妖魔か精霊か【カフェ浪漫主義43】
[前々回]紹介した『妖精学大全』では美しく可愛いらしい妖精画が沢山見られるが、著者井村女史の師である日夏耿之介は、もっと怪しくおどろおどろしい妖魔や黒魔術の方が好みだった。
その日夏耿之介訳の『英国神秘詩抄』は英国の中世宗教詩やオカルトがかった詩などを中心に集めた訳詩集だ。

ブラスフラワーベース フランス 20世紀初頭
詩人の北原白秋の兄弟が経営していたアルス社の本は、みな気の利いた豪華な装丁で愛書家達に人気がある。
特にこの泰西訳詩集シリーズは肝心の訳の良さに加え、恩地孝四郎装丁による小型天金クロス貼りの愛すべき佳書揃いだ。
日本では江戸後期から明治頃に大妖怪ブームが来ていた。それもあって日夏はフェアリーの訳語に「妖」の字を含む「妖精」としたのだろうが、芥川龍之介の言った「精霊」の方が美しいイメージがあって私は良いと思う。
日夏は可愛いらしさや清らかさの方にはあまり興味がなかったらしく、自分ではゴスィック・ローマン詩體などと言っていた。
この訳詩集では神秘主義的な中世宗教詩を多く扱っているが、中でも彼は本道の神聖真善美よりオカルトに走りかけた詩を集めたかったようだ。
戦後昭和の鎌倉文士で日夏の黒魔術を継いだのは澁澤龍彦だ。

木彫彩色聖人像 18世紀フランス
ピューターゴブレット 19世紀イギリス
この『黒魔術の手帖』始めオカルトや怪奇趣味本のヒットで、黒魔術は澁澤のお得意の分野となった。それは良いのだが私が不思議に思うのは日本でもオカルト怪奇趣味や猟奇的な小説は長期に渡り多くの作家達の作品が出ていのに、神話以来の浪漫主義の根幹である善神や美しき精霊達が全く出てこないのだ。
今のゲームアニメやライトノベルでは善美神や聖なる精霊達が多く登場して来るので、極端な怪奇猟奇趣味に偏ったのはやはり昭和時代特有の流行だったのだろうか。
長い歴史を見ても日本人が宗教的善性や自然美を見捨ててしまったのが大正昭和時代だから、読者大衆の嗜好から考えてもそうなのかもしれない。
21世紀に入ると世界的な神話的ファンタジーの再流行が起こるので、20世紀の宗教の否定は日本だけの話では無いものの、敗戦後の日本は特に伝統文化を否定してしまったから、より顕著にその傾向が見られるのだろう。
クラシックの世界で最も神秘的な創造性を発揮したのがスクリャービンだ。スクリャービンは、日夏たちが登場する一世代前、19世紀末から20世紀初頭にかけてロシアやスイスを中心に活動していた。
スクリャービンの楽曲には、湖に舞う水の精のような煌めきと黒魔術のような妖しさの二面性がある。主に「幻想ソナタ」や「幻想曲」などの前期の作品は精霊的で、「悪魔的詩曲」や「黒ミサソナタ」などの後期の作品は妖魔的だと言えるだろう。そしてその中間にあるのが「即興曲」の作品群だ。
特にこの「2つの即興曲op.12」にはオカルトともファンタジーとも思えるような不思議さがある。スクリャービンはどうしてもその実験的な前衛性ばかりが注目され、後期の作品の方が録音機会も多いが、「ピアノ協奏曲」や「ロマンス」といった美しいメロディを活かしたロマン派らしい作品も、もっと演奏されていいと思う。
異世界ファンタジーでは妖魔の類に黒魔術は効きにくいというのがお約束だ。だから賢者は神聖な法具を身に纏うか、精霊たちを統べるか、いかにもロマン派的な修養を積んでいることが多い。
我が楽園の谷戸を見渡せば、妖魔妖怪が跋扈するより花の精や水や風の精霊がいる方が遥かに良い。元々日本の八百万の神々の多くは小さな自然神達なのだから、そうあるのが当然なのだ。暗く怪奇な存在は世界の味付け程度には欲しいが、基本的には明るく美しい世界が良いに決まっている。
ただ詩歌小説でも真善美を描くのは賢者聖人でも難しく、地獄でのたうち回っているような物を描くのは凡人にも容易い。まして楽園や夢幻世界のビジョンさえ持たない大衆向けには、現実主義的な作品の方が売れ易いのは確かだ。そういったあまりにも現実主義的な作品では飽き足らない読者層には、少し浪漫の趣が加わった怪奇幻想趣味の諸作品は丁度良く感じられるのだ。
