見出し画像

タモ氏の日本100名城紀行 その77🎵佐和山城は右へ、彦根城は左へ、ふりむいたら負けよ〜の巻

    JR彦根駅の改札を出て佐和山城は右へ、彦根城は左へ。どちらも案内看板がありますが、城好きでも大方は国宝の天守を有する彦根城へ向かうでしょうが、この日のタモ氏は
アン・ルイスの
🎤
グッバイ・マイ・ラブ
この街角で
グッバイ・マイ・ラブ
歩いてゆきましょう
あなたは右へ
わたしは左へ
ふりむいたら負けよ♫
と、口ずさみながら

振り向かずに右側の佐和山城を目指しました。
     城までは道標があって迷うことなく現在の登城口の龍潭寺に到着。
   また事前にリーフレット『佐和山城跡のご案内』を駅の観光案内所等で入手しておくことをお勧めします。

     城は鎌倉時代初期に佐和山の麓に近江源氏の佐々木時綱が舘を構えたのが始まりと伝わり、その後佐々木氏が六角氏と京極氏に分かれて対立し、攻防の舞台になります。
    戦国時代には京極氏に代わった浅井氏が城を収め、六角氏との境目の城に。

      姉川合戦後に織田信長に破れた浅井家臣の磯野員昌が8ヶ月籠城したのちに降伏。丹羽長秀が入城し、その後秀吉時代には堀秀政、堀尾吉晴と続きます。

     石田三成が城に入ったのは天正19年(1591)4月、当初は十万石程度であったのが後に湖北四郡十九万四千石となります。三成は城を惣構とし、高石垣の本丸に天守(三層から五層?)を構える等大きく整備します。

   関ヶ原合戦・慶長5年(1600)9月15日の敗戦後、三成の父正継と兄正澄が約2,800の兵で籠城するも、家康に先鋒を願い出た約15,000の小早川秀秋等の兵により同月18日の早暁に落城します。

    徳川家康は井伊直政を佐和山城に。しかし直政没後、天下普請による彦根築城により、佐和山城は本丸が10メートル以上切り落とされる等、徹底的に破城され往時をしのぶものは何も残っていませんが、城跡から彦根城を望み、兵どもの夢のあとを感じるタモ氏でした😊



追記
彦根城には佐和山城からの移築石垣や城下には移築城門が残っています🫡
伝大手門 宗安寺 赤門
伝城門 妙源寺 山門




Xより
関ヶ原合戦前夜⛈️
9月14日 
家康が大柿城の北の赤坂に着陣
小早川秀秋が西軍の伊藤盛正を追い出して松尾山に陣を張り、東軍の旗幟鮮明に南宮山の吉川広家が東軍と和談(降伏)三成は大柿城から秀秋攻撃のため、もしくは佐和山城への退路を確保するため『山中』に移動
諸説あり
 

いいなと思ったら応援しよう!