魔物は本当にいた。震える指と空白の5秒間、そして・・・
名前を呼ばれた。 革靴がステージの床を叩く音が、やけに大きく響く。
ピアノを習い始めて、わずか10ヶ月。 最初は「大人のたしなみ」として、軽い気持ちで始めたはずだった。 それがどうだ。気づけば、仕事終わりの深夜に猛練習し、清水の舞台から飛び降りて高価な電子ピアノまで買い込み、今、人生で味わったことのない緊張感の中に身を置いている。
「一体、俺は何をやっているんだろう」
ステージの中央まで歩き、客席に向かって一礼する。 まばらな拍手の中に、数人の友人の顔が見えた。「発表会に出るから冷やかしに来てよ」なんて軽口を叩いて誘った彼らだ。 知っている顔を見て安心するどころか、逆に「逃げられない」という現実を突きつけられた気がした。
私は逃げるようにピアノの前に座り、大きく息を吸った。 目の前には、黒く輝くヤマハのグランドピアノ。 震える指を鍵盤に置く。
静寂。
そして、私のベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」が始まった。
冒頭の三連符。 (……硬い) 音が硬い。指が思うように動かない。 練習ではもっと滑らかに弾けていたはずなのに、指先に鉛が入ったように重い。
「やばい、なんかホワイトアウトしそうだ」
視界が狭まっていく感覚。楽譜のイメージが遠のいていく。 それでも、指に染み込ませた記憶だけを頼りに、ぎこちなく前奏を進める。 ミスタッチがいくつか出た。焦りが全身を駆け巡る。 (落ち着け、落ち着け) 自分に言い聞かせながら、いちばん苦労して何百回と繰り返し練習した中盤の展開部へ。そして、最初のテーマが戻ってくる再現部に入った瞬間だった。
プツン。
頭の中で、何かの線が切れた。
「……あれ?」 「次、どこだっけ?」
完全に、頭が真っ白になった。 楽譜の映像も、指の運動記憶も、すべてが消え失せた。 私の指は鍵盤の上で完全に停止した。
ホールに流れる、恐ろしいほどの沈黙。 実際には5秒ほどだったのかもしれない。だが、私には永遠のような長さに感じられた。 背中から冷たい汗が噴き出す。 (やばいやばいやばい、どうするんだっけ? 終わるのか? ここで終わりなのか?)
パニックになりかけたその時、脳裏に先生の言葉が蘇った。
『もし真っ白になっても、すぐに戻れる「避難所」を作っておきましょう』
そうだ、避難所! この部分は、最初の展開部と同じ流れだ。あそこなら、指が覚えているはずだ!
私は祈るような気持ちで、数小節先の「避難所」へと指を飛ばした。 音が、鳴った。 メロディが繋がった。
そこからの記憶は、もうほとんどない。 無我夢中、というよりは、溺れかけながら必死に流木にしがみつくような感覚だった。 気づけば、最後の和音を静かに弾ききり、残響が消えるのを待っていた。
……終わった。
とりあえず、最後までいった。なんとかなった、のか?
椅子から立ち上がり、再びステージの中央へ。 拍手が聞こえる。でも、私は客席を見ることができなかった。 友人たちの顔を見るのが怖かった。視線を足元に落としたまま、逃げるように舞台袖へと下がった。
練習で自分なりに満足できた時を10点とするなら、今の演奏は……せいぜい「4、5点」だろうか。 舞台袖の薄暗がりに入った瞬間、糸が切れた操り人形のように一気に脱力した。
「よく最後まで弾ききりましたね。よかったですよ」 先生が笑顔で迎えてくれたが、その優しさが逆に胸に刺さった。
ロビーに出ると、友人たちが駆け寄ってきた。 「お疲れ! すごい緊張感だったな!」 恐る恐る感想を聞いてみる。
「いやー、クラシックとか全然わかんないからさ。どこで間違ったとか全然わかんなかったよ」 「ただ、『ただならぬ気配』だけは伝わってきた(笑)」 「いやでも、この歳でその挑戦をするだけすごいよ」
それは、友人としての最大限の慰めであり、優しさだった。 でも、その言葉を聞けば聞くほど、私の心には黒い感情が渦巻いた。
達成感? いや、そんな綺麗なものじゃない。 悔しい。 ただひたすらに、悔しい。 そして正直、ものすごく恥ずかしかった。あんなに練習したのに。あんなに道具も揃えたのに。本番で力を出しきれない自分が、情けなかった。
でも、不思議なことに「もうピアノなんて辞めてやる」とは、1ミリも思わなかった。 沸き上がってきたのは、ドロドロとした悔しさと共に燃え上がる、熱い想いだった。
「もっと上手くなりたい」
大人のピアノ発表会。 ほろ苦いデビュー戦は、私に「本気の火」をつけて幕を閉じた。
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