさは十分に分かるが、事ここに至っては、国家を救う道はこれ(ポツダム宣言を受け入れた無条件降伏)しかないと考えるから、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、この決心をした。今まで何も聞いていない国民が突然この決定を聞いたら動揺するだろうから、詔書でもなんでも用意してもらいたい。ラジオ放送もやる。あらゆる手を尽くす」といったことを明言した。

凡太: なぜもっと早くこれができなかったんでしょう。そもそも「国体護持」ってなんですか。天皇が絶対的な統治権を持つとか言いながら、軍はこれまでにも散々天皇を無視して、都合のいいように利用してきただけですよね。結局、天皇の名を借りた軍事国家であり続けたいということじゃないですか。

イシ: まさにそうなんだけど、国民やメディアも含めて、国全体がこの「天皇は絶対敵存在」という宗教に染まり尽くしていることが不思議だよね。
 世界の歴史を見ても、これだけの負け戦をした後でも国王や皇帝が国民から見放されなかった国というのは例がないんじゃないかな。
 皮肉な言い方をすれば、明治政府の「国家神道」という宗教政策が成功したともいえるかな。江戸時代までの日本の庶民には、天皇のために命を捧げるという精神は形成されていなかったと思うからね。

松岡と軍抗戦派の最後の抵抗

イシ: 天皇の「聖断」を受け、政府はすぐに連合国側にポツダム宣言受諾を知らせようとしたんだが、陸軍が妨害したために、受諾の電報を打てたのは14日夜10時を過ぎていた。
 天皇の希望でラジオ放送も行われることになったので、宮内省内で天皇の肉声が録音された。それを妨害しようとした陸軍省軍務局の畑中健二少佐ら陸軍の若手将校グループが偽の命令を発して近衛歩兵第二連隊を動かし、皇居と放送局を占拠した(宮城事件)。
 実はこのクーデターは数日前から徐々に計画が進んでいた。
 8月10日、陸軍省軍務局軍務課長・荒尾興功大佐が、伊豆で静養中だった松岡洋右に使者を送って、阿南陸相が会いたいと言っていると伝えた。松岡は翌11日に上京し、阿南の私邸で密談している。その前後の松岡の言動から考えると、戦争継続のため、鈴木内閣を倒して松岡内閣にするという密談だったのではないかと言われている。
 8月12日午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で皇居敷地内に入り、そのまま居座る。
 8月13日早朝、松岡が東久邇宮を訪ねて「ポツダム宣言受託は亡国であり、絶対に受け入れてはいけない。日本を救う道は戦争を継続し、死中に活を求めるしかない」と、阿南と同じことを主張した。
 阿南も木戸と航空総軍参謀・三笠宮崇仁少佐を訪ねて天皇への戦争続行の請願を訴えたが、逆に咎められた。
 13日午後、陸相官邸に戻った阿南のもとに軍事課長・荒尾興功おきかつ大佐、同課員・稲葉正夫中佐、井田正孝中佐、軍務課員・竹下正彦中佐、同課員・椎崎二郎中佐、畑中健二少佐の6名が訪れ、クーデター計画への賛同を求めた。この日の深夜に東部軍と近衛第一師団で宮城を隔離し、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らを捕らえて戒厳令を発令し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続する、という内容だった。阿南は6人に「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、帰した。
 13日夜、松岡は往診した医者に「実は場合によっては私に、という話があるのだが……」と打ち明けたところ、医者からは「(今の体調を考えれば)とても無理な話ですが、先生が死ぬ気なら、おやりになったらいかがですか」と言われた。
 14日午前7時、陸軍省で阿南陸相が梅津参謀総長に会い、クーデター計画のことを話したが、梅津が反対したので、阿南も同意した。
 14日に行われた御前会議のことはすでに説明した通りだ。天皇自らの言葉に動かされた阿南はクーデターをやめさせることを決断し、陸軍省内で天皇の聖断を伝えた。それを聞いた畑中健二少佐は、周囲が引いてしまうほどの大声でむせび泣いたという。
 しかし、徹底抗戦を訴える将校たちは納得せず、なんとかポツダム宣言受諾の電報発信を妨害しようとした。
 午後11時、中立国のスイスを通じ連合国側へポツダム宣言受諾を通告。
 玉音放送の録音は午後11時半頃から政務室で行われ、レコード盤2枚は侍従の徳川義寛(1906-1996)によって皇后宮職事務官室の軽金庫に保管された。
 近衛連隊の一部は玉音放送を阻止するために内幸町の放送会館も占拠し、職員を監禁。レコード盤が宮内省内部にあることを知り、必死に捜索したが、皇后関連の部屋に保管されていたために見つけられなかった。
 午前1時半頃、近衛第一師団司令部にいた師団長・たけし中将と、たまたま一緒にいた森の義弟の第二総軍参謀・白石通教しらいしみちのり中佐は、押しかけてきた畑中健二少佐、窪田兼三少佐らによって斬殺された。
 午前1時半過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとした下村宏情報局総裁と放送協会職員らが、坂下門付近で近衛歩兵に身柄を拘束され、監禁された。
 午前3時過ぎ、畑中は森師団長名の偽命令書を使って600名以上の兵を動かし、宮城を占拠。玉音放送のレコード盤奪取と木戸内大臣や石渡荘太郎宮内大臣らの捕捉を命じたが、木戸と石渡は地下金庫室に隠れていて無事だった。
 午前4時半頃、畑中が率いる近衛歩兵第一連隊第一中隊が放送会館を占拠。畑中は職員に、決起の声明を告げる緊急放送を要求したが、職員たちは「空襲警報が発令中なので、東部軍管区司令部の許可なしでは放送できない」と突っぱねた。
 宮内省の電話回線は叛乱部隊によって切断されていたが、1本だけ残っていた直通電話による通報でクーデターを知った東部防衛司令官田中静壱しずいち大将が、午前5時頃、数名の部下を連れただけで近衛第一師団司令部に自ら乗り込み、偽の命令で部隊を動かそうとしていた近衛第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。
 その直後、陸相官邸で阿南陸相が切腹。その現場には阿南の義弟でクーデター主謀者グループの一人である竹下正彦(1908-1989)と、同じくクーデター主謀者の一人・井田正孝(1912-2004)が立ち会った。
 午前6時過ぎ、クーデター発生を知った天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べた。
 午前8時頃、クーデターはほぼ鎮圧された。
 他に東京警備軍横浜警備隊の隊長・佐々木武雄陸軍大尉が勤労動員中の横浜高等工業学校の生徒達を集めて「国民神風隊」と名乗り、首相官邸で機関銃を乱射。鈴木首相は私邸にいて、官邸襲撃の知らせを受けて逃れ、無事だった。他に平沼騏一郎、木戸幸一、東久邇宮稔彦王らの私邸に放火した。
 また、玉音放送が流されたスタジオは放送の30分前にも、警備兵を装った将校がスタジオに乱入しようとして取り押さえられたり、あちこちで散発的な抵抗があったが、大事には至らなかった。
 クーデター主謀者グループのうち、椎崎と畑中は午前11時過ぎに自害。古賀も玉音放送の放送中に自害した。
 自殺を思いとどまった陸軍通信学校教官・窪田兼三少佐は、8月24日、陸軍予科士官学校の本田八朗中尉と共に、本田の指揮下にある十代の生徒を伴って川口放送所と鳩ヶ谷放送所を占拠し、ラジオで徹底抗戦を呼びかけようとしたが、これも失敗に終わり、投降した(川口放送所占拠事件)。その後、現場に田中静壱大将が到着して、この事件に参加した者たちに訓示した。田中大将はその夜、責任をとって拳銃自殺した。
 窪田少佐と本田中尉は憲兵隊に引き渡されたが、不起訴処分になり、窪田は地元に戻って農業や観光業を営んで1990年に死去。本田は航空自衛隊に勤務した後に2011年に88歳で死去した。
 他に自決しなかったクーデター関与者のその後を追うと、兵力使用計画を立案し、近衛師団長・森赳中将と白石通教中佐の殺害現場にもいた井田正孝は、戦後はGHQ戦史課に勤務した後、電通に入社。電通映画社の常務を務めた。戦後も一貫して「本土決戦をすべきだった」と主張し続け、2001年に91歳で死去。
 阿南陸相の義弟で阿南の恰幅を見届けた竹下正彦は、戦後、警察予備隊(陸上自衛隊の前身)に入隊し、陸上自衛隊幹部学校研究部長、陸上幕僚監部第5部副部長、防衛大学校幹事、第9混成団長、第4管区総監、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長(陸将)を歴任。1989年に80歳で死去。
 稲葉正夫は防衛庁に勤務し、戦史室編纂官。1973年に65歳で死去。荒尾興功は1949年3月まで戦犯容疑により巣鴨拘置所に拘留されたが不起訴となり、1950年から52年まで陸海軍連絡委員会連絡部長を務め、1974年に72歳で死去。
 「国民神風隊」を率いて首相官邸などを襲撃した佐々木武雄は、その後日本中を逃亡し、「大山量士」と名前を変えて「亜細亜友之会」という財団法人を立ち上げ、理事長になったまま1986年に80歳で死去。
 ……などとなっている。

 そんなこんなで、とにかく日本は無条件降伏し、9月2日に東京湾に停泊中だったアメリカ海軍戦艦ミズーリの艦上で日本の全権・重光葵外相、梅津美治郎参謀総長とアメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合国代表によって降伏文書が調印され、ようやく戦争が終結した。

 戦争終結といっても、いきなり日本が今のような平穏な国に変わったわけじゃない。中国大陸にいた支那派遣軍約200万人は、敗戦後も南京に留まって蒋介石政府とかけあって日本兵の復員に尽力した今井武夫少将らの努力もあって概ね帰国できたけれど、満州、南樺太、千島列島などにいた日本軍兵士およそ80万人はソ連軍によってシベリアなどに抑留されて強制労働をさせられ、およそ6万8000人が病死、衰弱死した。
 日本は朝鮮半島を米ソに、台湾を中華民国に、南樺太・千島列島及び歯舞・色丹をソ連に、本州・北海道・九州・四国・南西諸島・小笠原諸島をイギリス軍とアメリカ軍によって占領された。ソ連は釧路と留萌を結ぶ線より北の北海道を占領すると主張したが、トルーマンが拒否したために北海道の分割は免れた。ドイツやその後の朝鮮のように国が真っ二つに裂かれることにならなかったのは幸運だった。
 敗戦後の日本が直面した様々な問題や、掌返しのように国民がアメリカ贔屓になっていく過程なども知らなければならない歴史だけれど、今回はここまでにしよう。
 現代の日本人が「先の大戦」と呼ぶ戦争がどんな風に引き起こされ、どんな風に終わったか、これを知るだけでも大変な作業だったね。

凡太: 正直なところ、めっちゃ疲れました。知らないことばかりでしたし、なんとなく知っていたつもりのことも、しっかり見ていくと全然印象が違っていて、驚きの連続でした。

イシ: しつこいようだけれど、何が起きたかをただ表面的に暗記するんじゃなくて、なぜそんなことになったのか。何がどうまずかったのかを考えることが重要だよ。「システム構築の欠陥」や「社会の空気感」、それを作り出したメディアの罪。政府首脳や軍上層部だけでなく、日本全体を包み込んでいた「認知的不協和」「同調圧力」という病理。そうした問題は今の日本にもはっきりと残っているし、戦前のようにどんどん膨れあがっている。はっきり言えば、今の日本はあの時代と同じ間違いを繰り返そうとしている
 「先の大戦」をしっかり学び直すことで、きみたちの世代がしっかり自分の頭で物事を合理的かつ穏健に考える力を養い、なんとかこの国、いや、人間社会全体の平穏を1日でも長く保ってくれることを願っているよ。


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