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足利高氏の裏切り。篠村八幡宮に奉じた討幕の願文に無粋なつっこみを入れてみました

こんにちは。鎌倉幕府最後の得宗・北条高時のなりきりです。正慶2年/元弘3年(1333)4月29日、足利高氏が鎌倉幕府を裏切りました。まことに忌々しい、思い出すだけでも腹立つのですが、悔しいから、高氏が篠村八幡宮に必勝祈願したときの起請文に(しょーもない)つっこみを入れてみたいと思います。

足利高氏、裏切りを決意

足利尊氏
足利尊氏

もともと後醍醐天皇が隠岐から抜け出したことで、西国の空気が一気にキナ臭くなりました。楠木正成や赤松円心は勢いづきますし、それに手こずる幕府軍をみて御家人たちも「幕府は大丈夫か?」と不安になり始めていたようです。そんなわけで、幕府は威信をかけて名越高家と足利高氏を派遣したのですが……見事にしてやられました。まさか高氏、北条に忠実なわんちゃんかと思ってたら、牙を隠した虎だったのです。

今にして思えば、高氏を鎌倉から出すなんて虎を野に放つようなものでした。しかもこの間、庶長子の竹若丸は捕えたものの、肝心の正室・登子と嫡子・千寿王には逃げられてしまいます。このあたり、幕府がザルなのか、足利が周到なのかは分かりませんが、どっちにしろ、いまさら言っても始まりません。

高氏がいつ裏切りを決意したのかは定かではありません。通説では近江国で後醍醐天皇の綸旨を手に入れ、何食わぬ顔で六波羅の軍議に加わったといわれています。出陣すると千種忠顕と一応は戦ってる風を装いつつ、一方の大将・名越高家が討死すると聞くや丹波に向かい、公然と反旗を翻したのです。

足利高氏、篠村八幡宮で旗あげ

篠村八幡宮(京都府亀岡市)
篠村八幡宮(京都府亀岡市)

足利高氏は篠村八幡宮(京都府亀岡市)に入ります。高氏はここに10日間滞在したといわれています。足利びいきの『梅松論』は、高氏の決起をこう伝えています。

同日将軍(=足利高氏)は御領所丹波国篠村に御陣を召る。抑も将軍は関東誅伐の事、累代御心の底に挟るゝ上、細川阿波守和氏・上杉伊豆守重能、あらかじめ潜かに綸旨を賜て、今御上洛の時、近江国鏡駅において披露申され、『既に勅命を蒙らしめ給ふ上は、時節相応天命の授くる所なり。早々思し召し立つべきよし』再三諌め申されける間、当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。

『梅松論』

要するに「代々ずっと関東を倒したかったんだよね~」っていう高氏の願望が、天皇の綸旨で正当化され、「これは天の命だ!」とか言いながら堂々と旗揚げをしたという話です。じつにご立派ですが、鎌倉からすれば単なる裏切りです。だいたい、足利家時の置文とかテキトーなことを創作し、さも「北条が私していた政権を源氏の足利が取り戻して世直しした」という嘘歴史を後世蔓延させたのは、明らかな名誉毀損です。

柳の大木の梢に御旗を立られたりき。是は春の陽の精は東より兆し始む。随て『柳』は『卯の木』なり。東を司りて王とす。武将もまた卯(東)の方より進発せしめ給ふて、順に西に巡りたる相生の夏の季に朝敵を亡ぼし給ふべき謂なり。しかる程に京中に充満せし軍勢共御御方に馳せ参ずる事雲霞のごとし。則ち篠村の御陣を嵯峨へ移され、近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞えあり。

『梅松論』

「柳は春の象徴だから縁起がいい」とか「東から出発するのが王のしるし」とか、いちいちスピリチュアルな理屈をつけてるのも腹立ちます。そして旗を立てたら、どこからともなく雲霞のごとく兵が集まったとか。まるで蜜に群がるアリ、利に聡い連中がわらわらと集まってきたんですね。

都にては去三月十二日より十余度の合戦に打負けて六波羅を城郭に搆へ皇居として軍兵数万騎楯籠る。かゝる所に去春より楠兵衛尉正成の金剛山の城を囲みし関東の大勢一戦も功をなさず利を失ふ処に、『将軍既に君に頼まれ奉り給て近日洛中へ攻め入り給ふよし』金剛山へ聞えければ、諸人驚き騒ぐこと斜めならず。かゝるに付きても関東に忠を存ずる在京人并びに四国西国の輩、いよいよ思ひ切りたる事の躰、誠に哀れにぞおぼえし。

『梅松論』

都では六波羅の北条時益や北条仲時が帝をお守りして立て籠っていました。ただ、金剛山に楠木正成を攻めていたわが軍にも「高氏が都に攻め込むぞ!」という話が届いたことで大混乱。関東に忠義を誓っていた連中まで「あ、もうこれはだめかも」と諦めムードになったというのです。幕府としては、私の弟の泰家を大将に援軍を送り、挽回しようとしていたんですがね。新田義貞の挙兵でそれができなかったのが残念でなりません。

篠村八幡宮 旗立楊
篠村八幡宮 旗立楊(京都府亀岡市)

足利高氏の願文

ちなみに『太平記』には足利高氏が篠村八幡宮で八幡大菩薩に奉じた願文が記されています。この内容がどこまで本当なのかわかりませんが、これに近い演説をして兵を鼓舞したのは確かでしょう。

しかしこの願文、八幡大菩薩に誓っておきながら、その内容はつっこみどころ満載です。ちょっと黙っていられないので、鎌倉の太守として一言、いや、いくつか申し上げますね。

「八幡大菩薩は源家中興の霊神でござる!」

夫れ、八幡大菩薩は、聖代前列の宗廟にして、源家中興の霊神なり。本地内証の月は、十万億土の天に高く懸り、垂迹外融の光は、七千余座の上に明らかに冠たれり。縁に触れては分化すと雖も、いまだ礼をもっての奠を享けざることなく、慈を垂れては生を利すると雖も、偏に宿世正直の頭(かしら)たるを期す。偉なる哉、その徳の為すや。挙世、誠を尽くす所以なり。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

「そもそも八幡大菩薩とは、正しい時代の歴代天皇をお祀りする宗廟にして、源氏再興の守護神であられます。その本質は仏の智慧の月のように無数の世界の天に高く輝き、その神の働きは七千余の神々の中でも最も明るく輝いておられます。さまざまな縁によって姿を変えながらも、礼を欠いた供え物を受けることはなく、慈悲をもって人々を救いながらも、特に過去世から正直であった者をお導きくださるのです。なんと偉大な徳でありましょう。そのために人々は誠を尽くすのです」

高氏は「八幡大菩薩は源家中興の霊神」なんてそれっぽいこと言ってますし、確かにそうなんでしょうが、でもこの時代、「源家」はすでに滅亡して存在しないと言うのが一般の認識です。今さら何を持ち出してくるんだという感じです。「足利殿は源氏嫡流!」なんて言ってる御家人は一人もいませんでしたよ。そもそも三代将軍実朝公亡き後、鎌倉を支えてきたのは私たち北条です。足利なんて、なんにもしていません。今さら何を言い出すのか、理解に苦しみます。

「平氏の末裔が権力を握り…悪逆未曽有!」

爰に、承久以来、棘に当たる祖を累ねし家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を執り、横に九代の猛威を振るい、剰え今、聖主を西海の浪に遷し、頂を南山の雲に困しむ。悪逆の甚だしきこと、前代未聞なり。これを朝敵の最たると為す。臣たるの道、命を致さざるべけんや。又、神敵の先たる。天の理、誅を下さざるべけんや。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

「承久の乱以来、我が先祖は苦難の中にありながらも幕府に仕え、辺境の地に住む平氏の末裔が天下の権力をほしいままにし、九代にわたりその猛威を振るってきました。さらには今、聖なる天皇を西の海へと流し、頭上を南山の雲に覆われるような苦境に追いやりました。このようなひどい反逆は、古今未曽有のことであり、まさに最大の朝敵です。臣下の道として、命を賭けてこれを討たずにいられましょうか。また、神の敵である以上、天の道理としてこれを罰せずにおかれましょうか」

いやいや、ちょっと待ってください。その「平氏の末裔」から代々正室を迎え、ズブズブの親戚づきあいでおいしい思いをしてきたのはどこのどなたですか。北条のおかげで足利は繁栄してきたんでしょうに。高氏も北条一門の赤橋から正室をもらっていますし、それを棚に上げて「北条が悪だ」とはよく言えたものです。足利がここまで栄えたのは「源氏嫡流」だからではなく「北条の縁戚」だからで、勝手すぎませんか。

それと先帝(後醍醐天皇)が隠岐に流されたのは息子を天皇にしたいという私欲のためです。新政なんて後付けの弁解です。事が思い通りにすすまないからと倒幕を言い出し、天下を引っかき回して、そこに天の道理がありますか。

かつて承久の乱で後鳥羽院が挙兵したとき、足利は我らと共に京都に攻め入っていますが、あの時と何が違うというのでしょうか。私たち幕府は光厳天皇の御代を支えるべく関東で頑張っていました。今の帝は正当な天皇で、天の道理は私たちにあったんですよ。

篠村八幡宮 足利高氏旗あげの地(京都府亀岡市)
篠村八幡宮 足利高氏旗あげの地(京都府亀岡市)

「忠義を尽くすのが臣の道!朝敵を討つ!」

高氏、苟しくも彼の積悪を見て、いまだ匪躬を顧みるに遑(いとま)あらず。将に魚肉菲(ひ)、偏に刀俎の利を当てんとして、義に卒(したが)い力を勠(あわ)せ、西南の日に旅を張り、上は将軍鳩嶺(きゅうれい)にあり、下は臣軍篠村に在り。共に瑞籬の影に在りて、同じく擁護の懐より出づ。函蓋(かんがい)相応し、誅戮に何ぞ疑わん。仰ぐ所は百王鎮護の神約なり。勇を石馬の汗に懸け、憑む所は累代帰依の家運なり。奇を金鼠の咀(かみ)につぐ。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

「高氏は、この積み重ねられた悪を見て、もはや自分のことなど顧みている余裕はありませんでした。生け贄の魚や肉のように、自ら進んで刃の下に臨む覚悟で、正義のもとに力を合わせ、ついに西国に向けて軍を起こしました。上は将軍(=後醍醐天皇)が鳩嶺にあり、下は私の軍が篠村にあります。ともに神の庇護のもとにあり、ともに正義の心から出発したのです。器と蓋がぴたりと合うように、我が義は神意と一致しています。討伐に何の疑いがありましょうか。私は、歴代天皇をお守りしてきた神との約束を仰ぎ、勇気を石馬(神社の馬像)の汗に託し、代々八幡神に帰依してきた我が家の運命に賭け、奇跡を神の加護に頼ります」

北条の「積悪」って何のことですか。仮にそんなものがあったとしても、あなたのご先祖はその片棒をしっかり担いできましたよね。忠義だのなんだの息巻いてますが、それもどうなんでしょう。高氏は鎌倉殿の命を受けて西国に下向したのですから、これはただの裏切りじゃないですか。しかも幕府が一番苦しいときに寝返った。武将としてお見事と言えばそうかもしれませんが、でも土壇場で背を向けられたこの痛み、あなたにわかりますか。

「神威を受け、我が義は勝利する!」

神、義戦に与して霊威を耀かし、徳風、草を加えて敵を千里の外に靡かしめ、神光、剣に代わりて勝を一戦の中に得さしめたまわんことを。丹精に誠あり、玄鑑、誤ること莫れ。敬って白す。元弘三年五月七日 源朝臣高氏 敬って白す。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

「神よ、正義の戦にお力添えくださり、その霊威を輝かせてください。徳の風は草をなびかせるように、千里の彼方まで敵を退け、神の光は剣に代わって、一戦で勝利をもたらしてください。私の誠は真実の心から出たものです。どうか神の深いご判断に誤りなきよう。謹んで申し上げます」

正義の戦ってどのお口が言ってるのでしょうね。勝てば官軍とは言いますが、少なくとも神が味方したんじゃなくて、足利が裏切ったから宮方は勝てただけでしょう。しかも高氏は後々先帝も裏切り、わが国皇統史最大の汚点となる南北朝の騒乱を引き起こしたんですよ。どこに正義があるのかさっぱり分かりません。八幡大菩薩も戸惑っていたと思いますよ。こんなの神威でもなんでもありません。

足利高氏、六波羅を攻略

結局、高氏の願文は神仏を楯に自分の裏切りを正当化しようとしてるだけにしか私には読めません。足利の繁栄は源氏の血筋の力ではなく北条の縁故のおかげです。それをいざとなったら裏切り、敵に回り、八幡様にまで言い訳するとは……そんなことで良いのでしょうか。

鎌倉からすればツッコミどころ満載な高氏の願文ですが、諸将は口々に誉めそやします。高氏は自ら筆を取り署名し、印判を押して、さらに鏑矢を一本添えて宝殿に納めたところ、弟の直義をはじめ、吉良・石塔・仁木・細川・今川・荒川・高・上杉といった諸将らが「我も我も」と次々に矢を一本ずつ奉納しました。そのため社殿の祭壇には矢が山のように積み上がり、まるで塚のような有様でした。

文章玉を綴て、詞明かに理濃なれば、神も定て納受し御坐す覧と、聞人皆信を凝し、士卒悉憑を懸奉けり。足利殿自筆を執て判を居給ひ、上差の鏑一筋副て、宝殿に被納ければ、舎弟直義朝臣を始として、吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉、以下相順ふ人々、我も々もと上矢一づゝ献りける間、其箭社壇に充満て、塚の如くに積挙たり。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

ちょっと待ってください。なに「文章が理にかなってるから神も納得です!」って自画自賛してるんですか。八幡様は作文コンクールの審査員じゃないんです。まずは日頃の行いってもんがあるでしょう。どいつもこいつもおべんちゃらばかりです。

それに、みんなで矢を奉納して「塚のように積み上がった!」とか喜んでいますが、合戦前の文化祭じゃないんですから。矢の数で神様が「おっ、これは感心感心」って思うとでも? そんな八幡様、聞いたことありません。

篠村八幡宮 矢塚(京都府亀岡市)
篠村八幡宮 矢塚(京都府亀岡市)

やがて夜が明けると前衛が出発し、後衛を待ちました。そして高氏が大江山の峠を越えた時、一羽の山鳩が飛んできて、白旗の上をひらひらと舞いました。足利軍はこの吉兆に大喜びします。

「これは八幡大菩薩が現れ、我らを守ってくださる証拠だ。この鳩の飛ぶ方向に従って進軍すべし」

その命により旗を持つ馬を急がせて鳩の後を追って進んだところ、鳩は静かに飛び旧大内裏跡の神祇官の前にある樗の木にとまったのです。この不思議な吉兆を見て足利方は士気を上げ内野へと突き進みます。

進軍する道すがら、敵の軍勢は5騎、10騎ずつ現れましたが、旗を巻き、兜を脱ぎ、次々と降伏してきました。高氏が篠村を出発した時にはわずか2万余騎だった兵が、右近馬場にさしかかる頃には5万騎を超えていたというから驚きです。

夜既に明ければ前陣進で後陣を待。大将大江山の峠を打越給ける時、山鳩一番飛来て白旗の上に翩翻す。「是八幡大菩薩の立翔て護らせ給ふ験也。此鳩の飛行んずるに任て可向。」と、被下知ければ、旗差馬を早めて、鳩の迹に付て行程に、此鳩閑に飛で、大内の旧迹、神祇官の前なる樗木にぞ留りける。官軍此奇瑞に勇で、内野を指て馳向ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲を脱で降参す。足利殿篠村を出給し時は、僅に二万余騎有しが、右近馬場を過給へば、其勢五万余騎に及べり。

『太平記』高氏被篭願書於篠村八幡宮事

出た!鳩!! 大事が起こる時には、吉兆にせよ、凶兆にせよ、鳩が現れると言うのは『吾妻鏡』以来のお約束です。「足利の白旗の上に鳩が飛んできた!」とか、これはもう完全に『吾妻鑑』のパクリです。お話になりません。

内野に向かう途中で敵が降伏してきた? 兵が2万から5万に増えた? 利に群がった烏合の衆じゃないか。足利の旗に集う連中は鳩に導かれたんじゃなくて、欲と策謀に導かれてるんです。これ、高氏が巻き起こした南北朝騒乱の浅ましい行動原則、じつはそこに忠義も矜持もありません。なんで、こうなったんだ? 足利の連中に聞いてください。

やっぱり足利は許せん!

そして5月8日、六波羅は足利高氏らに攻められて陥落します。そして運命の5月22日、鎌倉もまた新田義貞に攻められ、北条一族は滅亡します。悔しいから高氏の願文に野暮なツッコミを入れてみましたが、やっているうちにアホらしくなってきました。そういう理不尽も全てひっくるめて、従容として一族そろって潔く腹を切ったのが北条の美徳でした。つまらぬことをぐちぐちと書いてしまい、申し訳ありません。

なお、高氏が倒幕を決意した真意は今もってよく分かりません。『太平記』や『梅松論』には亡父・足利貞氏の法要を満足にできぬまま出兵させられたことにイラついたとしていますが、もちろんそんなわけはありません。これは私の見立てですが、世の中の空気が反北条に傾く中、北条とズブズブで甘い汁を啜ってきた足利は「このままだとヤバい」と感じ、名越高家の討死を機にこれ幸いと寝返ったというのが真相ではないでしょうか。

この後、高氏は後醍醐天皇も裏切り、南北朝の騒乱を引き起こします。自分の都合で担いだ北朝の天皇と皇太子をこれまた自分の都合で廃したり、弟の直義をぶっ殺したり、家宰の高師直をこれまた自分都合でぶっ殺したり。もちろん、高氏には高氏の言い分があるでしょうが、これが八幡大菩薩のご加護があった人物なのでしょうか。南無八幡大菩薩、いくら足利が源氏の血筋とはいえ、いったいどこをみておられたのでしょう。

閑話休題 北条にとっては足利も新田も同じ裏切り者に相違ありません。ただ、北条の恩義を仇で返し、私を「暗君」「暴君」にしたてあげて、自らの政権奪取を正当化した高氏と室町幕府はいかがなものかと思うのです。もちろん高氏も皇国史観、水戸史観で散々悪者にされましたが、でも同じことを足利は北条にしてきたわけですよ。

そんな足利に抗い、一矢報いようとしたのがわが息子、「逃げ若」こと北条時行なのですが……ぐちぐちと長くなりましたから、その話はまたあらためます。

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