大森健生監督 『Ryuichi Sakamoto:Diaries』(2025)
『トニー滝谷』の音楽で、坂本龍一さんの別の側面、
前に出る坂本さんじゃなくて、その「引き」のポーズに感銘を受けたので、
同じ映画館で続けてやっていたこの作品も観ることに。
「ドキュメンタリー映画」というと、「監督の視点」が何よりも大事。
(細かく言えば、撮影者、録音者、編集者などの視点)
そういう意味では、この映画に強固な視点はない。
ゆる~く、坂本龍一さんの最期の日々が記述されている。
この点は、「映画としての評価」が大きく別れるような気がする。
結論から先に言ってしまえば、
わたしは、その感じがとてもよいと思った。
とかく、ドキュメンタリーがひとの死を扱おうとする時に、
監督が自分の手柄のために、出演者の死を利用しようとするような気配を感じるものも多い。
そういう作品に出会ってしまうと、立ち直れないくらい打ちのめされてしまう。
「この作品も、そういう作品だったらどうしよう」とビクビクしていたけれど、いい意味で裏切られて、本当によかった。
観終わった後で、
この作品が、NHKのドキュメンタリー番組が基になっていると知る。
よくもわるくも、TVドキュメンタリーは、監督の作家性は強く前に出ない作品が多い。
だから、この映画も、そういう作品になったのだろうか?
どうも、それだけでもなさそう、、、。
クレジットを見ても、撮影者が誰だか、よくわからない。
パンフレットを読むと、監督は、坂本龍一さんに一度も会わなかったそうだ。だとすると、これを撮っているのは誰なのか?
「坂本さんに近い人が回していた映像を、映画のために使わせてもらっている」ということなのだろうか?
おそらくそうなのだと思う。
だから、視点もコミュニケーションもフラット。
「映画的な撮影戦略」はないけれど、
「映画のために利用してやろう」というイヤな気配も一切ない。
だからこそ、Diaries(日記)なのだと思う。
偶然か、必然か、
この立ち位置が、晩年に坂本さんが求めていた「音楽」の在り方と、絶妙に響き合っている。
「雨の音楽」というか、「雲の音楽」というか。
映画の中でも、「エネルギーが落ちている時には、音楽を聴く力もわかない」という趣旨のことが語られていた。
その時に「雨の音」(をYouTubeで流して)聴いたりしていたそうだ。
わたし自身、事故にあって精神的に極端に落ち込んでいた時、音楽が聴けなかった。静かなクラシックがせいぜいで、同じように、フィールドレコーディングなどの環境音、川のせせらぎ、森の中の鳥の声、雨の音などを聴いていた。
映画の中でも、ちょっとだけ出てくるけれど、
「瞑想」的なものというのか、
「非自我」「無我」的なものというのか。
晩年に坂本さんが求めた音楽は、
ご自身の療養体験というものも、重なっていたのかもしれない。
(もちろん、以前から、中沢新一さんとの交流など、
そういう世界への関心は持ち続けていたのだと思うのだけれど。)
ナレーションを勤めた田中泯さんの語りも絶妙。
パンフレットを読むと、それが「意識的に選ばれたもの」であることがわかる。
田中泯さんさんは、坂本さんとも交流があり、
【自分のやっていることを、自分の感情を、ニュートラルな目で観察できる人ですから。だから僕自身も、自分の声を客観的に聞きながら、自分の感情がバンと動かないように、観る人の感情をバンと動かさないようにすることが大事でした。手前で抑えておくというか。】(パンフレット:インタビューより)とのこと。
また、【今回の作品は、坂本さんが死に向かうなかで書いた日記をもとにしていますが、死を間近にした人の書く日記が本当にあのようだったかということをものすごく考えました。要するに、そんな状態の人にとって書くことは何事だったか、ひょっとして非常に意識的なことだったんじゃないだろうか、ということです。例えば、「みかんが食べたい」と書いても、本当にみかんが食べたいと思っているのだろうか、その前後に何が起き、何が彼に「みかんが食べたい」と書かせたんだろうか。そういうことを無視して、今回の日記を読むことはできませんでした。ここに書かれていることは、一度疑ってかかっていいのかもしれない。いや、嘘だと言いたいわけじゃないんです。】(同)とも。
この田中泯さんの語りが、この映画の絶妙なニュアンスを決定づけたのかもしれない。
そもそも、田中泯さんの踊りも、(わたしも何度か観たことがあるけれど)その環境の中に「在る」こと。その空間と同化する、戯れるようなもの。
ご自身も、このインタビューで【踊るときはその場に溶ける覚悟をしなきゃいけないんです。そこでいま何が起きているか、そのとき自分がどれだけ覚醒しているかを知らないといけない。要するに、そこで見つけていくことが、僕にとっては踊りなんだと思います。ですから、そのための大前提となるのは、鳥とか昆虫とか、他の生き物の日常に近いようなコンディションに本となることですね。】(同)と言っている。
ただ、【ナレーションのときは、もっともっと人間にならなきゃいけない。しかも、ものすごくニュートラルな人間にならなければいけません。】(同)とも語っているので、踊りとナレーションのスタンスは違うみたいだけれど。
とはいえ、やはり、すべては繋がっていて、相互に響き合っている。
わたしが坂本さんの生の演奏を観たのは、2019年末の山下洋輔トリオのイベントのゲストで山下さんとデュオのインプロをした時だけ。
いや、細野晴臣さんのイベントに、高橋幸宏さんが来て、ビデオ出演という形で画面を通して2人と共演したYMOも観たな。坂本さんだけ、生じゃなかったけど。
あと、本條秀太郎さんがコンサートで坂本さんの曲をやった時、客席にいらしていたので、そういう形では見ている。
ガッツリとライブを観たこともない、中途半端なファンで申し訳ないけれど、それでも、坂本さんが居た時間を共有した記憶が確かにある。
そう考えると、「同時代を生きた表現者」という実感も深くなる。
その他、高齢の母や伯母ことなど、
映画と重ねて見ていた。
もちろん、自分自身の「生」のことも。
パンフレットの監督のインタビューを読んでも、ハッキリしないのは、
この作品の絶妙な立ち位置は、いろんな偶然が奇跡のように重なってできたものなのか、すべて含めて、やはり監督はそこまで見えていて(把握した上で)作られたものなのか?
前者であっても充分に素晴らしいし、
後者であったら、尚更、素晴らしい。
※【追記】
パンフレットの最後に、坂本さんが葬儀で流すために編集していた音楽のプレイリストが載っている。
「雨の音楽」や「雲の音楽」は、サティの「家具の音楽」のようでもあるなと思っていた。
やはりリストには、サティがあって、「Le Fils des Étoiles: Prélude du premier Acte」は、わたしも大好きなアレクセイ・リュビモフが演奏したものだった。
この感想にも書いてない、そういう絶妙ないろんな繋がりなんかも、映画を観ながらいろいろ想起して、そういう意味でも、とても豊かな時間でした。
すばらしい作品を、ありがとうございました。
