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『伝説の女優ロッカー:山口百恵』【ロック阿修羅編】楽曲解説

演技には根本的な問題がある。

それは、「演じている」自分が、常に「演じようとしている」自分を自覚してしまうという、古くから演技論で語られてきた難問である。上手に演じよう、できるだけリアリティを出そう、見る人にそう伝えようと思った瞬間に、登場人物から“演者の自意識”が浮かび上がってしまう。つまり、真にリアルな芝居に迫るには、“演技しようとしている自分”という主観の二重構造が常につきまとう矛盾となる。
この自己矛盾を、俳優たちはしばしばこう解消するという。
「自分を消す」・「憑依する」

山口百恵の場合、この“憑依”が一人称の変化に表れると考えられるのだ。演技者が完全に役になりきるとき、もはや「演じている私」がいない。

【ロック阿修羅編】では、もちろん自分自身ではないものの自分の主観を打ち消す、いや、正確には、「主観を消す」のではなく、複数の主観を同時に成立させる。
いわば量子的な重ね合わせの状態として成立する、高度な技術としての演技が鑑賞できるはずである。


 山口百恵とは──

歌詞の一人称によって、演じている自身の“意識の深度”を無意識に最適化してしまう稀有な表現者だった。これはもう、「歌手」や「女優」という枠を超え、自己意識の芸術的使用法と言ってよいレベルだといえるのかもしれない。
(楽曲タイトルで作詞作曲が表示されていない曲はすべて阿木・宇崎天才コンビによるものです。)

もし、こうしたコンピレーションをスマホで作成する環境がありましたら、ぜひお試しいただきたいと思います。「聴き読み」という新しいリスニングスタイルを愉しめます。

イヤホン推奨

⦿曲順に沿って「聴き読み」すると物語として理解できます。
⦿気になる曲は目次からジャンプできます。
⦿全体は“ロック阿修羅の旅”として読むことができます。

12.I CAME FROM 横須賀(わたし)

この歌は阿木燿子の詩であり、かつロックの楽曲であるものの、一人称は「わたし」である。彼女は横須賀から出てきたばかりの少女で、つまり「回想」の歌なのだろう。この歌を歌うたびに、山口百恵は、故郷横須賀から憧れの都会に向かう少女時代の自分をイメージしていたと考えられるのだ。オーディション番組に合格し、歌手として憧れの東京に向かう14歳の自分をこの歌の主人公の「わたし」として演じていたのではないか。そう考えるのが自然だ。

横須賀から汐入(しおいり)、追浜(おっぱま)、金沢八景、金沢文庫
 汐風の中 走ってゆくの
 赤い電車は白い線
 駅の名前をソラで言えるの
 横須賀マンボ Tシャツね

 I came from 横須賀 あなたに会いに来た
 I came from 横須賀 あなたに会いに来た

 京浜急行線は、大都市と郊外をつなぐ三浦半島の海岸沿いを疾走する爽快感のある路線のイメージがある。この歌では、今は停車駅が違うようだが当時の特別快速の駅名を横須賀中央駅から忠実に紹介していくのだ。

 (中略)

横須賀から鶴見 川崎 品川 ここまでの道
 小さな屋根が集っている
 歴史の跡もあるけれど
 あいにく私(わたし)は詳しくないの
 心は走る線路なの

 I came from 横須賀 あなたに会いに来た
 I came from 横須賀 あなたに会いに来た

 横須賀は、海沿いの山裾がそのまま海にかかる地形であり、京急線は、いくつもの山ひだをトンネルで抜けていく路線となっていて、運転席の後ろから見ると、前方に幾重ものトンネルが重なり、まるでバウムクーヘンのように見える地区がある。

14歳の少女も、トンネルの先に新しい世界を、そして未来を感じていたのではないだろうか。
ちなみにLive Ver.でも明瞭に「わたし」と発音している。これはラストコンサートでも変わらない。

13.PORTBELLOの銀時計(わたし)作詞:伊藤アキラ 作曲:浜田省吾

ここからは、女優の「わたし」が演じるロック調でノリのいい二曲を続けてみたい。ともにロンドンで録音されたアルバム『Golden Flight』から。

この二曲は、旅先で過去を拾い上げ、そして手放すまでの、ひとつながりの物語でもある。作詞は、わたしが勝手に吟遊詩人と呼ばせていただいている伊藤アキラである。

日立のCMソング「この木何の木、気になる木」の作詞家と言えば、多くの人にとって馴染み深いだろう。
ここに並べて置かせていただいたのには二つ理由がある。
一つは、この二曲が浜田省吾の作曲であること。浜田省吾は、宇崎竜童同様、ロックのカリスマだが、三浦友和と同じ1952年生まれで、彼女から見ると年上の兄貴分という立ち位置だったらしく、当時、雑誌の対談で音楽兄弟と称されるくらい音楽に関する交流があり、山口百恵のシングル盤こそ関わっていないものの、彼女にとって重要なアルバム作品の作曲を担当している。特に、『銀色のジプシー』『Dancing in the rain』といった横須賀恵作詞曲に素晴らしい曲を提供している。

もう一つは、ロックを世界音楽に発展させたロックの本場である英国ロンドンで、現地ミュージシャンたちと初めての海外録音を経験し、彼女が本格的なロックシンガーとして大きくステージアップするきっかけとなった楽曲群だからである。この後、米国LAでの録音も経験し、『LAブルー』という傑作アルバムが生まれることになる。

PORTBELLOとは、映画『ノッティングヒルの恋人』でもよく知られたロンドンにある骨董市場の名称である。道の両端にアンティークやヴィンテージなどのお店が所狭しとぎっしり並んでいる通りで、土曜日は特に多くの買い物客でにぎわうという。

土曜の朝早く
ひとりで歩いてるPORTBELLO
ふと手にとる古びた銀時計
眠りかけていた時が…Woh Woh Woh Woh

かすかに読みとれる
時計の裏蓋のイニシャル
この人にも恋人いたでしょう
今はどこにいるふたり…Woh Woh Woh Who

かなしい思い出刻んだ時計
いつしかこわれて愛も…
Woh Woh Woh Who

その骨董市で見かけた銀時計に贈り物だったのだろう裏蓋にイニシャルが刻んであり、ここに並んでいるということは、二人に終わりが来て手放すことになったことを暗示しているのだ。見知らぬ恋人が幸せだったころに思いをはせながら、この「わたし」自身も、また何かを抱えて旅をしている。そう思えてならない。

私の手のひらで
突然目をさます過ぎし日
ただわけもなくそれがさみしくて
熱いお茶をのむ場所へ…Woh Woh Woh Woh

ふたつの心は重ならないで
いつしか時計の針も…
Woh Woh Woh Woh

私の手のひらに
静かに横たわる過ぎし日
もうふり向くことにも耐えられず
ひとり歩きだす私…Woh Woh Woh Who

 ふと気づくと、針が動いている。昔を想い出したように。それを見た「わたし」もつい悲しくなってしまい、こころを温めるカフェを探すのである。
その想い出を手にして、二人の気持ちが残るPORTBELLOを、彼女は振り向かずに去っていく

14.Air Mail(わたし)作詞:伊藤アキラ 作曲:浜田省吾

ロック調であるものの情感ゆたかな楽曲。こうした楽曲では、走らずにひとつひとつ言葉を重ねる演技を取り戻すのだ。ロックにもかかわらず、語尾が「ですます調」ということも影響があるのかもしれない、山口百恵は、一人称をすべて丁寧に「わたし」と発音している。
ここはロックを女優で演じている。これはこれでもちろん良い。

手紙を書いてるホテルの窓に
近づく夏の光がゆれます
あなたと別れたあれは三月
花屋の窓が明るくなる頃

あなた今でも愛してくれますか
私のことを忘れませんか

さよなら、春の日 燃え立つ夢
季節は変わった
ふたりの愛は二度と もどることはないわ
さよなら、春の恋人

 曲の内容はシンプルだ。主人公は、春先に別れた男への想いをまだ抱えている。そして訪れた海外のホテルからAir Mailを綴ろうとする
「あなた今でも愛してくれますか 私のことを忘れませんか」
しかし途中でペンを置く。もうあの頃には戻れないのだ。

あなたにもらった記念のペン
ふり向く文字を書いてはみたけど
私は手紙を千切って捨てます
まぶしい空へ小雪のように

恋はいつでも悲しい出会いです
会えばかならず別れがきます

さよなら、秋の日 ふたりの愛
季節は変わった
花咲く朝の光 胸に閉じたままで
さよなら、春の恋人

 あなたにもらった想い出のペンで、心残りの気持ちを文字に書いてみたけど、でも、もう過去のことと、便せんを破ってテラスから放る。
「わたし」を丁寧に発音することで、彼女は感情を抑制し、演技として成立させている。
季節は巡って、今はもう秋。二人の愛はすでに想い出のかなたに。
感傷的な心情をストレートにつづった2曲の双子のようなバラッド調のロック

実は次のイミテイション・ゴールドもそうだが、阿木燿子の歌詞のギミック、謎、アイテム、スピーディーに目まぐるしく切り替わる場面暗示される心理描写などなど、難解で読み手に知的な緊張を強いる歌詞世界にずっと神経を集中し、消耗していたので、こうしたひとつひとつに丁寧な情景が浮かぶ歌詞世界には心地よさも感じ、ほっとするのである。

二曲とも、山口百恵はおだやかにそして軽やかに、「わたし」を演じている。

15.イミテイション・ゴールド(あたし)

なんとも奇妙な、スリラーのように暗雲を漂わせるイントロで始まる。

シャワーのあとの
髪のしずくを
乾いたタオルで
拭き取りながら

オープニングは雄弁な四行だ。これだけで状況が鮮明に浮かぶ。ホテルのツイン──もしかしたらスイートだろうか。
女が髪を拭きながらシャワー室から出てくる。

彼が窓辺で話しかけるわ
流れる雲さえ季節の色だと
私は軽い目眩(めまい)を感じ
マニュキュアの指かざしてみるの

ア、ア、ア、イミテイション・ゴールド
ア、ア、ア、焼けた素肌
ア、ア、ア、イミテイション・ゴールド

 彼がカーテンの開いた窓から外を眺めながら、雲の流れる様子から季節の巡るのが速いと言う。「あたし」は、西日を手で遮りながら彼の言葉を追って外を見ようとするが、指先のマニュキュアの金ラメがちらっと光るのに気づき、不意にイミテイション・ゴールドという言葉が浮かんで、その言葉を今の彼にそのまま重ねる。
阿木燿子の、具体的な事物にフォーカスして、そこから人物の心理に展開させる巧妙な方法論を辿るとそのように読み取れるだろう。

「付き合ってからいくつか季節が巡って、彼は、もうすっかり「あたし」の彼氏のつもりなのね」そんなところだろうか。

若いと思う 今年の人よ

が違う が違う
が違う 黒子(ほくろ)が違う

ごめんね 去年の人とまた比べている

彼女は、そんな彼の様子を見て、ふと思う。この男で本当にいいのだろうかと。そして去年の男と比べて思わず「甲斐性」などという言葉が頭をよぎってしまう。彼の「声」で経験値を、「年」で可能性を、「夢」で将来性を。では「黒子(ほくろ)」で何を測るのか?いや、黒子を見て冷静になり、無意識に比べている自分に気づいて、ごめんね。つまり、思わず「品定め」みたいなことをしている自分に気づき、胸の内で陳謝した。と、こういう流れだろう。

西陽の強い部屋の片隅
彼が冷蔵庫バタンと閉じる
パックのままの牛乳かかえ
身軽な動作で運んでくれるわ

ア、ア、ア、イミテイション・ゴールド
ア、ア、ア、命そのまま
ア、ア、ア、イミテイション・ゴールド
飲み干したけど 今年のひとよ

癖が違う 汗が違う
愛が違う 利き腕違う

ごめんね去年の人にまだ縛られてる

なんと牛乳パック大型冷蔵庫生活感。ホテルではなさそうだ。ということは女の部屋?それもかなりの高級マンションをイメージさせる。
そして二番では、愛し方や愛情の深さを比べている。

でも結局、だからといってもちろん今年の男を手放そうとしているわけではない。利き腕が違うのだから、抱かれている感触が違うのは当然だと、やはり冷静になる。未完成の価値

日が当たれば 影が違う
色が違う 光が変る

ごめんね去年の人を忘れるその日を

 むしろ、去年の男を忘れて、今年の男に気持ちを切り替えようとしている。

「光の加減でイミテイション・ゴールドの輝きが変わるように、少し環境が変われば、今の男にも日が当たって、見違えるように成長するかもしれないわ」と、どこかで期待している。

そして、阿木の歌詞は、逆説的かもしれないが、女性という生き物は、言っていることと思っていることが、実はこれくらい違うということも暗に伝えているのではないだろうか。スリラーのような編曲には、そうした裏側を覗かせる効果もあるのだ。

この曲は、スタジオパフォーマンスで、四人の女性ダンサー(コーラスユニット『サクセス』)が登場し、山口百恵とともに今でいうフォーメーションダンスのような革新的な演出が取り入れられた。まず山口百恵を隠すように四人が直列に重なって並び、手を四方八方に伸ばした状態で静止する。

このスタンバイ状態はもはや阿修羅そのものである。

スリラーのようなイントロが始まると、まるで百恵の分身のようにひとりずつ移動して全員が離れるとそこから百恵が登場する。四人はコーラスを歌唱し、百恵の周囲でフォーメーションを変えながら手足を躍動させて踊る姿を見せていた。百恵自身も、ダンスステップを踏みながら、ア、ア、アのところでは、左手を立て、ひじから先をリズミカルに振り払うようなしぐさの印象的な振り付けで踊ったのである。つまりこの曲は、後付けに聞こえるかもしれないが、ロック阿修羅が顕現したきっかけになったのだ。

本物の阿修羅像は三面六臂であるが、百恵+四人の分身ダンサーによるこの阿修羅ダンスは、五面十臂(ごめんじゅっぴ)の大サービスだった。

山口百恵が歌唱時にミュージカルのように本格的に躍動するダンスパフォーマンスを取り入れたのはこの曲が最初の代表例である。

そして山口百恵は、阿木の詩がそのまま「あたし」の言葉となり、文字通り阿修羅となって、女性の本心を伝えていたように思われるのだ。

16.プレイバックPart2(ほぼあたし)

イントロから、いきなり二本のエレキギターが小気味よく絡み、森の中を疾走する「真っ赤なポルシェ」をストレートに印象付ける。風景が飛ぶ。

実は最初の「私」だけは
、はっきり「わたし」と発音している。逆にここ以外はすべて「あたし」だ。最初のナレーションの「わたし」だけが曲の主人公を演じた形跡があるのだ。なぜだろうか。もちろんこの問いに、阿木の歌詞は答えてくれない。演じる百恵の解釈だからだ。
長年の謎だったが、あるときふっと、もしや?の思いがよぎった。
WEBで確認できる資料によれば、山口百恵自身が普通自動車免許を取得したのは引退後の1986年末ごろで、「プレイバックPart2」を歌唱していた当時は、もちろん自動車免許証を持っていない。したがってこの最初のハンドルを切る「私」だけは、「わたし」で演じていたのではないかと
ウーム、律儀というか完璧主義というか、阿修羅も人間なのだろう。

緑の中を走り抜けてく真紅(まっか)なポルシェ
ひとり旅なの
私(わたし) 気ままに ハンドル切る
交差点では隣りの車がミラーこすったと
怒鳴っているから
私(あたし)もついつい大声になる

あたし自身は、(免許を持っていないからハンドルを切ることはできない、最初だけは「わたし」で演じよう。そう彼女が思ったかどうかはわからないが、それ以外の「私」は、すべて「あたし」で突っ走る。とはいえ、ライブではグルーヴが走って無免許の「あたし」がハンドルを切ってしまうこともあるのではないかと、耳を澄ませて聴いてみた。

流石だ。阿修羅はどれほどグルーヴしても、「わたし」を見失うことはなかった。ハンドルを切る「私」は、どのライブ演奏でも常に「わたし」だった。だんだん何を言っているのかがわからなくなってきた。

これをわたしは「無免許のわたし」の法則と呼んでいる。この分析、半分は冗談だが、残り全部は本気だ。

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ

ちょっとまって  Play Back Play Back
今の言葉     Play Back Play Back

さあ、素の阿修羅(百恵)が大木の中から姿を現した。この強烈な登場感たるや、思わず嬉しくなってしまう。「いよっ!百恵っ!待ってましたっ!」と、思わず声をかけたくなる。

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ

  これは昨夜の 私のセリフ
  気分次第で抱くだけ抱いて
  女はいつも待ってるなんて
  坊や、一体何を教わってきたの
  私だって、私だって、疲れるわ

この「馬鹿にしないでよ」という歌のセリフ、当時の社会に大きな衝撃をもたらした。よく聞くと、少し溜めた後に勢いをつけて畳みかけるように啖呵を切っている。そしてこの言葉を浴びせたのは昨夜の「あたし」だ。

男が「女はいつも待ってる」などと女のプライドを傷つけたからだ。ちなみに「待ってる」の「る」はやや巻き舌気味だ。よほど腹に据えかねたのだろう。

そして、ブラウン管のこっち側で、日本中のお茶の間が、次の彼女の言葉と表情に凍り付いたのである。

「ぼうや、一体何を教わってきたの」

あの表情、あの目線。蔑(さげす)むという動詞を、そのまま演じるならこうだという手本のような、あのまなざしで日本中を震撼させたのである。
日本の男どもは、みな心の中でひれ伏したのである。

今思い出しても、超・恐ろカッコいい。

この曲の制作にまつわる謎については、以下をご参照ください。

17.絶体絶命(あたし)

この曲は、三角関係にある三人が一堂に会し、逃げ場のない激しい応酬が繰り広げられる、極度に緊張感の高い一幕物の寸劇として構成されている。舞台は、夕暮れ迫るカフェテラス。その修羅場を、山口百恵は一人芝居で演じ切る。

ここで重要になるのが、彼女自身がかつて「自分は嫉妬深い性格だ」と語っていた事実である。嫉妬という感情は、演技として構えた瞬間に、かえって嘘っぽさを帯びる。だからこそ彼女は演じようとせず、自然に役へと身を委ねる。するとその瞬間、「私」は「あたし」になるのだ。

嫉妬を演じるときは、彼女の一人称は必ず「あたし」になる。例外はない。これをわたしは、「無免許のわたし」の対極的な概念として「嫉妬のあたし」の法則と呼んでいる。

「別れて欲しいの 彼と」
そんなことは出来ないわ
「愛しているのよ 彼を」
それは私も同じこと

阿木燿子の必殺技。冒頭四行状況描写がここでも炸裂。

そしてこの女性の叫び四連発が衝撃的な傑作だが、振り付けでは、最初は正面、二番目で向かって右を、三番目で左を向き、四番目で百恵はもう一度右を向く。
明らかに言い争う二人の女を演じ分けている。

夕暮れ迫るカフェテラス
その人は白いハンカチを噛む
薬指には銀色に輝く指輪
私を弾いてる

このとてつもない爆弾のようなエネルギーをもったハードロックの勢いに圧倒され、鋭利にとがった三角関係の構図だけが網膜に焼き付く。

ここでも阿木燿子の具体的で見事な道具立てが光る。「薬指には銀色に輝く指輪が私を弾(はじ)いてる」つまり相手は婚約者(か正妻)だ。「あたし」は、その事実を突きつけられたのだ。
「弾く」という表現が実に秀逸だ。弾丸に撃ち抜かれたような衝撃を受けたということだろう。

WEBで公開されている歌詞を見るだけではわからないが、本来の歌詞(阿木燿子著の歌詞エッセイ本「プレイバックpartⅢ」からの引用)では、冒頭の四つのセリフの一番目と三番目は、カギカッコがついている。つまりこちらは相手の女が実際に叫んだ言葉。そして二番目と四番目は、主人公の心の叫びだ。呼び出され、叫ばれ、衝撃の事実を突きつけられた。圧倒的に不利な『絶体絶命』の状況だ。

そこへ彼 遅れて来た彼
二人とも 落ちついてって言ったわ
三人模様の絶体絶命
さあ さあ さあ さあ

はっきりカタをつけてよ
はっきりカタをつけてよ
やってられないわ
その人と私のどちらを選ぶの

この状況でなお、「ごめん、ごめん」などと、遅れてやってくる男なのだ。チャラ男かジゴロかドンファンか。無責任がそのまま実体化したような男だ。そして歌舞伎の常套句。もはや阿木燿子はだれにも止められない。

阿木の詩がそのまま自らの言葉になって、阿修羅の「あたし」は男を追い詰める。啖呵を切る。いや、見得を切る

こんな芝居がかった歌舞伎ロックは、後にも先にも観たことがない。出雲阿国?ちがうと思う。古今東西、ロック阿修羅の山口百恵にしかできない歌舞伎芝居だ。

男一人、女二人の三角関係の修羅場をテーマに歌うこの「絶体絶命」は、「プレイバックPart2」同様、宇崎×阿木チームのハードなサウンドとともに、当時のミュージックシーンに、というか世の中全体に、はかり知れぬ衝撃をもたらした。

平成という時代をひとつ越した令和の現在においても全く色あせることのない名曲だ。

そして山口百恵はまさに威風堂々、男をきっぱりと見限り、自ら身を引く女の立場を、さながら阿修羅のごとく演じ、歌った。

人知れず、涙で身を引く「ラスト・ソング」の菩薩のような女性歌手の対極なのだ。

一人称は、もちろん徹頭徹尾、「あたし」だ。

18.NAVY HILL(あたし) 作詞:山川啓介 作曲:芳野藤丸


なつかしい風
に 髪を洗わせて
ひとり登る 港の丘
あの人の腕に たどりつく
前に
サヨナラを 置いて行く

Hi! NAVY HILL
幼なじみの景色
Hi! NAVY HILL
ブルーグレイの NAVY BAY

よく似た色をしていた 私の目も
ほのかに燃えてるはず

 山川啓介は、中村雅俊の「ふれあい」、青い三角定規の「太陽がくれた季節」、矢沢永吉「時間よ止まれ」、そしてゴダイゴの「銀河鉄道999」(奈良橋陽子との共作)など、多くのヒット曲を手掛けてきた専業作詞家である。作曲の芳野藤丸は、もちろん伝説のロックバンド「SHŌGUN」のギタリストである。

“NAVY HILL” は、そのまま訳せば「海軍の丘」。歌詞にある「港の丘」という場所、そしてなつかしい風、幼なじみの景色、これらの表現を山口百恵と重ねれば、ここが横須賀港であることはすぐにわかる。横須賀の港は軍港なのである。つまりこの歌は、千家和也の「パールカラー」同様、作詞家 山川啓介が、「あえて横須賀と書かずに、横須賀を描く」という技巧を用いた歌ということになる。

それも、「なつかしい風に髪を洗われながら、幼なじみの景色である横須賀港の丘にひとり登る」ということなのだから、これはつまり「横須賀ストーリー」に歌われた「急な坂道かけのぼった」先の海が見える丘と、同じ場所をイメージできる。(横須賀にはこの歌に歌われた「これっきり坂」という場所がある。)

ただ、「パールカラー」が、「横須賀ストーリー」のネクストシングルだったことと比較すると、この「NAVY HILL」は、1980年2月発売アルバム『春告鳥』の収録曲ということで、山口百恵のキャリアでは最後期に属する。

川瀬氏の「プレイバック」によれば、一つ前の『LAブルー』に合わせて制作されたが、曲数の関係で同アルバムに収録されなかったということだ。したがってサウンドの技巧に優れている。「LAブルー」はリズムセクションが特に素晴らしいのだが、この曲にもそのカッチリしたリズムが生きている。

Bye! NAVY HILL
ひとりぼっちの少女
Bye! NAVY HILL
死んでカモメになった

もう二度と
ここに立たずむこともない
あの子に どうぞよろしく

この時期は、三浦友和との恋人宣言と重なるため、「あの人の腕に たどり着く前に、サヨナラを置いてゆく」という表現は具体的だ。

それにしても、ずいぶん過激な表現で横須賀に別れを告げているものだと最初は思った。あのころ「ひとりぼっちだった少女は、死んでカモメになった」とまで言い切っている。話しかけている相手は、Bye! NAVY HILLということで、海軍の丘、つまり丘を人に見立てた擬人法である。「昔ここにいた少女は、死んでカモメになってしまったの。(だからもういない)」と語りかけているのだろうか?しかし、さすがに違うと気づいた。

「死んだ」は “少女時代の終わり” を意味するメタファーで、カモメは “自由と再生” を象徴している。つまり「カモメ」は現在の自分なのだと。

幼き日の自分に逢いに来た。そしてその頃の自分を想い出す。「死んだ」という表現は「生まれ変わった」ことを逆説的に伝えているのだ。幼き日の自分との決別。当時彼女はすでにロックシンガーとして唯一無二の存在感を確立しており、もはやあの地味でどこか悲し気な陰影のある少女の面影はない。

「横須賀ストーリー」でメタモルフォーゼを遂げた山口百恵というシンガーの脱皮後の成長した姿をまさにあの丘を舞台に詩的に伝える試みなのだ。そのような山川の意図が隠れている。作曲を担当した芳野藤丸も、その意図を正確に汲んだのだろう、曲調はカラッと弾むように明るい

そして山口百恵は、阿木燿子以外の詞では珍しく、「あの子によろしく」と伝える素の自分を投影した「あたし」として、実に清々しく歌いあげるのだ。

19.愛の嵐(あたし)

この曲は、当時トヨタがFF車として初めて発売した、コルサ/ターセルという車種のCMで使われた。車が百恵の「赤い靴」に喩えられていたくらいだから、その誕生からして小気味よくかっ飛ばしてくれる、その疾走感が心地いい楽曲なのである。

しかしテーマは、強烈な女の嫉妬。もう完全にご本人がダダ洩れ。素の山口百恵全開で、すべて強烈な一人称の「あたし」で突っ走る。
嫉妬全開なのだ。

スタジオパフォーマンスでは、真っ赤なドレスに赤いハイヒール、左の首筋に蝶のタトゥーという、刺激的な姿で歌唱した。

その人は幻
薄紅のドレス着て
にっこり微笑んで
あなたに向って手招きしてた

「阿木の四行」だが、ここでは少し様子が違う。ただならぬ気配が漂う。

心配そうなあなたの声で
私はようやく夢から醒める
さっきの首にまわした指が
ほんのちょっぴり強すぎたみたい

ちょっと待て。うなされていたから声をかければ夢に女が現れた
その女が、「あなたに微笑んで手招きしてたでしょう?」って、おいおい、夢の話だろ
しかも、男の首に回しているのは「腕」ではなく「指」であることに注目してほしい。殺意あるよね?
浮気の証拠も何もなしに「ほんのちょっぴり強すぎた」で済むのか?

炎と書いてジェラシー
二人でこうして一緒にいるのに
ルビをふったらジェラシー
あなたがどこかへ行ってしまいそう

二人だけで一緒にいるのに男は嫉妬されているのである。それにしてもルビを振るとはどういう状況だ?炎にジェラシーのルビ?彼女の顔にジェラシーという文字が浮かんでいるメタファーか?などと、あれこれ可能性を探っていたある日、ふっと答えが降ってきた。

そうか、このシングルの発売は1979年6月で、ここでは並んでいないが、ひとつ前のシングルが1979年3月発売の「美・サイレント」だ。この流れで考えれば、あちらの歌詞は文字を「伏せ字」にして読ませない。こちらはルビを振って別の読み(ジェラシー)をさせるという対照的な連続技だったのだ。
阿木さん、ギミックの難易度が高すぎて、気づきませんって!

ジェラシー・ストーム
ジェラシー・ストーム
ストーム・ストーム・ストーム・ストーム

嫉妬の嵐がどれだけ強烈なのかと、曲中で繰り返されるストームの数を数えてみた。
阿木燿子の歌詞では4回続いている。(「プレイバック Part Ⅲ」)
曲を作った宇崎竜童が、デモテープの段階で、ストームを何回繰り返したのかが気になるところだが、レコーディングのその場のノリで、回数を決めたのではないだろうか。誠に勝手な想像だが、宇崎と百恵が目配せして、「もっといれちゃえ」とか「もう一声!」とか。

実際に山口百恵が歌の中でストームを何回言っているかご存じだろうか。なんと10回繰り返している。どれだけ猛烈なのか山口百恵の「嫉妬の嵐」。もとの歌詞の倍返しでは済まないのだ。

ストームストームストームストームストームストームストームストームストームストーム

最後は音符からこぼれ落ちて三倍速の早口になり、かつ耳元にウィスパーでダメ押しだ。こんな嫉妬心を山口百恵にぶつけられたら男は堪らないだろう。もちろん幸せのあまりにだ。

紫の煙 一息吐いて
好きだと容易(たやす)く口にするけど
屈託のない笑顔を見るとき
軽くあなたを憎んでしまう

愛情を率直に言葉に出したほうが、女性は嬉しいのではないのか?
百恵は、いや阿木は違うのか?
「屈託のない笑顔」とは、辞書的には、裏表のない無邪気な笑顔を指す言葉だ。なぜ、どこに、どのような憎まれる理由(わけ)が?
疑問詞がどんどん降ってくる。

この曲はぜひLive Ver.も聴いていただきたい。コーラスの絡みがとても美しいのだ。

狂うと書いてジェラシー
あなたのすべてを縛れない限り
ルビをふったらジェラシー

狂うと書いてジェラシーのくるう、の「る」が完全な巻き舌。Live Ver.では本当に嫉妬に狂う様子がダイレクトに伝わる。これがまたカッコイイ。

愛する極み
巻き込まれてゆく

女は、愛情が極みにまで上り詰めると、嫉妬に転じてしまうのか?
男は、無力なのか?どうすることもできないのか?

ジェラシー・ストーム
ジェラシー・ストーム
ストーム・ストーム・ストーム・ストーム

心の貧しい女だわ 私

文字でみる歌詞の印象に百恵の歌のスピード感はない。
しかし、宇崎の曲で、歌ではこうなる。

こころの貧しいおんなだわ~、あーあーあ、た、し!

もちろん「あたし度」100%
トヨタかどうかはさておき「あたし」エンジンフルスロットルで突っ走る。

20.タイト・スカート

けだるい打楽器のリズムと、ギターから始まるイントロ。アダルトな雰囲気を漂わせるブルースロックナンバーである。傑作アルバム『LAブルー』に収録。落ち着いて語りかけるような口調で歌う。しかし説得力が半端ではない。発売日が1979年7月21日ということで、山口百恵は、すでに二十歳(はたち)になっている。ようやく世間の常識に追いついてきたか、と、別のことで安心してみたり。ただし、歌声から漂う大人の色香は、もはや三十路(みそじ)を過ぎたレディのものだ。

気紛れな潮風
声をかけられた気がして
振り向けば誰もいない

泊まってるギリシャ船
昨夜(ゆうべ)の男の笑顔と焼けた肌
想い出すわ

Black tight skirt
女の一生は
小さなホックのかけ外し

Black tight skirt
女の幸福(しあわせ)は優しい手つきのかけ外し
あゝ
人よりほんの少しそれが少ないだけよ

まるでハリウッド映画のワンシーンだ。波の音、舞台はサンフランシスコ湾を見渡す埠頭だろうか。潮風が髪をなでる。ギリシャ船を見て、ゆうべの男を想い出す女。焼けた肌という表現では「イミテイションゴールド」の今彼が浮かぶ。
しかしやはり阿木燿子だ。いきなり疑問符だらけの世界に放り込まれる。

女の一生は、小さなホックのかけ外し?

この極端な表現、あまりにリアルすぎて黙って聴くしかない。ぶっ飛んでいるようで妙な説得力がある。

女の幸福は、優しい手つきのかけ外し?
人よりほんの少しそれが少ないだけよ?

つまり自分はそういう男に巡り合う機会に恵まれていないと言っているのだろう。この歌詞に一人称は登場しない。主役が表に出てこない独白である。

ブラディー・マリー 血のお酒
流し込む喉は渇きで
笛みたい音がするわ

山口百恵は、カクテル「ブラディー・マリー」を歌うときのニュアンスが、本当に大人っぽい。もちろんこのときの彼女はすでに成人しているから飲めるし、実際にLAで飲んだことだろう。
曲の世界観は、いかにロック阿修羅と言えど、舞台がLAでは一味違う。

目の色や肌の色
それぞれ違う男が

移り香を残してゆく

Black tight skirt
女の一生は
後ろのファスナーの上げ下ろし
Black tight skirt
女の哀しみは
心の通わぬ上げ下ろし
あゝ
人よりほんの少しそれが多いだけよ

しかし娼婦的な連想を誘うほど、次々に男が代わる極端な描写の連続。
第二節は、描写が反転し、自分は哀しみが人より多いというのだ。

サンフランシスコ・ハーバーライト
夜明けが近いわ
サンフランシスコ・ハーバーライト
夜明けが近いわ

この「サンフランシスコ・ハーバーライト」を歌い上げる大人の色香漂うニュアンス、もはやジャズシンガーの円熟味を感じさせる。そして、二つの「サンフランシスコ~」の歌いまわしが全く違うしびれる

ホテルのバーでカクテルを飲む、すっかり大人になった山口百恵
無人称で独白調のブルージーなブルースロック洗練されたAORサウンド
こうした世界観がこの歌をよりクールで、匿名的なものたらしめているのだ。
そして歌い手は、主役同様、年齢不詳だ

21.横須賀サンセット・サンライズ

さて、サンフランシスコから横須賀に戻ってきた。この曲は、1978年12月発売のアルバム『曼殊沙華』の中の1曲である。『曼殊沙華』のレコードの帯には、「あなたの前で女でありたい。わたしはもうはたち… 二十歳の記念碑」とある。

もちろん横須賀三部作としてよく知られた、阿木・宇崎作品である。「タイト・スカート」同様、歌詞に一人称は出てこない無人称曲である。

横須賀サンセット
 横須賀サンライズ
  今 地平線に沈む陽は
   明日の朝も昇りますね

秒針のない砂時計
逆さまにしただけの短い季節

普通は、サンライズ・サンセットの順序だ。陽は昇り、陽は沈む。それをあえて逆転させる。砂時計を逆さまにするだけの短い季節。つまり、「回想」のメタファー。ちょっと時間を巻き戻して、あのころの感傷に浸る。阿木の叙情的技巧と言えるだろうか。

丘の上から夕凪の
海を見つめて二人
うなずきあったわ

少女のままのファースト・ラブ
額に受けたファースト・キス

横須賀ストーリーのあの場面に戻るというのだろう。はたちになった記念に、もう一度羽ばたいたころの自分を回想し、そして別れを告げるというテーマの楽曲と言える。

過ぎ去るものの爪痕(つめあと)は
時には人に深い傷を残すの

夏が終れば さよならと
それだけ言ってあなたに
逢えなくなったわ

(中略)

   横須賀サンセット
  横須賀サンライズ
 まだ胸の中で生きている
近くて遠い想い出の街

歌詞の文字列の形も、阿木のリリックブック『プレイバック PartⅢ』をそのまま再現した。いったん立ち止まり、振り返るというこの曲の位置づけを文字列で視覚的に語っているのだろう。

22.横須賀ストーリー Live Ver.(あたし)

彼女がご自身をロックシンガーとして再定義した記念すべき楽曲である。ここでは「あたし」のLive Ver.の選曲で行きたい。グルーヴ感が素晴らしいからだ。この歌が完全に彼女に溶け込んで、阿木の詩が、彼女自身の言葉に転化しているのがストレートに伝わってくる。

ちなみに彼女のMCの鉄板ネタに、パチンコ店でこの曲がかかると、必ず客が店員に文句を言うという話がある。

これっきり これっきり
もう これっきりですか

「おい、この歌がかかると、パタッと止まって玉がまったく出なくなってしまうじゃないか。この曲かけるのやめてくれないか!B面にしてくれ!」
そこで、店員が、「はあい」と、言ってB面をかける。すると出てきた歌が。

「GAME IS OVER」(ゲーム終了)

客席がどっと受ける。
よくできた話ではあるが、これ、この話自体の面白さというよりも、山口百恵って、こんなジョークを言うんだ、という意外性が受けていたのだと思う。

街の灯りが映し出す
あなたの中の見知らぬ人
は少し遅れながら
あなたの後ろ 歩いていました

この曲には上記のブロックも含めて「私」が四か所出てくる。スタジオ録音では彼女はまだ遠慮がちに、そして微妙な差だが、三番目だけ「あたし」と発音している。つまりこの曲のスタジオ録音時には、まだ一人称の意識的な使い分けが行われていなかった。そう考えるのが妥当だろう。阿木の歌詞と出会ってまだ間もないのだから。しかし、その後に録音されたLive Ver.ではすべて「あたし」と発音されているのだ。やはりこの歌が彼女の中で決定的な変化を促したと考えられるのだ。

これっきり これっきり
もう これっきりですか
これっきり これっきり
もう これっきりですか

急な坂道 駆けのぼったら
今もが見えるでしょうか
ここは横須賀

実際の地名を織り込んだ歌詞としてよく知られた部分である。坂の多い横須賀。坂を上ると小高い丘の向こうに横須賀の海が一望できるのだ。
こうして【ロック阿修羅編】には、横須賀三部作のすべてが揃った。いや、「Navy Hill」を含めると四部作というのが正確だろう。
「これっきり」という言葉も、少女時代の自分に対する決別宣言にも聞こえてくるのだ。

この原点回帰の曲で【ロック阿修羅編】に終止符を打つ。
翻って見れば、ロック阿修羅とは、
演じる主体の人格が消されることではない。

演じられるキャラクターの身体に、複数の「一人称」が境界なく同時に宿る状態のことである。

ここまで辿ってきて、ようやく「ロック阿修羅」という言葉が、比喩ではなく状態名として立ち上がってきた。

その姿は図らずも、初めから三面六臂の阿修羅の姿に現れていたのだ。

 さて、引き続き③【神話ミューズ編】の楽曲解説の旅を続けてみたいと考えている。これまで綴ってきた①【女優菩薩編】②【ロック阿修羅編】に続く、第三弾ということになる。

これまでの二編で山口百恵の両極を巡ってきたのだとすれば、③はそれらが螺旋的に昇華していった結晶のような作品群ということで、構想段階では【止揚編】と呼んでいた。

そちらもできれば近い将来、ご紹介したいと思う。
(2025年12月23日に公開済みです。以下をご参照ください)

『伝説の女優ロッカー:山口百恵』【女優菩薩編】楽曲解説は、以下をご覧ください。

『伝説の女優ロッカー:山口百恵』【神話ミューズ編】楽曲解説も、2025年12月23日に公開いたしました。もしよろしければ、以下をご覧ください。

第一コンピレーション『時の扉』は以下をご覧ください。

第二コンピレーション『輪廻』は以下をご覧ください。

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