タモ氏の日本100名城紀行 その67 小野木重勝の関ヶ原、丹後田辺城攻城戦の西軍諸将、開城後の逆転劇の巻
大河ドラマ『葵三代』の再放送を観ていると、西田敏行扮する徳川秀忠が上田城の真田攻めに時間を要したため、率いた徳川本体が関ヶ原合戦への参戦に間に合わず、秀忠が異常に悔しがり家康からも叱責を受けると言うシーンがありました。
関ヶ原合戦については秀忠の参戦がなくても家康の圧勝であったようですが、石田三成にとっての誤算は丹後の細川幽斎が五百の兵で籠城する田辺城に対して、福知山城主の小野木重勝等一万五千が攻城、京極高次が兵三千で籠城する大津城に対して、立花宗茂等の一万五千万が攻城と戦力が分散しており、関ヶ原合戦の田辺城は二日前、大津城は当日に開城しており、本戦に間に合っていません。
そもそもたった一日で東西の雌雄が決するとは当時の武将も想定していなかったかも知れません。
タモ氏も再び福知山城や田辺城を訪れて、当時に思いを馳せることにしました。
田辺城は攻囲五十日に及び早々に勝敗は決していましたので、石田三成も大坂城にいた増田長盛に兵を美濃戦線に回して欲しいと懇願した手紙が残っています。(手紙の内容から三成には西軍の動員や指揮権がない事が分かります)
『九月十二日
何度も要請していますが、どうか、充分な軍資金と兵糧を美濃方面へ送ってください。私自身、分に過ぎた軍資金を出し、そのうえ人数も雇い入れていることからも、どれほど逼迫しているかお察し下さい。いまが重要な時期だと考えているから、このようにしているのです。長盛殿もそのようにお心得ください。
このたび伊勢方面で戦ってきた毛利家家臣の人数は言うに及ばず、そのほか、長束正家、大谷吉継、豊臣家弓鉄砲衆の兵たちも戦意をなくしており、正家・恵瓊だけで指示をしているため、全体の指揮が回りかねています。人数も少しまばらになっています。
丹後方面は手が空いたとのことです。外聞のため、少しであっても、丹後方面に回していた人数を、こちらに回すのがよろしいかと思います』
ここで丹後の田辺城の籠城の経緯を別頁『田辺城』から確認します。
○本能寺の変
秀吉は細川幽斎と忠興に丹波一国の領有と加増を保証する。(『永青文庫』)
○田辺籠城
関ケ原合戦の前、大坂の細川屋敷にいたガラシャは、大坂城の人質になることを拒否して、死を選ぶ。
細川氏が東軍の旗幟鮮明となったため、西軍は石田三成方の福知山城主の小野木重勝を大将とし、近隣大名を合わせて約1万5千が田辺城を攻める。この時、細川主力の三千程は忠興が関ケ原で率い、幽斎の手勢は五百程度と寡兵のため、峯山、宮津城を焼いて田辺城に籠城。 田辺城は三方が海と沼地で、西方に城下町があるため、陣所として利用されることを恐れた幽斎が城下町を焼く。(小野木勢が焼き払ったいう説有り)
○古今伝授
幽斎は室町幕府の重臣、三淵晴員の二男として誕生、第十二代将軍足利義晴のご落胤との説もあり。幕臣細川家のあとを継ぎ、将軍側近として幕府を支える。文人としては49才で隠居後、歌・連歌の他、太鼓・謡曲・乱舞・料理・茶道・書道・鞠・有職故実と多才。中でも『古今和歌集』の秘事口伝(古今伝授)の伝承者だったので、後陽成天皇が古今伝授の廃絶を恐れて、西軍に囲みを解くように勅使を送り、西軍は包囲を解いて、幽斎は城を開城した。この間攻囲52日、開城は関ケ原合戦の2日前だったので、合戦には間に合わなかった。また城の発掘調査では多数の鉄砲玉も確認されているので、激しい戦闘もあったと思われる。
しかし田辺城の籠城戦には疑問が多く、現地で復元された城門にある郷土資料館で田辺城籠城図を見ていると、城は海上を含めて完全に包囲されています。
籠城側はたった五百人、それも将兵は五六十人であとは婦女子や近郷の百姓だったとのこと。
この時、細川氏は銃砲を極めた稲富祐直※を砲術師範として飯抱えており、
【※祐直は合戦時にはガラシャのいた大坂の細川屋敷にいたが、ガラシャ自害の際に逃亡したため忠興が追ってをかけた。しかし徳川家康に救われ稲富流砲術は存続する】
鉄砲の命中制度は他より格段に優れていたとはいえ、また実際に婦人も城内から射撃を行ったとしても、この城が三十倍もの兵で落城しなかったのは、
①寄せ手が大将の小野木重勝と他は少数しか本気で攻撃しなかった。山家の谷大学助など既に家康に内応しているものもいて、中には空砲を放っていた部隊がいた。城内ではそれを記帳していて、後日忠興が家康に報告して家名の存続が出来た。
②海上から兵糧が運び込まれたが、わざと見過ごした。
つまりは寄せ手は関ヶ原合戦のどちらかの勝者につく予定で、ここでは猛攻を加えるつもりはなかったのでしょう。関ヶ原合戦の本戦と同様に調略戦でも勝負はついていたようです。
田辺城が勅使によって和睦というかたちで開城したあと幽斎は亀山に向かう。ここで東軍の勝利を聞き
『攻囲に参加した武将は大いに狼狽した』(福知山市史)とあるようで、和睦とはいえ勝利したと思った武将にとってはまさに立場が逆転したものです。後述しますが、ここで大将の重勝のみが家康に許されず、重勝は福知山城に籠城、田辺城の西軍が城を囲むことになります。
大将の小野木重勝は秀吉の長浜城主のころ直参として黄母布衆となり、播磨進行、九州征伐、朝鮮の役などにも名前が残り、天正十五年(1587)の数年前には四万石(当初三万一千石から加増)として福知山城主となります。

重勝は豊家恩顧の武将として真剣に攻めたが故に、他の武将は許されたがガラシャを失った細川忠興は重勝を許さず、福知山城を田辺城の攻囲軍を先陣に攻めることになります。 福知山城は要害で容易には落ちなかったため、忠興は由良川を川舟で田辺城に帰って、その後大坂の家康と合ったあと、再び福知山城を攻城します。城兵は最後まで抵抗して寄せ手に死傷者も出ますが、重勝が説得により城を出て亀山の寺で剃髪します。
しかし亀山城主の前田玄以の命乞いも虚しく切腹となりました。 重勝の妻は島左近の娘で、キリシタンの洗礼を受けシメオンと名乗っていましたが、夫の死を知ったシメオンは家臣の介錯で命を絶ちました。 細川忠興は関ヶ原合戦の軍功でこの年の十一月に豊前中津
へ転封となりました。完


参考資料
田辺城 細川幽斎 リーフレット
舞鶴市田辺城資料館 名城と合戦の日本史
小和田哲男 新潮社文庫週刊戦乱の日本史 15新説本能寺の変 小学館
福知山市史 近世編
石田三成からの手紙 中井俊一郎 サンライズ出版
天下分け目の関ヶ原の戦いは無かった
乃至政彦・高橋陽介 河出書房新社
歴史群像№145/関ケ原合戦の真実 白峰旬 学研プラス歴史街道平成29年9月号/関ケ原 PHP
