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西ドイツ連邦情報局の誕生に至るゲーレン機関の苦難の道のり

1949年、西ドイツでコンラート・アデナウアーは新政府を樹立し、1950年からは再軍備に着手しました。これは第二次世界大戦で東西に分断されたドイツが、独立国家として再出発する上で重要な一歩となりました。この時期にアデナウアーは西ドイツの情報能力の強化も開始しており、1950年には独自の活動で情報網を形成していたラインハルト・ゲーレンと面会し、彼の機関を連邦政府管轄下の情報機関として吸収することを約束しています。

このゲーレンという人物は、第二次世界大戦ではドイツ軍でソ連を対象とした情報活動に従事した軍人でした。1945年の終戦間際にアメリカ軍に投降し、アメリカの情報組織と協定を締結した上で、1946年から西ドイツの情報組織の再建に取り組みました。その経緯は自身の回顧録『諜報・工作』で詳しく述べられていますが、経営面で苦労の連続だったことが明らかにされています。

ゲーレンがドイツ人の情報組織を再建しようとしたとき、西ドイツは占領地となっており、ドイツ人の政権は存在しませんでした。そのため、ゲーレンは戦中の情報関係者を中核として、アメリカの資金援助を受けて東ドイツから流入した難民などを組織化し、新たな情報網を構築し始めました。これがゲーレン機関の始まりでしたが、当初から資金の不足は深刻であり、協力者に与えた保護や報酬は限定的なものでした(ゲーレン『諜報・工作』147頁)。

当時、ゲーレン機関の活動を知っていたのは、アメリカ軍の内部でもごく一部の情報関係者だけであり、またゲーレン自身の月給も一か月あたり1200マルクと決して恵まれた待遇ではありませんでした(同上、148頁)。資金の出所を秘匿するため、米ドルを情報員への報酬に使えなかったことも問題でした。それでも、1946年4月初めにゲーレン機関は初めて試験的な情報収集活動を開始し、そこから体制を少しずつ拡充させることができました(同上)。

ゲーレンが目指していたのは、敵対勢力に対するあらゆる情報活動を遂行できる包括的な情報機関を創設することでした。西ドイツのヘッセン州オーバーウルゼルに開設し、外交情報、経済情報、軍事情報、そしてスパイに対する対情報を一つの組織に統合して遂行する民間人の機関を育てようとしていたのです(同上、149頁)。ただ、人員や装備の不足は続いていたので、ゲーレンは資金を援助してくれるアメリカに情報活動の成果を示し、援助を継続する価値が自分たちにはあることを粘り強く説得しなければなりませんでした(同上)。

1947年の秋にはゲーレン機関は末端まで含めて数千人を雇用するまでに組織を拡大していたので、1947年12月にミュンヘンの南にある小さな村であるプルラッハにあった建物を確保し、その地区を新たな本部としました(同上、153頁)。職員の家族の安全を確保するため、学校や幼稚園などが設置され、自前の食料品店も開きました(同上、154頁)。しかし、次第に問題も増加してきました。アメリカがゲーレン機関の業務にしばしば干渉するようになったので、ゲーレンは資金を受け取りつつも、独立性を守るために対抗する必要が出てきたのです(同上、155頁)。

また、1948年にドイツの通貨改革が実施されると、ライヒスマルクが10分の1のデノミネーションでドイツマルクに置き換えられ、ゲーレン機関の職員が受け取る給与は突如として70パーセントも減少しました(同上、157頁)。この時、ゲーレンは機関の存続を図るための特別部門を立ち上げ、手元にあった12万5000米ドルを支出して可能な限りのココアを調達しています(同上)。このココアを闇市場に持ち込み、その売却益で元金の3倍以上の利益を確保しました(同上)。これは大きな成果でしたが、それでも資金不足を完全に解消できたわけではなく、情報網を維持するために多くの職員は自分のポケットマネーから費用を捻出することを強いられました(同上)。

ゲーレンはアメリカの当局者からさらに資金の援助を引き出す努力を重ねましたが、民間から資金を調達する特別連絡班も立ち上げ、民間の個人や企業から借款または現物で援助を受けることに成功しました(同上、158頁)。ゲーレン機関の存在は秘匿されていましたが、周囲で暮らしている住民は次第にその活動をそれとなく理解していました。ゲーレンの自宅への道を尋ねるよそ者が現れると、周囲の住民はいつも間違った道を教えて時間を稼ぎ、その間にゲーレンの家族に警告を発してくれていたそうです(同上、158頁)。ゲーレン機関が困難な時期を乗り越えることができたのは、こうした住民の理解と協力があったためであったことも明らかにされています。

ゲーレン機関は資金難から抜け出すため、1948年11月からアメリカ中央情報局の代表と協議を始めました(同上、159頁)。ゲーレンはその協議の前に2名のチェコ人の亡命を支援し、その見返りとして大量の内部資料を獲得してアメリカに提供したことで、西ドイツ国内のチェコスロバキアの情報網を壊滅させていましたが、もし資金難が続けば機関の縮小は避けられないとゲーレンは訴えました(同上)。交渉を重ねた結果、1949年にゲーレン機関は中央情報局と新たな協定を締結し、7月1日以降に中央情報局の資金を受けることが決まりました(同上、160頁)。

しかし、中央情報局の資金は7月を過ぎてもなかなか提供されず、ゲーレンは組織の内部で高まる不満に対応することに苦慮しました。人材を引き留めることができず、優秀な人材の離職も招きました(同上、162-4頁)。そうした中で、ゲーレンは1949年10月12日に初めて新政府と接触し、アデナウアーに宛てて将来の西ドイツの対外情報活動に関する提案書を提出しました(同上、165頁)。アメリカに資金源を依存している状態から抜け出す上で、新政府との関係は極めて重要な意味を持っていました。

ゲーレンが西ドイツ政府と接触したことにアメリカ側は不満を示し、ゲーレン機関にはアメリカだけが命令すると要求しましたが、ゲーレンはこれを明確に拒絶しました(同上、166頁)。その後、アメリカ側は態度を改め、ゲーレン機関と新政府との関係を受け入れる方針に変わっています。1950年初めに新政府はゲーレン機関に技術的援助を与えることを約束して内務省との連携を開始し、ゲーレン機関の職員を公務員とするための準備も開始しました(同上、166頁)。

1950年9月20日には冒頭で述べたアデナウアーとゲーレンの会談も成功裏に終わり、9月21日には野党のクルト・シューマッハーとも会談して、ゲーレン機関は国家のため超党派的な組織でなければならないという見解を率直に話し合うことができました(同上、168頁)。ゲーレン機関は1952年か1953年に連邦管轄下に入ることが予定されていましたが、当時の西ドイツの新政府は体制が貧弱であり、混乱が続いていたので、予想より時間を要しました。それでも、朝鮮戦争を契機としてヨーロッパでも軍事的緊張が高まっていたので、新政府からゲーレン機関に対する情報要求は増大していきました。

ゲーレン機関はアメリカとの協力を継続しながらも、1952年には拡大する政府の要求に応じるための特別班を設置しています(同上、209頁)。また地方政府との連絡体制も確立して連邦政府の管轄に加わる準備を進めました。1956年に首相官房の付属機関として連邦情報局(Bundesnachrichtendienst; BND)が設置され、ゲーレンは初代局長に就任しました(同上、210頁)。ゲーレン機関の職員は一斉に編入するのではなく、少しずつ政府組織に編入することになりましたが、全職員の身元調査をやり直したので、体制移行には2年もかかりました(213頁)。

その後、連邦情報局は東側陣営に対する対外情報活動を強化し、1960年までに世界各地の共産主義運動を監視下に置く情報網を構築しています(同上、232頁)。ゲーレンの情報網が西ドイツ政府に引き継がれたことで、西ドイツの情報能力を短期間で再建することができましたが、課題もありました。ゲーレン機関の対情報機能は十分ではなく、その後、ソ連のスパイが浸透していたことが発覚することになります。

参考文献

  • ラインハルト・ゲ−レン『諜報・工作:ラインハルト・ゲーレン回顧録』赤羽龍夫訳、読売新聞社、1973年

  • Crome, H.-H. (2007). The “Organisation Gehlen” as Pre-History of the Bundesnachrichtendienst. Journal of Intelligence History, 7(1), 31–39. https://doi.org/10.1080/16161262.2007.10555137

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見出し画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Koeln_1945.jpg

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