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台北の老舗洋食店「波麗路西餐廳」を訪ねて


◆はじめに

日本統治時代の台湾の主要都市では、当時の日本内地と遜色ない都市文化が発展しており、そのなかで本格的な洋食レストランもいくつか創業しました。
なかでも、台北市の大稲埕にある「波麗路(ボレロ)西餐廳」は、日本統治時代の1934年に創業。戦中戦後の混乱期を経て、今なお暖簾を守り続けている台北の洋食レストランの草分けとして知る人ぞ知る貴重なお店です。
本稿では、かねて訪れたいと思っていた「波麗路西餐廳」で昼食をいただいた時の模様や、同店の歴史について紹介させていただこうと思います。

◆台北・大稲埕の老舗洋食店「波麗路西餐廳」

「波麗路西餐廳」ホームページ

波麗路レストラン(臺北旅遊網ホームページ)
https://www.travel.taipei/ja/gourmet/details/886

清代より台北市の商業・芸術文化の中心として栄えた街・大稲埕。
「波麗路西餐廳」があるのは、この街を東西に走る民生西路と南北に走る延平北路の交差点東側(大同区民生西路308號)です。
ちなみに「波麗路西餐廳」には分店(1976年開店)があり、そちらは本店から民生西路を東に歩いた3軒隣にあります。
「波麗路西餐廳」本店の正面。
「ボレロ」のカタカナ表記や、木製の看板に記された「1934年」の文字が、日本統治時代からの老舗洋食レストランである旨を強く主張しています。

店頭のメニュー。
児童餐(お子様セット)が580元、鶏排咖哩飯(チキンカレー)が380元と、伝統と格式のある洋食レストランらしくやや高めの価格設定になっています。
※1台湾ドルは約5円(2026年4月現在)

店頭のメニューには、「波麗路西餐廳」の歩みを綴った「波麗路縁起」が綴じられていました。
創業者・廖水來氏は日本人が経営する洋食レストランで修業した後、友人たちの勧めで独立し、「波麗路西餐廳」を開店しました。

「波麗路西餐廳」1階の壁面。
廖水來氏はインテリアデザインにもこだわりを持っており、画家の顏雲連氏(1922~2014)を招いて店内のデザインに手を入れました。
店内の雰囲気は1970~80年代当時からあまり変わっておらず、現在もテレビドラマのロケで使用されることがあるそうです。
なお、2階には80~100名収容の大部屋があり、大規模なパーティーに用いられることも多いとのこと。
このほか、お見合いの場として同店を利用する家族も多かったといいます。

席に着き、創業以来の看板メニューの一つという鶏排咖哩飯を注文すると、店名入りの紙の上に重厚な銀のフォークとナイフ、スプーンが提供されました。
ちなみに「波麗路西餐廳」では創業時に一流の音響設備を導入、店内BGMとしてクラシック音楽のレコードを流して評判になりました。
このクラシック音楽の店内BGMは今日に至るまで同店の名物となっており、曲目のなかには店名の由来となったモーリス=ラヴェル(1875~1937)の「ボレロ」(1928年)も含まれていました。
年号を見て気付かれた方も多いかと思いますが、「波麗路西餐廳」本店が開店したのは1934年。モーリス=ラヴェルが「ボレロ」を発表したわずか6年後でした。そして、この時点でモーリス=ラヴェルは病気療養中で第一線を退いてこそいましたが、まだ存命中でした。
フランスで活躍する存命中の作曲家の最新のヒット作から店名を名付けるとは、創業者・廖水來氏のセンスにはただただ脱帽するのみです。

注文からそう時間を置かずに、鶏排咖哩飯が提供されました。
ウェイターさんが昔の鉄路便當みたいな円い金属製の容器を持ってきて、カレーの載ったお皿(上)ご飯・トッピングの載ったお鍋(下)に分けて手際よく配膳してくれました。
左の小皿は、付け合わせのポテトサラダです。

鶏排咖哩飯は骨付きの大ぶりな鶏肉をじっくり煮込んだもので、フォークとナイフを使って丁寧にいただきました。
開店当時から受け継がれてきたルーの味は甘く、その時代に生きていたわけではないので実際のところは分かりませんが、おそらく1930年代の日本の百貨店の大食堂で提供されていたライスカレーに近い味だったのではと思われます。
トッピングは二種類あり、右はおそらくフライドオニオン、そして左は何と台湾名物の肉鬆(豚肉のデンブ)でした。
台湾において肉鬆お粥やおにぎり、巻き寿司、総菜パンの具から、トーストやピザのトッピングまで幅広く使われている食材ですが、カレーのトッピングとしても日本統治時代から長く用いられています。旨辛風味の肉鬆は、甘口のカレールーによく合いました。

そして、もう一つ驚いたことがあります。
画面左手、付け合わせのポテトサラダに添えられた赤い食材。
台湾でもポテトサラダにプチトマトを添えるのだなと思ったのですが、よく見るとプチトマトではなく赤色のチェリーでした。
ポテトサラダに赤色のチェリーを添えるというのは、現在のようにプチトマトが一般的に流通する前の洋食レストランではままあったそうです。

鶏排咖哩飯には食後のデザートと飲み物が付いており、まずはデザートとしてオレンジが提供されました。

食後には温かいコーヒーをいただきました。
※飲む前の写真は撮り忘れてしまいました。ご了承ください。

レジには味のある石造りの彫刻が飾られていました。

華語・英語のほか、注音記号で書かれた「波麗路西餐廳」本店の看板。

こちらは3軒東隣りの分店
戦後の1976年の創業ですが、外装は本店に合わせられています。

◆おわりに

大稲埕淡水河の水運を利用した商業で栄えた土地で、富裕層が多く居住していたこともあり、台北における芸術文化の中心としての性格も併せ持つ街でした。
この土地柄ゆえ、大正デモクラシーのなかで台湾新文化運動が勃興。ジャーナリズム、出版、音楽、美術といったそれぞれの分野で活躍する文化の担い手たちが集まるサロンとしての喫茶店やレストランが次々生まれました。
「波麗路西餐廳」が開店した1934年時点ではすでに台湾文化協会は解散しており、台湾新文化運動の中心にあった蒋渭水医師も鬼籍に入っていましたが、それでもなお大稲埕の街には文化や芸術を愛する本省人エリート層が集う文化サロンの役目を果たす飲食店が数多くあり、自由闊達に語り合える空気が流れていました。
台湾新文化運動とそれを支えた文化サロンについては、大稲埕の東外れ、旧北警察署を改装した台湾新文化運動紀念館で詳しく展示されているので、機会があれば「波麗路西餐廳」に立ち寄った行き帰りに同館の常設展示を鑑賞することをお勧めします。

台湾新文化運動紀念館ホームページ

長くなりましたが、太平洋戦争による統制経済と戦後の日本人引き揚げ、国民党政権による接収といった諸事情が重なり、戦前から続く洋食レストランやカフェがほとんどない台湾にあって、昭和初期のモダニズム文化や都市生活、文化サロンの空気を今に伝える「波麗路西餐廳」は唯一無二のレストランかと思います。
日本統治時代の台湾や昭和レトロ、クラシック音楽に興味のある方は、ぜひ一度「波麗路西餐廳」を訪れてみてください。

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