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【1945年10月 台北】一枚の写真が意味するもの


◆はじめに

本稿では、二・二八事件に関する展示施設や書籍で目にすることの多いある写真から見えてくる事実について掘り下げてみようと思います。

◆「台湾光復」を祝う一枚の写真

台湾・国家文化記憶庫ホームページより

【おことわり】本件の写真については権利の関係もありますので、本稿には直接掲載せず、代わりに上記のとおりリンク先のページを紹介させていただきます。

上記リンク先に掲載されている写真は、1945年10月、台北市太平町1丁目(現大同区延平北路一段)で撮影されたものです。
両側にバロック様式の商店建築が建ち並ぶ太平町通り(現延平北路の一部)に、右書きで「歓迎」と書かれた横断幕が掲げられており、「歓」「迎」の間には実物の裏向けのデザインになってはいますが、中華民国の青天白日旗が描かれています。
横断幕の右端には縦書きで「太平町一丁目」、左端には「住民一同」と書かれており、太平町一丁目の住民が日本に代わる新しい台湾の統治者としてやって来た中華民国(中国国民党)を歓迎するために掲げたものであることが一目で分かる内容になっています。

◆「太平町」という街の歴史と二・二八事件

上で紹介した写真は、一見しただけでは、ただ単に住民が新しい統治者を歓迎している様子にすぎないかもしれません。
しかし、この写真が撮られた「太平町」という場所には大きな意味があります。

太平町は、台北でも古くから栄えた大稲埕の地域に属しています。
清朝時代より淡水河の水運の便を背景に、物資の集散地として栄えた大稲埕の街富裕層が多く居住している地域で、日本統治時代には台湾の経済・社会・文化の中心地としても機能していました。
こうした背景があり、大正時代文化的啓蒙を通して台湾社会の向上を図る台湾新文化運動が始まると、大稲埕の街はたちまちその中心になりました。
街のあちこちにあった劇場では新文化運動の一環として、現代口語劇が上演されました。また「波麗路西餐庁」「山水亭」「天馬茶房」といったレストラン・カフェは文化サロンの役割を果たし、文化人やインテリ層が闊達な議論を交わす場になっていたと伝えられています。
そして、台湾文化協会・台湾民衆党を立ち上げた医師・蒋渭水(1890~1931)が「大安醫院」を開いたのも、太平町通り沿いの一等地でした。
こうした歴史的事実を見る限り、日本統治時代の太平町は、台湾人のインテリ層がそのアイデンティティを模索するための活動を始めたまさにその場所で、民主主義を育てて根付かせる土壌がある土地柄であったといえます。

そのような街だからこそ、住民たちは自らの「祖国」である中華民国から新しい統治者としてやって来た中国国民党に大きな期待を寄せ、街中に歓迎の横断幕を掲示したのです。しかし、ほどなくして中国国民党政府による汚職や経済政策の失敗などの問題が発生し、住民たちの期待は無残に裏切られることになりました。
そして、2年後の1947年2月27日太平町3丁目「天馬茶房」前で発生した闇タバコの取り締まりを巡る小競り合いによって引き起こされた発砲事件で死者が出たことをきっかけに、住民たちの積もりに積もった不満が爆発、台湾全土での大規模な民衆運動に発展しました。
一連の民衆運動とその後の武力鎮圧は後に「二・二八事件」と呼ばれ、台湾の現代社会に大きな暗い影を落とすことになります。

考えてみれば、日本統治時代から台湾の文化活動と民主主義の中心地となっていた街で、皆で喜びに沸きながら中国国民党を歓迎する横断幕を広げ、その様子を写真に撮った際、居合わせた群衆のなかに1年4か月後にほど近い場所で「二・二八事件」のきっかけとなる事件が起こると思った者はおそらく誰もいなかったはずです。この歴史的事実を考えると、1945年10月に太平町1丁目で撮られた1枚の写真は、大きな歴史の皮肉に他ならないものだったと言えます。

◆「太平町」に現在も残る「台湾新文化運動」の面影

「太平町」・「太平町通り」延平北路と名を変えた現在も、この通りには新文化運動に携わり、自由主義や民主主義、台湾人のアイデンティティを求めた人たちの足跡が残っています。
蒋渭水医師「大安醫院」建物は現存しませんが、跡地(大同区延平北路二段29號・現義美食品延平店)にはプレートが残されています。

「大安醫院」跡地のプレート

また、「大安醫院」跡地に隣接する建物(大同区延平北路二段27號)には2020年蒋渭水医師の記念館である「渭水駅站」がオープンしました。
入館料は無料で、蒋渭水医師と台湾文化協会、台湾民衆党の歩みを豊富な実物資料や模型で紹介しています。

「渭水駅站」

この「大安醫院」跡地をはじめ、旧「太平町」を含む大稲埕のエリアには新文化運動ゆかりのスポットがいくつか点在しています。
2017年にはこれらのスポットに焦点を当てた「1920大稻埕自由民主之路」なる展示会が、現在「渭水駅站」が入居する建物で開催されました。

日本統治時代に文化人やインテリ層が集まったレストラン・カフェのうち、1934年に創業した「波麗路西餐廳」大同区民生西路308號)は現在も変わらず営業しており、往時を偲ぶことができます。

このほかにも、延平北路二段と南京西路の交差点、つまりかつての太平町3丁目にあるレストラン・カフェとして使われていた建物を活用して開店した「森高砂咖啡館」のように、新文化運動華やかりし頃の文化サロンを思わせる雰囲気のカフェが、大稲埕界隈にはいくつか存在します。

◆おわりに

日本の敗戦後、中華民国による台湾接収を歓迎していた台北市民の様子を撮影した1枚の写真は、その後に起こる一連の出来事を考えるとある意味皮肉と言える歴史資料になりました。
あの日、太平町通りで祖国への復帰を喜んでいた台北市民のなかには、その後の二・二八事件や白色テロで命を落とした者が少なからずいたかもしれません。
今を生きる私たちには、歴史的価値の高い写真資料の撮られた場所に秘められた歴史に思いを馳せ、そのうえで当時の人たちの思いを読み取るよう努力し、次の世代に語り継ぐことぐらいしかできないかもしれません。
それでも、こうした形で近現代史を理解し、語り継ぐことで、歴史の渦に翻弄された人、無念の最期を遂げた人が少しでも報われることを願い、結びとさせていただきます。

現在の「太平町通り」改め延平北路二段

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