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日米開戦の年 1941年の動勢(2)

(承前)

4回の御前会議

イシ: さっききみは、「昭和天皇は全体を制御できる立場のシステム管理者ではなかったのか」と言ったね。
 1941年には7月2日、9月6日、11月5日、12月1日の4回に渡って御前会議が開かれている。この4回の御前会議で具体的にどんなことが決められたのか、その会議で軍や政府上層部がどんな発言をしたのかを見ていこう。

●7月2日の御前会議

  • 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」という文書を決定

  • 満州・中国大陸の確保を前提に、南方(仏印・蘭印など)「南方資源地帯」に進出する「二正面方針」を国策として確定

  • 米英との戦争を「辞せず」と明記

  • ただし「戦争を避けるための外交努力を尽くす」ことも併記

 内大臣の「木戸幸一日記」には、「(天皇は)支那事変の打開なきうちに新戦線を拡げんとすることを御憂慮」と書かれている。
「しかし政府・軍の意見一致のため御裁可を下される」とあるので、天皇は特に異論を唱えず、南進政策を了承したことになる。

米内光政(海相):「南方に手を出せば米英と衝突は必至。海軍は準備不十分なり」と発言。
東条英機(陸相):「外交交渉も戦争準備も並行」と主張。「独ソ戦でドイツ勝利」との観測強く、対米戦覚悟を固めていた。
 結局、米内は東条に押しきられ、「政府一致」を理由に沈黙した。

 南進政策を認めながら、一方でアメリカとの交渉も続けていくというのは無理に決まっているんだけれどね。この時点ですでに日本の運命は決まったと言ってもいいんじゃないかな。

 この後、

  • 7/13 関東軍特種演習(関特演)動員開始。総勢16個師団。85万人規模。

  • 7月 陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)が、アメリカと日本の経済力の差は20対1との報告を出す。

  • 7/18 松岡外相を更迭し、第三次近衛内閣発足。

  • 7/26 アメリカ、イギリス(翌日にオランダも)が日本の外国資産を凍結して金融取引を停止

  • 7/28 日本軍、南部仏印進駐開始。

  • 8/1 アメリカが日本に対し石油輸出を全面禁止を発表

  • 8/4 近衛首相が日米首脳会談の決意を東条陸相、及川古志郎海相に告げる。及川は全面的に賛成。東条は対米戦の決意をもって臨むことを条件として同意。

  • 8/7 松岡から代わった豊田貞次郎外相が駐米野村大使に対し、日米首脳会談をアメリカへ提議するよう訓令。野村はハル国務長官に首脳対談を申し入れるが、ハルは曖昧に返答。

  • 8/9 チャーチルとF.ローズヴェルトが大西洋憲章(連合国の戦後処理構想)を発表。

  • 8/17 大西洋会談から戻ったローズヴェルトが野村大使に対日警告文を読み上げる。

  • 8/18 日米交渉の進展をかけて、豊田外相と駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーが対談。

  • 9/3 大本営政府連絡会議で日中戦争を継続するのか、撤兵するのか、対英米戦に突き進むのか議論。

  • 9/6 御前会議で対米交渉妥結なき場合、武力発動の方針が決定。

  • 9/6 御前会議が終わった後の夜、近衛首相が駐日アメリカ大使グルーを招き、秘密会談。近衛は日独伊三国同盟を事実上無効にする、ドイツ軍がアメリカを攻撃した場合も日本は対米参戦しない、直ちに南北仏印から撤退することなどを約束。

 ……という推移だった。

凡太: ローズヴェルト大統領が野村大使に行った警告というのはどんなものだったんですか?

イシ: かなり厳しいものだった。
「もし日本政府が隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画に従って今後なんらかの武力ないし武力の威嚇という手段をとるならば、アメリカ政府は、アメリカおよびアメリカ国民の正当なる権利と利益を保護するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」
 一方で、ローズヴェルトは、近衛との首脳会談の提案には否定はせず、ホノルルに行くのは無理だが、アラスカのジュノーではどうかと返事をした。

●9月6日の御前会議

 会議の冒頭で昭和天皇が明治天皇の御製を朗読。
四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ
 直接的な発言は控えつつ、明治天皇が平和を希求したことを思い出させ、開戦論に歯止めをかけようとしたと解釈されている。

木戸日記(9月6日付):「陛下は開戦に傾きつつある空気を深く御憂慮」「しかし軍部の主張強く、結局は外交努力を条件に裁可」
米内光政(海相):「(この決定で)日本はもはや引き返せぬ峠を越えたり」
近衛文麿(首相):御前会議後に「もはや外交では無理」と述懐。

 結局「対米交渉妥結なき場合、武力発動」という方針が決定された。

凡太: でも、この同じ日に近衛首相はアメリカのグルー駐日大使をこっそり招いて、ドイツがアメリカを攻撃しても日本は参戦しないとか、南北仏印から撤退するとかを約束しているんですよね。滅茶苦茶じゃないですか。

イシ: 理性が吹き飛んだ二枚舌というか、「国家」としての統一意思を形成する中枢が崩壊していたとしか言いようがないね。
 この後、9月27日に日本側からアメリカに「ドイツとの関係がギクシャクするとしても日米首脳会談を行いたい。すでに輸送の船舶と随員も決定済みであり、10月10日または15日はどうか」と打電した。
 軍部がいかに反発しようとも、中国からの撤兵も含めて、国外の場で天皇の意向を受けた首相がアメリカの大統領と直接決めてしまえば、軍の強硬派も覆せないんじゃないかという思いがあったんじゃないかな。国内では軍部が怖ろしくて決められないから、国外でアメリカに泣きを入れてなんとか戦争を避けたいという、もはや末期的な姿だ。
 陸軍の主戦派も、日米首脳会談が実現すれば、近衛は一方的に譲歩して妥結を図るだろうと読んでいた。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーも、会談実現に向けて国務省の説得に尽力した。グルーはアメリカ国務省に対して「日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいている。この状況から抜け出せるようにするには日米首脳会談が有効だ」と説明した。
 ところが、ハル国務長官は「あくまでも事前に日米間で基本的合意ができていることが前提で、その上で首脳会談で決定すべき」として拒否。また、国務長官特別顧問スタンリー・ホーンベック(1883-1966)も「日本は4年にわたる日中戦争で消耗しているし、日本のリーダーたちは仲間争いをしていてまとまらない。そもそも日中戦争も三国同盟も南部仏印進駐も、すべて近衛内閣のもとで行われたではないか。近衛は軍の言いなりで何もできない首相だから相手にする意味がない」という考えで、首脳会談に強硬に反対した。
 この時点で、アメリカは日本を話し合いで変えることは不可能だと腹を決めていたし、日本は対米戦やむなしという結論に追い込まれる空気に包まれた。最後まで対米戦に反対していた海軍も、その空気に呑み込まれた。

Joseph Clark Grew

ジョセフ・グルー(1880-1965)
Joseph Clark Grew ボストン市出身。ハーバード大学卒業後、駐エジプト総領事書記生、駐メキシコ大使館書記官、駐ロシア帝国大使館書記官、駐ドイツ帝国大使館書記官、駐オーストリア=ハンガリー帝国大使館書記官、ドイツ代理大使、国務省西欧部長、駐デンマーク公使、駐スイス公使、国際連盟アメリカ代表、国務次官就任、駐トルコ大使などを経て、満州事変翌年の1932年に駐日大使に赴任。軍国化していく日本に強い危惧を覚え、日米関係の改善のため日本政府は積極的な措置を取るべきと説く。日米開戦直前の1941年9月には近衛首相と秘密裏に会談を行い、日米交渉の最後の望みとなる近衛=ローズヴェルト会談の実現に努力するが、米国務省の反対で実現せず。
日米開戦後、駐日アメリカ大使館員は大使館内で抑留されたが、日本の外交団・民間人との交換で1942年8月に帰米。1944年12月、国務次官に就任。戦後処理を見据えて「日本人は自らの政体を選ぶ権利がある」「天皇は戦後日本の唯一の安定要因である」と説く。
日本敗戦と同時に国務省を辞め、対日占領政策への協力要請も「支配者として日本に戻る気はない」と固辞。1948年6月、米国対日評議会名誉会長に就任し、財閥解体の緩和や公職追放者の復権を訴えた。その後も日本の高校卒業生をアメリカの大学に迎えるための「グルー基金」を設立するなど、日本との友好関係を続けた。1965年、85歳で死去。

  • 10/2 アメリカが日米首脳会談を事実上拒否。

  • 10/16 第三次近衛文麿内閣総辞職。18日に東条内閣が発足

  • 10/19 海軍軍令部が真珠湾攻撃作戦を了承。

  • 10/23 天皇の意向を受け、9月の御前会議での決定を白紙に戻しての再検討が大本営政府連絡会議で始まる。

  • 10/29 連絡会議で9月6日御前会議決定の最小限度の要求を緩和した日米交渉「甲案」が決定。

  • 10/30 嶋田繁太郎海軍大臣が開戦決意表明。

  • 11/1 大本営政府連絡会議で、東郷茂徳外相が対米開戦を回避するための「乙案」を提示。しかし、結論は開戦準備と外交を並行して行い、外交で解決する最終期限を11月30日と決められる。

  • 11/3 駐日アメリカ大使グルー、本国へ日本が対米戦を決意した模様だと警告文を送る。

  • 11/4 東郷茂徳外相が野村駐米大使に日本側最終案(甲案・乙案)を極秘に伝えるが、アメリカが暗号解読して内容を知る。

  • 11/5 御前会議。期限付き交渉方針が決定され、日米開戦がカウントダウン。


イシ: アメリカからの回答に対して、東条陸相と杉山参謀総長は「交渉の余地はない。ハル四原則は承認しない。駐兵条件に関しても一切変更しない」と申し合わせた。
 しかし、海軍は「撤兵する、しないが元でアメリカと戦争するなどというのは愚の骨頂。外交での事態解決をすべし」と結論づけた。しかし、及川古志郎海相が「では、陸軍と喧嘩する気で争うが、よいか」と念を押すと、永野修身軍令部総長が異議を唱えたため、結局、海軍としての意思統一はできなかった。
 及川海相は直後の第三次近衛内閣総辞職で海相を辞任。東条内閣で海相になった嶋田繁太郎が10月30日に最終的に開戦を決意した。

凡太: 海軍ではこの時点でも対米戦だけは避けたいという意見だったんですよね。及川海相はなぜ頑張れなかったんでしょう。

イシ: 一言で言えば責任を回避したんだろうね。第三次近衛内閣が総辞職する直前の10月7日に、陸相の東条から「海軍は対米戦に勝利する自信はあるか」と訊かれ、「それはない」と答えている。そこで東条が「海軍が勝利に自信がないと言うなら、国策を考え直さなければならなくなるが」と問い詰めると「いや、今のはあくまで私的な発言だ」と逃げたという。
 及川自身はまだ近衛とローズヴェルトの首脳会談に希望を持っていた。永野修身軍令部総長が「もはや日米交渉の見込みはない」と言っても、及川は「まだ可能性はある」と反論もしている。
 10月12日には近衛の私邸で会談が持たれたんだが、そこでも近衛が「和戦どちらか」と問うと、及川は「総理に一任する」と逃げている。戦後の回想としては、海軍内で「近衛に下駄を履かされるな」という声が上がっていたからだという。
 結局、自分では何も決められない、責任を背負って行動できない人だったんじゃないかな。

凡太: 東条内閣になって海相に就任した嶋田繁太郎も結局、対米開戦に同意してしまいました。この人は最初から開戦派だったんですか?

イシ: いや、嶋田も当初は非戦派だった。海軍大臣就任も最初は辞退していたんだが、伏見宮博恭王に説得されて受諾した。嶋田は伏見宮に「速やかに開戦しないと勝機を逸してしまう」と言われ、最終的には物資がどんどん不足していく状況を長引かせてはまずいという判断から開戦に同意した。10月30日に海軍内で開戦決意表明をした際には「海相一人が戦争に反対したために戦機を失しては申しわけない」と述べた。これを知って、海兵で同期だった山本五十六は「おめでたいやつだ」と呆れたという。

及川古志郎

及川古志郎(1883-1958)
岩手県出身。海兵(31期)、海大(13期)卒業。第二次、第三次近衛内閣で海軍大臣就任。第二次近衛内閣のときは三国同盟に賛成して調印させた。第三次近衛内閣のときは、陸軍の対米戦開戦の圧力に抗しきれず、近衛首相に「一任します」としたまま内閣総辞職で辞任。敗戦前年の1944年8月、軍令部総長就任。特攻隊の承認を求められた際は、「決して命令はしないように」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と、ここでも決定を現場に預けた。戦後は公職追放。1958年5月に75歳で死去。

嶋田繁太郎

嶋田繁太郎(1883-1976)
旧幕臣で神官の家に生まれる。海兵(32期)、海大(13期)卒業。イタリア駐在武官、海軍大学校教官、連合艦隊参謀長、海軍潜水学校校長、第三艦隊参謀長などを歴任。昭和10(1935)年、軍令部次長。東条内閣で海軍大臣就任。最終的に日米開戦に同意するも、真珠湾の奇襲攻撃にはアメリカの志気を挙げる結果になると危惧していたとされる。戦後はA級戦犯として終身禁錮刑判決。1955年に仮釈放後赦免。1976年に92歳で死去。

 11月1日の連絡会議では、開戦に反対する賀屋興宣蔵相、東郷茂徳外相と開戦派の永野修身軍令部総長が激しい論戦を繰り広げた。
 賀屋と東郷は、「アメリカが先に戦争を仕掛けてくることはないと思うから、今、日本から戦争を始めるのはまずい。長期戦になれば日本に勝ち目はまったくない」と主張。それに対して永野は、「今戦争をやらずに3年後にやるよりも、今やる方が戦争はやりやすい。勝機を逃すな」と反論した。

東郷茂徳

東郷茂徳(1882-1950)
鹿児島県出身。東京帝大文科大学独文科卒業。外務省に入省し、大正10(1921)年にドイツ・ベルリンに赴任。ユダヤ系ドイツ人、エディ・ド・ラロンドと恋仲になり、周囲の反対を押し切って結婚。昭和12(1937)年、駐独大使。ナチスへの嫌悪を隠しきれず、ベルリン駐在陸軍武官大島浩、ナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立して駐独大使を罷免される。昭和13(1938)年、駐ソ連大使に就任。日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の関係回復などに努力。第二次近衛内閣の松岡洋右外相と対立しながら、日米関係の改善を志向する。日米交渉では、幣原喜重郎、吉田茂と共に、アメリカとの妥協案を取り入れた「乙案」を作成。賀屋興宣蔵相らと共に最後まで日米開戦回避の努力を続けたが、最後の「ハル・ノート」を受けて、天皇に「これが最後通牒です」と上奏。
敗戦直前の1945年4月、鈴木貫太郎内閣の外務大臣に就任。昭和天皇の意を受けて終戦交渉に携わる。戦後、東京裁判で戦犯として訴追され、禁錮20年の判決を受ける。1950年に67歳で病死。

凡太: 日本側がまとめた「甲案」「乙案」というのはどんな内容だったんですか?

イシ: まず、甲案はこんな内容だ。

  • 日本は、無差無差別原則が全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する

  • 三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する

  • 撤兵問題に関しては、(A)中国においては華北・内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵。所要期間について米側から質問があった場合、概ね25年を目処とする旨をもって応酬すること。(B)日本は仏印の領土主権を尊重する。仏印からは、日中和平成立、または太平洋地域の公正な平和確立後撤兵

  • なお、(ハル)四原則に関しては、これを日米間の正式妥結事項に含めることは極力回避する


凡太: 2年以内に撤兵すると答えておいて、どのくらい時間がかかるかと問われたら25年と答えるわけですか。「太平洋地域の公正な平和確立後」というのもよく分からないですね。

イシ: のらりくらりと本題をそらしていけるという甘い考えだね。
 で、東郷外相が追加した乙案というのは、

  • 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない

  • 日米は蘭印において必要資源を得られるよう相互協力する

  • 米国は年100万トンの航空揮発油の対日供給を確約する

  • (備考一)本取決が成立すれば日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意あり

  • (備考二)必要があれば従来の提案(甲案)の中にある通商無差別待遇、三国条約に関する規定を追加挿入する

 というもの。これもよく分からない内容だけど、要するに仏印からの撤兵をより明確にする、ということかな。東郷の目論見としては、甲案はあまりにも曖昧模糊としているから、まずは南方の問題を先に片づけたいということだった。
 杉山参謀総長と塚田参謀次長がこれに強硬に反対したが、東郷はなんとか乙案も滑り込ませた。

●11月5日の御前会議
木戸幸一日記(11月5日):「陛下は『戦争は避け難し』との御感を漏らさる」「それでも外交努力を尽くすよう、政府・軍に強く希望」
東条英機首相:「外交の成否いずれにせよ、開戦準備は予定通りに」
米内光政(海相):「海軍は石油一年分しかない。長期戦は不可能」と進言。しかし、黙殺される。
侍従武官日誌:「天皇、東条首相を宮中に召し、戦争回避を再度諭す」の記述あり。

結果:対米交渉の期限を11月末と決め、期限切れなら武力行使と決定

 この時点でもう、東条はじめ軍部は、もう開戦回避は無理だと覚悟を決めていたんだろうね。

 それでも東郷外相は諦めていなかった。野村大使を補佐するために来栖くるす三郎をワシントンに急行させた。来栖は出発前に東条首相と会い、交渉が妥結した場合は必ずそれを支持してくれるかと念を押し、東条も約束すると答えた。
 来栖は11月5日に出発し、11月15日にワシントン入りして野村大使と合流した。
 しかしアメリカ側は、来栖が三国同盟に署名したときの駐独大使であったことから枢軸国側の人間という認識で、交渉に対してますます警戒心を抱いた。来栖自身は三国同盟には強い懸念を抱いていたそうだけどね。自分の意志を押さえ込んでも上からの命令に従って仕事をしなければいけない宮仕えの辛いところだね。

来栖三郎

来栖三郎(1886-1954)
横浜市出身。東京高等商業学校(後の一橋大学)専攻部領事科卒業後、外務省入省。各国の領事、書記官を歴任し、1939年、ナチス政権となったドイツで特命全権大使。日独伊三国同盟調印に出席。1941年、東条内閣で東郷外相の命を受け、異例の「第二大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐。しかし日米開戦となり帰国。敗戦直前の1945年2月に退官。戦後はGHQにより公職追放。1951年に追放解除となるが、1954年に68歳で死去。

 来栖を交えたアメリカ側との交渉時、アメリカはすでに暗号電文を解読していて、日本の甲案、乙案の両方を知っていた。だから甲案への回答は終始はぐらかしていたし、乙案に対しても、日本の軍部が黙ってその内容を呑むとは思っていないから、真剣に相手にしなかった。
 焦った野村大使は、独断で「日本は仏印南部から撤兵するので、アメリカも日本の資産凍結令を解除してほしい。その上で話を進めましょう」などと申し入れた。これが乙案の提示前だったから、交渉はますますおかしなことになった。
 結果、交渉は成立せず、最終のハル・ノートの提示となった。

  • 11/7 野村駐米大使がハル国務長官に日本の「甲案」を伝えるが、ハルはすでにその内容をすべて知っていた。

  • 11/15 大本営政府連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を採択。ドイツ勝利を前提とした案。

  • 11/16 野村大使の補佐役として派遣された来栖三郎特命大使がワシントンに到着。アメリカはかえって警戒する。

  • 11/17 東郷外相が国会で「日米交渉は鋭意継続中であり、政府は最大の努力をしている」と演説。

  • 11/17 航空母艦「加賀」が真珠湾攻撃のために佐世保を出航。

  • 11/20 大本営政府連絡会議で「南方占領地行政実施要領」を決定。戦争のために占領地の住民の生活を犠牲にする内容。

  • 11/21 野村大使と来栖特命大使がハル国務長官に日本の最終妥協案である「乙案」を提示。

  • 11/22 アメリカの暫定協定案が書きあがるが、その後、蒋介石が日米交渉に待ったをかけたため、日本側への提示が延期される。

  • 11/25 東条首相が日比谷で開かれた「翼賛会主催講演会」で「いかなる困難、犠牲も全国民は等しくこれを負担する」と熱弁。

  • 11/26 チャーチルがローズヴェルトに中国を守るよう要請する電報を打電。アメリカの対ドイツ宣戦布告に期待。

  • 11/26 アメリカが日米交渉におけるアメリカ側の提案(ハル・ノート)を提示。日本の中国およびインドシナからの撤退を要求。

  • 11/26 ヒトカップ湾に集結していた日本の機動部隊が真珠湾に向け出航。

  • 11/29 駐ドイツ大島大使が独ソ戦について「ドイツ有利」という誤情報を日本に打電。


凡太: 表面上はまだ交渉が続いているかのようですが、実際には軍はすでに真珠湾攻撃のために動いているんですね。

イシ: 催眠術にかけられたかのようだね。頭ではアメリカを相手に戦争をしてはいけない。勝てるはずがない。日本はとんでもないことになるかもしれないと分かっていながら、それまでの流れを止められなかったというだけでズルズルと動いてしまっている。
 11月26日のハル・ノートを受け、それまで開戦回避を主張し続けていた東郷外相も天皇に「これはアメリカからの最後通牒です」と上奏し、開戦回避は事実上不可能になってしまった。

●12月1日の御前会議
木戸日記(12月1日):「陛下、深く御沈痛の御様子」「しかし政府・統帥部意見一致の上は、やむを得ず御裁可」「陛下、詔勅中『自存自衛』の語を特に入れることを希望」
侍従武官・寺崎英成の回想:「陛下は涙をもって開戦を了承された」「しかし、いったん決まれば国民の分裂を恐れ、断固として統一を保たれた」
米内光政発言(戦後回想):「開戦は国家的自殺と知りながら止められなかった」

結果:対米英開戦を正式決定(12月8日開戦)。

 こうしてアメリカと戦争をするという、日本史史上最悪の間違いを犯すことになった。

 ここまで見てきて分かるように、戦前の日本は、外交(外務省・閣議・御前会議)が完全に形骸化して、まともに機能しなくなっていた。
 苦し紛れに「思いつきの裏交渉」が行われたり、責任を持つべき組織のトップが決断せず、空気に流され、責任回避に終始していた。
 御前会議などでも、「外交努力を尽くす」として戦争を避けようとした形を取りつつ、実際には「期限を切って開戦準備を完了する」という両立しない二重構造を続け、そうした欺瞞を天皇の前で形式的に「合意」していった
 その「空気」はどうやって醸成されたのか。なぜ政治に合理的な理性が働かなかったのか。
 このことを考えるために、時間をかけて振り返ってみた。
 きみはどういう感想を持ったかな?

凡太: なんか、まだモヤモヤしたままです。一人一人を見ていくと、まともな判断をして、懸命に動いている人たちもいたのに、それが正しい結果に結びつかない。空気だの二重構造だのと言われても……全然理解できません。

イシ: そうだよねえ。とても不思議な感じがするよね。でも、これが歴史の怖さなんだよ。
 誰が悪いとか、どこの国が悪いとか、そういう見方をしていても意味がない。例えば、東条が悪いと言って全責任を押しつけるのは乱暴だ。ここまで見てきただけでも分かるように、彼より邪悪な軍人はいくらでもいた。東条は人間としては邪悪というよりは愚直で、ヒトラーやスターリンのような独裁者タイプではない。いずれにせよ、システム管理者としてはまったく不適格だった。
 駄目な人間、邪悪な人間は必ずいるし、そういう人間が支配層に入り込むことも避けられない。それでも、全体としては理性を大きく外れたような状況を作り出さないようなシステムを構築しなければならない。
 そして、教育とメディアの重罪も忘れてはいけない。小学校が国民学校になり、幼い頃から「皇国民」教育が行われた。大人に向けては「新聞は社会の木鐸ぼくたくである」という標語がまったく無力なほど、メディアが理性のない報道を続けた。国中に「戦争しかない」と思わせる空気を作り出したのはマスメディアだ。
 このことを学ばずに自虐史観だの日本は特別な国だの改憲だのと言っていると、同じ過ちを繰り返すことになってしまう。それこそ、「先の大戦」で死んでいった人たちに対する冒瀆だよ。

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「フクシマ」はこの世の中そのものなのだ。
 私たちは「フクシマ」の中に生まれ、「フクシマ」の中で生きている。
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 こうした現状を踏まえた上で、いかに自分の命や生き甲斐を守っていけるか。周囲の大切な人たちと共感しあい、助け合っていけるか。それが問われている。

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