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六波羅探題滅亡。赤松、足利の裏切り、北条時益の最期など、その攻防をレポートします

こんにちは、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時(のなりきり)です。今回は、六波羅探題の滅亡について書いてみたいと思います。思い出したくもない痛恨事なのですが、それを見つめ直すことも「なりきり」として大事かなと思い、今回は『太平記』の記述をもとに、つらつらと書いてみたいと思います。

北条時益と北条仲時

六波羅探題とは、鎌倉幕府が京都に設置した政治と治安の出先機関で、ざっくり言えば「都の番人」「朝廷の見張り役」です。名前からしてなんだか探偵ドラマっぽいですが、実際にはガチの武士組織。幕府が朝廷の動きを監視し、反幕勢力や西国の不穏分子を取り締まるという、地味ながらも重責を担う存在です。

きっかけは承久の乱(1221)でした。後鳥羽上皇が北条義時公を朝敵として追討令を出したのですが、鎌倉は一致団結して勝利を収めました。その結果、「こりゃ都に目を光らせる部署が必要だ」ということで設置されたのが六波羅探題です。白河南にあった旧平清盛邸跡地を拠点に、北条泰時公・北条時房殿の2人が六波羅の北と南に駐留し、以後「北方」「南方」の二人体制で北条氏のエリートが派遣されています。

六波羅探題北方は京都における幕府の政治的代表で、南方は警察・司法機関としての実働部隊といった感じで役割分担していました。最後の六波羅探題は南方が政村流北条時益、北方が普恩寺流北条仲時でした。2人は力を合わせて、笠置山の戦いに勝利し、後醍醐天皇の隠岐配流と光厳天皇即位に尽力してくれました。

赤松則村、足利高氏の裏切り

後醍醐天皇配流後も時益と仲時は不穏な畿内の治安維持に努めていましたが、元徳3年(1331)、護良親王が倒幕の旗を掲げました。これに呼応して楠木正成が兵を率いて芥川あたりまで出張ってきたので、六波羅は宇都宮公綱と赤松則村(円心)を差し向け、これを撃退します。まあ、ここまでは良かったんです。

正慶2年(1333)、楠木が摂津でまた動き出し、我らと正面衝突です。摂津国・渡辺あたりで一戦交えたのですが六波羅勢はゲリラ戦にしてやられます。宇都宮公綱の軍勢を追加派遣し、これをなんとか撃退したのですが、当方もかなりの損害を被ってしまいます。

痛かったのは赤松則村の裏切りでした。赤松が護良親王の令旨を得て播磨で兵を挙げると、六波羅はすぐさま佐々木時信らを討伐に差し向けます。しかし赤松は強かった! 摩耶城でのまさかの大敗北に耳を疑いました。そして後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長年に担がれて船上山に兵をあげると、事態は風雲急をつげていきます。

赤松則村は瀬川の戦いにも勝利し、京へ攻め込まんばかりの勢いをみせます。鎌倉から送り込んだ精鋭兵は金剛山の楠木正成攻めで釘付けで動けません。そこで幕府は5月に名越高家、足利高氏を上洛させ一気に決着をつけようとします。しかし、京に到着後、丹波に進軍していた足利高氏がなんと、敵に回ってしまったのです。ああ無情……これで情勢は一気にひっくり返ったのです。

六波羅攻略戦の開始

正慶2年(1333)5月7日早朝。 後醍醐天皇方は六波羅への総攻撃を始めます。

去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。

『太平記』六波羅攻事

正慶2年(1333)5月7日、京ではまだ夜が明けきらぬ早朝、敵は号令一下、総攻撃に取り掛かります。まさに地鳴りとともに始まる決戦が始まります。足利高氏が丹波口から、赤松円心は東寺から、さらに千種忠顕の軍まで押し寄せ、六波羅勢は百分の一にも満たぬ千騎に削られながら必死の防戦を試みます。しかし多勢に無勢、あっという間に七条河原まで追い詰められてしまうのです。

この窮地に糟谷宗秋は関東での再挙を提案します。宗秋は相模国糟谷荘を本拠とする一族で、戦国時代に「賤ヶ岳の七本槍」の1人に数えられた糟屋武則のご先祖です。

爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張・三河・遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん 。

『太平記』主上・々皇御沈落事

「こちらの軍勢は次第に落ち延びて、今では千騎にも満たないほどになっています。これでは大軍を防ぐことはもはや不可能です。東の一方(関東方面)は、まだ敵がいませんので、主上と院をお守りして関東へ下り、あらためて京都を攻め取られてはいかがでしょうか。佐々木判官時信は、瀬田の橋を守っておますので、彼をお供に召し連れれば、軍勢も不足することはないでしょう。時信がご一緒されるのであれば、近江で敵となる者はおりますまい。美濃・尾張・三河・遠江には敵方がいるとは聞いておりませんので、道中は無事に進めるはず。鎌倉にお着きになれば、逆臣たちを討つのは一気呵成、迷ういとまもないことでございます。まずはそのようにお決めください。このように無惨な平城に、帝と院を閉じ込めて、名将が敵の一兵卒に討たれて名を失われるようなことになれば、それは実に口惜しいことです」

宗秋の進言に時益も仲時も同意し、光厳天皇と後伏見上皇、花園上皇をお護りし、京を脱出することを決めます。いずれ関東の援軍も来るはずですし、金剛山を包囲する幕府軍と連携すれば再挙は可能と考えたのです。

京・六波羅探題
京・六波羅探題

北条時益が落命

かくしてわずか1000騎ばかりで洛外へ向かう六波羅軍でしたが、東山から山科へと抜ける途中、野伏の襲撃を受けます。このとき北条時益は流れ矢を受け、あえなく落命してしまうのです。なお『梅松論』は時益討死を四宮河原としています。

十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。
又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。

『太平記』主上・々皇御沈落事

六波羅軍は洛外へ向けて命がけの脱出行を始めましたが、その途中の苦集滅道(くずめち)という、名前からしてもう心が折れそうな道で事件が起きます。夜であたりは真っ暗、そこへ現れたのが野伏ども。これがまあ、まるでゴキブリのように次から次へと湧いてきて、あっちからもこっちからも矢を射ってきます。その一発が、なんと左近将監・時益の首筋にズバリ命中。馬からボトッと落ちてしまったのです。家臣の糟谷七郎は慌てて馬を下りて矢を引き抜きますが、時益はすでに絶命していました。

敵の正体も場所もわからず、応戦もできない。しかも忍びの脱出行、仲間に「やべぇ戻るぞ」なんて知らせるヒマもありません。そこで糟谷七郎は涙を流しながらご時益の首を錦の直垂の袖で包み、田んぼの中にそっと埋めて、自らも腹を掻っさばいて時益の亡骸に覆いかぶさるようにして果てたのです。この忠義、涙なくしては語れません。大河ドラマなら絶対泣けるシーンです。

光厳天皇、野伏の流矢を受ける

それにしてもおいたわしいのが光厳帝です。即位から1年半という急転直下の都落ち。安徳幼帝を抱いて西走した平家の故事をなぞるかの如く、六波羅の兵に封じられ東国に向かうのです。

都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。

『太平記』主上・々皇御沈落事

都をあとにして、まるで朝焼けの雲に包まれたかのように名残を惜しみつつ、主上のお心は万里の彼方、東国へと向いておりました。その旅路のなかで、かつて剣閣を越えて都へ帰った英雄のことや、寿水の乱れた時代などを思い合わせては、「いやはや、わしも波乱万丈のご時世に生まれたもんじゃ」と、深くお悩みになっていたのです。もちろん、主上も院も涙をこらえきれず、目には涙をうかべておられたとか。こんなことがあってもよいのでしょうか。

五月の短い夜はまだ明けきらず、関所の手前も暗いままでしたので、杉の木陰でお馬を止め、ちょっと一休みなさっていたときのこと。どこから飛んできたのか分からない流れ矢が、なんと!主上の左ひじにズブリ。まさに「まさかこんなところで当たるとは!」でございます。

それを見た陶山備中守が即座に馬から飛び降りて、矢を引き抜き、傷口に口を当てて血を吸います。けれども、流れる血は白いお肌を染め上げ、「ああ…これは目も当てられん」と周囲の者は息を呑みました。天下万民を統べるお方が、身元もわからぬ野伏の矢にやられてしまうとは。神にも竜にもたとえられるお方が、釣り人の網に引っかかったようなものでして…いやはや、とんでもない世になったものです。

六波羅探題の滅亡

結局、正慶2年(1333)年5月9日、六波羅の残兵は東国へ逃れる途中、近江国馬場で進退極まり、北条仲時以下一族432人が自刃し壮烈な最期を遂げます。光厳天皇は後伏見上皇、花園上皇とともに京に送還され、凱旋した後醍醐天皇から「偽帝」として天皇位を剝奪されてしまいます。なんということでしょう……

哀しいかな、この時代、「逆賊」の汚名も思いもよらぬ形で背負わされるという巡り合わせ。正義や忠義のあり様とは、時流によっていかに左右されるものなのでしょうか。

まこと、世は無常です。あれほどに都を睨み、西国を押さえ、鎌倉幕府の威光を支えてくれた六波羅探題も一片の煙と消えてしまいました。都に黒煙のたなびく情景を後日、私は鎌倉で聞きました、胸が裂ける思いでした。

とはいえ、思えばこの世は夢の如し。盛者必衰は理の定め。都を守るはずの者が都に討たれ、忠義を尽くした者が野に屍を晒す…これもまた仏の説かれし輪廻のうちでしょうか。怒りや悔しさを数えればきりがありませんが、滅びもまた一つの悟りの門なのでしょう。

そしてこの13日後の5月22日、源頼朝公が開き、北条が支え、異国の侵略も跳ね除けた武家の府・鎌倉もまた終わりを告げることになるのです。


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