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文学と映画、あらゆる境界のゆらぎ:市川準監督『トニー滝谷』(2004)

村上春樹さんの小説が原作。

文学作品を映画化するのは、なかなか難しい。
(わたし自身も、現在、それに悩まされまくっているので。)
本質がまったく違うから。
「物語だけを利用する」作品は多いし、
それはよくもわるくも無難なのだけれど、
それだと「結局、原作を超えられない」、場合によっては(文学のファンにとって)「幻滅した」みたいな作品になりかねない。

そんな中、果敢に、「文学」と「映画」の境界に挑んでいる。

「語り」が重要な位置にある。
また、人選も絶妙で、西島秀俊さん。
「写真」と「映画(ドキュメンタリー)」の境界に挑んだ、佐藤真監督の『SELF AND OTHERS』(2001)のナレーションを想起しながら聴いていた。
(もしかしたら、『SELF AND OTHERS』のナレーションに感銘を受けて、西島さんをキャスティングしたのかも?)

穏やかで優しく、芯はありながら、前に出ない。意識的に感情も込めない。
そんな「文字/肉声」の境界を漂うような「語り」。

かなり意識的に構成されていて、「語り」の続きの一文(一言)を、
役者が語る場面も、何度かある。

そこで、「映像の中」と、「語り」という「フレームの外」の境界が壊れるというか、混濁する。
(ブレヒトにおける「異化効果」のひとつと言えるだろう。)

役者も、イッセー尾形さんという、元々はコメディアンのような位置から俳優になった方なので、他の作品でもそうだけれど、いわゆる「役者一本」の人にはない「ザラッ」とした質感(ドキュメンタリー性)がある。

もう一方の相手役:宮沢りえさんは、若い頃から役者をやっていたこともあり、イッセー尾形さんと対極で、一般の生活者とは違う、異次元の存在感を有している。それが「役」の浮遊感というか、異質感と完全にシンクロしている。

また、それを撮るカメラは、写真家の広川泰士さんで、
1カット、1カットが、本当に美しく、
異次元感がハンパない。
(映画と写真の境界のような。)
それが、2人の、特に宮沢りえさんの浮遊感と、絶妙に響き合う。

さらに、音楽は坂本龍一さん。
坂本さんというと、『戦場のメリークリスマス』や『ラスト・エンペラー』などのドラマチックな旋律の映画音楽の印象があるけれど、
この作品では、非常にミニマルで、言われなかったら、坂本龍一さんとは思わないというか、そんなに音楽に意識が行かないくらいの絶妙なもの。
いや、主張しないのに、存在感はしっかりとあり、この映画の「異次元感」を下支えしている。
その感じは、西島秀俊さんのそれと、とても近く、
この絶妙な人選と、そのブレンド具合に唸る。


内容としては、特に、
宮沢りえさん演じる「妻」が、買い物依存症なのだけれど、
わたしにも、そういうところもあるので、
そういう意味でも、考えることがあった。

おそらく、多かれ少なかれ、多くの人が抱えているものでもあるのかもしれない。

ただ、よくもわるくも、そういうテーマらしきものが、深堀りされることはない。

極めてサラッとした、飲み口のキレイな日本酒(例えば、「上善如水」のような)を飲むような感覚。

「もっと米の重い味を感じたいんだ」という人には物足りないかもしれないけれど、これはこれでスッとしてキレイ。


わたしは作り手なので、上記のような構造を考えながら観はしたけれど、
内容的には、深く何かを考えたりせずに、
なんとなくそこに漂う感覚を味わいながら観つづけた。
「何も考えないで観る」けれど、「確かに何かがある」映画というのは、
多くない。いや、滅多にない。

映画を観終わった後も、その余韻と、その浮遊感のまま、
現実世界に戻ったのだった。

そして、この映画の意味を考えている。

映画は、浮世離れした幻想のようであったのに、むしろリアリズム映画を観た後よりも、そこにあった感覚、残り香を、今もどこかで感じている。

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