本邦初の「無礼講」と正中の変。後醍醐天皇も出席した乱痴気パーティとその顛末
わたし北条高時、世間では「うつけもの」「暗愚」などと散々な評価を頂戴しておりますが、宴席での振る舞いについては人一倍、いや三倍くらい気をつかって生きてきました。
「今日は無礼講で!」 この一言ほど、信用ならぬ言葉はありません。本気で信じて調子に乗ると、翌日にはだいたい評価が下がる。これは鎌倉時代も令和も変わらぬ真理です。
さて、日本史上もっとも やらかした「無礼講」といえば、それはやはり、『太平記』に記された、あの伝説の「無礼講」です。
無礼講とは何か〜礼を免じる宴、理性まで脱ぐ宴
無礼講。この言葉、実に甘美で、そして実に危険です。意味は単純。「身分や立場を忘れて、遠慮なく振る舞ってよい宴席」。上司も部下も、主君も家臣も、今日はフラット。みんな仲良く、腹を割って語り合おうぜ、というアレです。
ですが、ここで一つ確認しておきたい。本当に「無礼」してよいとは、誰が決めたのか。無礼講とは、本来「礼を免除する」場であって「礼を破壊する」場ではありません。前者は「形式をゆるめる」だけ。後者は「調子に乗る」。この一線を越えた瞬間、宴席は地獄への滑り台と化します。はい、経験者は語ります。
鎌倉時代においても、無礼講は珍しいものではありませんでした。戦のあとの慰労、節目の儀礼、主従の結束を確かめるための酒宴。普段は直立不動の御家人たちが、杯を重ねながら本音を漏らす。それ自体は、むしろ健全なガス抜き装置だったのです。
ところが厄介なのは、「無礼講」という免罪符が、言っていいことと、考えてもよいことと、やっていいことの区別を溶かす点にあります。
酒が入る。空気が緩む。誰かが言う。「ここだけの話ですが……」。
はい、終わりの始まりです。無礼講は、上下関係を消す魔法ではありません。せいぜい、照明を暗くする程度の効果しかない。明かりを消しても、部屋の構造が変わらないのと同じで、立場も責任も、翌朝にはきっちり復活します。
にもかかわらず、人は無礼講の夜だけは、「今日は特別」「今なら言える」「本音を言わねば男が廃る」などと、謎の使命感に取り憑かれてしまうのです。
そして歴史は何度も教えてくれました。無礼講で出た本音は、だいたい後日、問題になる。この教訓を、身をもって体現することになるのが、『太平記』に描かれた、あの無礼講です。
日本初の「無礼講」〜日野資朝・俊基の奇妙な会合
本邦の史料上で、「無礼講」という名称そのものが確認できる初出は、鎌倉時代末期、日野資朝や日野俊基が開いた会合です。時の天皇はもちろん後醍醐天皇。たいへんに理想高く、たいへんに我慢がきかない御方でした。「朕の皇子を次の天皇にしたいのに鎌倉がうるさい」──はい、出ました。時代を超えて共感と胃痛を呼ぶフレーズです。
そこで後醍醐天皇は、密かに倒幕を企てます。とはいえ、天皇ご自身は兵を持たない。そこで白羽の矢が立ったのが日野俊基。諸国行脚を命じられ、「鎌倉に不満ある者」を説いて回る営業担当です。
その成果として、美濃の土岐頼兼(頼貞)、多治見国長らを味方に引き入れることに成功。そして彼らが集った場こそ、文学談に仮託した、あの奇妙な寄合「無礼講」でした。
『太平記』には、こう記されています。
是程の一大事を無左右知せん事、如何か有可らんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始められける。
要するに、「これほどの国家的大事を、腹の内も確かめずに進めてよいはずがない。だから本音を探るために無礼講を始めた」というわけです。はい、本音を探るための酒席。この時点でもう不穏です。
参加者は、花山院師賢、四条隆資、洞院実世、日野資朝・俊基兄弟らミカドの超側近に、伊達三位房遊雅、聖護院法眼玄基ら僧侶、そして足助次郎重成、土岐頼貞・頼員、多治見国長ら武士たちです。事は「承久の乱」以来の一大事。彼らが本気で同心しているのか、それとも口先だけか。それを見極めるために無礼講と称して酒を振る舞ったのでしょう。
そして描写は、さらにアクセルを踏みます。
其 交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七十八なる女の見目形優に、膚殊に清らかなるを二十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を儘し、旨酒の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には、只東夷を可亡企の外は他事なし。
烏帽子も法衣も脱ぎ捨て、若く美しい女性たちが薄着で酌をする。山海の珍味に美酒、歌い、舞い、どんちゃん騒ぎ。これはもう無礼講というより乱行パーティです。
そして、この乱痴気騒ぎの只中で交わされたのは、「ただ東夷(=鎌倉)を亡ぼすべし」という約束。高貴な方々に持ち上げられ、「帝の御為に、いまこそ源氏が…」などと言われれば、土岐も多治見も気分は最高潮。こうして、北野社祭礼の日に六波羅へ攻め入る計画が、無礼講の勢いそのままに決定されてしまったのです。
ええ。無礼講とは、空気が一番危険になる瞬間のこと。わたしは、そう理解しています。
無礼講、内部崩壊〜家庭内ポロリという致命傷
しかし、物事というのは、えてして思わぬところから露見するものです。今回の無礼講も例外ではありませんでした。
破滅の導火線に火をつけたのは、無礼講に参加していた土岐頼貞の弟・頼員。この頼員、兄や多治見国長らが語る大胆すぎる倒幕計画に、酒が醒めるにつれて現実が見えてきたのでしょう。
「いや、これ……さすがに無理では?」。そう思ったのか、ある夜、うっかり妻に密議の内容を漏らしてしまいます。はい、無礼講あるあるその一、家庭内ポロリです。
頼員、あまりに迂闊でした。というのも頼員の妻は六波羅探題の奉行・斉藤利行の娘なのです。話を聞いた瞬間、妻は即判断。「そんな大それたこと、うまくいくはずがない」と父へ通報。迷いなし。家族会議もありません。
報せを受けた六波羅探題の北条範貞は素早く動きました。名目は「悪党退治」。正中元年(1324)9月19日未明、兵を集めて多治見・土岐の宿所を一斉急襲したのです。
まず、錦小路高倉にいた多治見国長。これを襲ったのは小串範行。午前8時頃から実に4時間にわたる激闘が続きましたが、衆寡敵せず、多治見国長は自刃。無礼講の高揚感は、ここで血の現実に変わります。
一方、三条堀川にいた土岐頼貞を襲撃したのは山本時綱。両者の一騎打ちもあったといいますが、最後は頼貞が寝所へ逃げ込み、腹を切りました。
以上が『太平記』に記された顛末、世にいう正中の変のあらましです。
さて、この事件は『花園天皇記』にも記されているのですが、そこには、さらに背筋が寒くなる話が出てきます。元享4年(1324)11月11日条にはこうあります。
資朝・俊基等、結衆会合す。乱遊し、或いは衣冠を着けず、殆ど裸形にして、飲茶の会これ有り。此の衆、数輩有り、世に裕(ゆた)かなる無礼講の体制を破るの衆と云ふ。絡素(らくそ)及び数多なり。其の人数、一紙に載す。去比、六波羅を落ち、糊して一軒に隠る。或いは山臥の形に身を易へて、大和・河内に行きて、城郭に成るべき慮を今之にす。此の内、或いは高貴の人有りと云々。
「日野資朝・俊基らは、仲間を集めて密会を重ねていた。そこで行われていたのは、礼儀も節度もかなぐり捨てた乱痴気騒ぎで、衣冠もつけず、ほとんど裸同然の姿で酒宴にふける有様だった。こうした集団は一つではなく、いくつも存在し、世間では「無礼講なら許される」とされる枠すら踏み越える連中だと噂されていた。無法者・放埓者は実に多かった。その人数は名簿に書き出せるほど把握されており、最近では六波羅を逃れて家に閉じこもる者、あるいは山伏に変装して大和・河内へ赴き、城を築く場所を探っている者もいる。。その中には、身分の高い人物も含まれているという
花園院はこの乱行パーティにあきれかえっているのたですが、ここで見過ごせないのが「其の人数、一紙に載す」という記述です。これ、無礼講への参加者リストが作られ、六波羅探題の手に渡っていた可能性を示しています。その作成に関わったと疑われるのが伊達三位房遊雅(祐雅法師)。ということは、無礼講に間諜が入り込んでいたことになります。ええ、わたしの部下たち、仕事はできるのです。
もっとも、六波羅が掴んでいたのは、あくまで「不穏な空気」までであって、後醍醐天皇が討幕を企てている決定的証拠ではありません。怪しいことは山ほどあったんでしょうけど決定打がない。まあ、政治とは往々にしてそういうものです。
その一方で、『花園天皇記』にある「此の内、或いは高貴の人有り」という一文は重く響きます。この「高貴の人」とは、後醍醐天皇その人を指していると見るのが自然でしょう。少なくとも、「まったく無関係だった」と言い切れる話ではありません。
疑いは濃い。しかし、断罪できる証拠はない。この宙づりの状態こそが、最終的に正中の変が穏便に処理された理由だったのです。
正中の変の顛末〜露見、急襲、そして祟り
さて、その後の顛末もお話ししておきましょう。事が露見したあと、後醍醐天皇は万里小路宣房を鎌倉へ遣わし、ひたすら釈明に努めます。ところが、ここで一つ、奇妙な出来事が起こりました。
宣房が持参した後醍醐天皇の告文を、このわたし北条高時が読もうとしたとき、二階堂道蘊がこう諫言したのです。「天皇が武臣に直接告文をお下しになる前例はございません。不用意に御覧になると、神仏の祟りがあるやもしれませぬ。ここは文箱を開かず、そのままお返しになるのがよろしいかと……」
でも、わたしは気にも留めませんでした。「なんの、かまうことがあるものか。おい、利行、読め」。こうして斉藤利行が告文を読み上げた、その瞬間!
「……わが心に偽りのない事は天つ神が御存知……うわ、ぐえ!」 利行は突然めまいを起こし、鼻血を噴き出して倒れたのです。そして7日後、喉に悪性の腫物ができ血を吐いて死亡。はい、祟り案件、成立です。
この一件もあって、後醍醐天皇はお咎めなし。「朕は知らぬ。陰謀じゃ。下手人を探せ!」と逆ギレしたとも伝わります。実際、近年では、この正中の変そのものが、後醍醐天皇の皇位を引き摺り下ろしたい持明院統によるリーク、あるいは策謀だった可能性を指摘する研究もあります。このあたり、宮中の闇は実に深い。
無礼講という乱痴気パーティは行われたものの、討幕の決定的な証拠は出てきませんでした。多治見国長らは死亡していますし、幕府としても下手にこれ以上の調査をして持明院統の謀略疑惑なんて出てきたら、これはこれで面倒くさいです。
とはいえ、誰も罰しないわけには行きませんので、日野資朝は死一等を減じて佐渡流罪、俊基は蟄居謹慎という穏便な処置に収めたのです。
しかし……いま振り返れば、ここでもっと厳しく処断しておくべきでした。当今御謀反の芽は、ここで完全に摘んでおくべきだったのです。ええ。もう、後の祭りではありますがね。
無礼講が残したもの──うつけ者の総括
こうして振り返ってみますと、正中の変とは、「壮大な倒幕計画」というより、無礼講が引き起こした連鎖事故だったのではないかと思えてなりません。
始まりは「今日は無礼講で」。形式を外し、本音を引き出す場としては、決して間違いではなかった。しかしその無礼講は、礼を緩めるだけでなく、理性まで脱ぎ捨ててしまったのです。
酒が入り、身分が溶け、「ここだけの話」が「決行日」に変わる。無礼講はいつの間にか、ノリだけで覚悟を決める場になってしまいました。しかもこの無礼講、内側からは万能感、外からは丸見え。情報は漏れ、スパイは紛れ、家庭内ポロリで一気に崩壊。あまりにも杜撰です。
一方、六波羅探題は機敏でした。情報を掴んだら機を逃さず、「悪党退治」の名目で一気に叩く。その結果、多治見国長と土岐頼貞は命を落とし、倒幕計画は未遂に終わります。
そして、わたし北条高時。ここで厳しく締めていれば、その後の歴史は違ったかもしれない。ええ、「それを今さら言うのが一番うつけだ」という声も、甘んじて受けます。
しかし、ひとつだけ確かなことがあります。無礼講とは、空気が最も危うくなる瞬間だということです。本音が出る場であると同時に、判断力が最も鈍る場でもあるのです。
うつけ者と呼ばれたわたしが言うのも何ですが、宴席で「今日は無礼講ですから」と言われたときは、心の中でこう唱えてください。
「あ、これ、歴史的に一番危ないやつだ」。それだけで、あなたは正中の変を一つ、回避できるかもしれません。
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