夢幻の歌曲【カフェ浪漫主義45】
近頃の雨籠りの日々にこそ音楽は欠かせない。
涼しさを誘うハープ曲や静かなピアノ曲以外の大概の音楽が酷暑期には煩わしく聴こえてしまうので、その前のまだ梅雨の涼しさがある内に知られざる音楽を紹介しておきたい。
先月たまたま見つけたこの『音楽は愉し』は数少ない戦前の音楽随筆集で、明治から昭和初期の日本の音楽事情がよくわかる稀少な本だ。

古上野珈琲器 大正〜昭和初期
この本の著者で戦前に活躍した音楽評論家「あらえびす」とは、驚いた事にあの『銭形平次』の作者野村胡堂の別名だったのだ。
他にもあらえびすの音楽の著書には戦後まで次々と版を重ね今でも文庫版が出ている『名曲決定版』などもあり、当時有名だった彼のSPレコード2万枚のコレクションも何処かに寄贈され今も現存するようだ。
この『音楽は愉し』を読むと、明治大正までの日本での洋楽(クラシック音楽)は楽器もレコードもまだ世間には普及していない時代で、最も大衆に知れ渡っていたのは歌(歌曲)だったそうだ。
歌曲の楽譜なら日本でも印刷可能で広く販売されていたし、明治政府が力を入れた文部省唱歌は学童だけでなく一般の大人達も口ずさんでいたようだ。
その後の大正昭和初期には蓄音機も徐々に行き渡り、持主の家などには愛好家が集まってレコードコンサートが盛んになった。そんなホームコンサートが当時の人々にとってどれほど夢幻のひと時だったかは想像に難くない。その頃から西洋音楽を紹介していた雑誌『レコード音楽』に、毎月この「あらえびす」が評論を書いていたと言う訳だ。
また、竹久夢二の表紙絵で人気のセノオ楽譜も大正〜昭和初期に刊行された楽譜だ。

写真の「菩提樹の歌」は今では有名なシューベルトの歌曲だが、日本ではレコードより安価な楽譜がまず先に広まり皆が知るようになった。
セノオ楽譜は歌詞の日本語訳も一流の詩人達による物で、この曲は創業者の妹尾幸陽(幸次郎)自身が手掛けた文語韻律の美しい歌詞だ。「友よ来たりて憩へわがもと……」この夢二の表紙絵や詩人達の名訳が大変好評で、大正昭和初期に洋楽歌曲が日本に定着する力になったのだ。
近年出版された『セノオ楽譜表紙画大全集』も人気が高く、もうすでにネットでも入手難となっている。
その頃の日本では邦楽(雅楽)の方も盛んで、三味線の小唄などにも今では忘れられた名曲があったが、残念ながら当時はコード(和音)の概念に乏しく、和声法の発達した西洋音楽に一日の長を認めざるを得ない。
翻って昨今の西洋音楽はヒップホップとアイドル全盛の陰で、発達していた高次和声法やテンションスケールは廃れ、それとは逆に中国を中心としたアジアのミュージックシーンが日の出の勢いで進歩している。
音楽の根幹である美しい旋律や表現力豊かなヴォーカルも、今やアジアの方がレベルが上となった気がする。特に歌唱力による差が出やすい歌い上げるバラード曲は、今日の欧米ミュージックシーンではほとんど聴かれなくなった。一方、アジア圏ではまだ純粋な歌の上手さを評価する傾向が残っている。
その中でも歌唱力の最も高い現役男性ヴォーカルを選ぶならThe Oneをおいて他にいない。
The One(더원/漢字名:鄭淳元)は、日本では全くと言っていいほど知られていないが、韓国ナンバーワンヴォーカルを決める『나는 가수다(I Am a Singer)』という番組で優勝し、「韓国歌王」と呼ばれるようになった超一流の歌手だ。圧倒的な実力の割にその名前を聞かないのは、識別性の低い芸名のせいでもあるだろう。また、彼の歌はスタジオ録音版では本領を発揮できず大人しめになってしまうので、絶対にライヴ版を聴いた方が良い。
とにかく、抒情的なバラードを歌わせたら彼の右に出る者はいない。特筆すべきは神業レベルの共鳴技術だ。鼻腔・咽頭・口腔全ての共鳴操作が完璧で、低音部でも説得力を損なわず、高音部の力感は凄まじい。驚異的な倍音の強さで、デュエットで一流歌手と組んでもその相手の歌声をかき消してしまうほどだ。
音域こそ他の怪物ヴォーカルたちと比べるとそこまで広いわけではないが、声量とパワーは圧巻で、絶妙なシンコペーションが生み出すノリの良さや腹の奥底から鳴り響く濃厚なビブラート、限界の一歩先まで振り絞るようなロングトーン等は情感の極致だ。
この「愛你的宿命(My Destiny)」はThe Oneのパフォーマンスの中でも屈指の出来で、特に後半はバックのアレンジとも相俟って神懸かった演奏に仕上がっている。この「My Destiny」の原曲は韓国のリン(린)という歌手によるもので、『星から来たあなた』という韓国ドラマの主題歌らしい。
元の歌手のリンも最近の音楽番組で、[前回]紹介したMasaya氏とデュオで歌っていた。
このパフォーマンスもなかなかのもので、特にMasaya氏の力強くも繊細なファルセットは曲とよく合っているのだが、やはり壮絶なヴォーカルと豪華なバッキングのThe Oneのテイクに軍配が上がる。
「歌王」の名に相応しいThe Oneも、K-popアイドルやヒップホップ人気に押され、最近は居酒屋や狭いスタジオくらいの箱でしか歌えなくなっているようだ。
我が掲揚する歌謡浪漫の存続と復権のためにも、今後もアジア地域の知られざる名曲を紹介していきたい。
