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壮大な屋内

訳者コメント:
 私たちはみんな、庭の草を取り、要らない木を伐採し、家を掃除し、蚊取り線香をたき、ハエやゴキブリを叩き、カビを漂白します。自己の縄張りの内側に、許可してないものが存在してはならないのです。この文化に属しているという事実だけで、私たちはみんな管理マニア、コントロール狂なのです。コントロールされた空間の典型が屋内であり、この文明の向かう先は地球全体を「壮大な屋内」に改造することです。しかし逆説があって、コントロールすればするほど、抑え付けたはずのものに人間は弱くなってしまうのです。それはコロナ禍で露呈したことでもあり、除菌すればするほど免疫系は弱くなり、あらゆる病気にかかりやすくなるものです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.7 壮大な屋内

白人は家を建て、そこは彼の牢獄となる。…彼は大地から自分を切り離し、身動き一つしようともしない。だから、彼はいつも病気なのだ。 (トム・ブラウン・ジュニア)

学校の活動はほとんど常に屋内で、ウィリアム・トーリー・ハリスのいう「暗く、息苦しく、醜い場所」で行われるということが重要です。というのも、私たちは切り離された人間の領域を作りましたが、屋内はそれをおそらく最も具体的に表したものだからです。人間の本性ネイチャーを改変するという作業は、自然ネイチャーさえも取り除いた物理環境の中で行われるのです。

最も原始的な分断のモデルである細胞の恒常性ホメオスタシスに思いを馳せながら、私たちは建物によって別のレベルで自他の区別を作り出します。脂質膜の代わりにレンガとモルタルを使い、イオンポンプの代わりに掃除機とエアコンを使い、私たちはエントロピーを環境へと運び出すことで、熱力学的平衡からかけ離れた状態に建物を維持します。

これは単なる気まぐれな比喩ではありません。屋内はコントロールの典型であり、家畜化されていない生物(アリやネズミなど)が歓迎されない場所であり、自然の変化(腐敗や土の堆積など)が停止している場所であり、気候さえもコントロールされている場所です。建物は細胞のように、宇宙を屋内と屋外の二つに分け、その一方は調整され自己と結びついており、もう一方は野性的で他者と結びついています。個人としての人間にとって、この自己と他者の二分法は「家」と呼ばれる独特の建物において最も顕著に現れます。それゆえ、空き巣に入られると強烈な侵害感を覚えますし、アリやネズミの侵入を発見したときには、生きるか死ぬかの危機にも似た不安を感じる人さえいます。

多くの点で郊外住宅の庭は屋内の延長で、手入れの行き届いた芝生にいる生き物は、そこにいることを特に許可されたものだけであり、造園して整えた環境が公共施設や企業の屋内を延長したものであるのと同じです。これを突き詰めると、最終的には野生を完全に排除することになります。気温が調整され、遺伝子操作がされた世界、計画され指示されない生命が存在しない世界です。それは実質的に地球全体を「壮大な屋内」へと作り変えることであり、1950年代以降の未来派が夢想していたカプセルドーム都市に象徴されるビジョンです。

物理的空間の飼い慣らしは、屋外の公的生活から屋内の私的生活への転換と並んで進みます。共同体が崩壊し、公的な生活が蒸発するにつれて、私的な領域が拡大してきました。そのひとつの表れは、郊外住宅の平均面積が1949年以降で2倍以上に拡大していることです(その一方で、平均家族数は3分の1に減っているにもかかわらずです)[33]。私的でプライベートな領域とは、切り離された自己の領域であり、屋内の領域です。こうして、生活のますます多くの部分が私的なものとなるにつれて、かつては公共的で屋外にあった活動が個人の家へと移行してきました。その中には次のようなものがあります。演劇は、神話や伝説の完全な参加型上演から、小規模な上演や寄席演芸ボードビルに、そしてテレビや映画のような量産された文化の個人的な家庭内鑑賞へと変化してきました。音楽は、これまた誰でも参加できる活動から、規模を拡大しながら公的な演奏へ、そして私的なリスニング体験へと進化し、イヤホンでその極限に達しました。食事もかつては共同体の活動でした。そして極め付けは、遊びです。

この二世代で、郊外の生活は大きな変化を遂げました。典型的な郊外の存在理由は、何よりもまず人々が家族を育てるために移り住む場所でした。芝生や公園があり、子供連れの家族がたくさんいることが、郊外を子供たちの楽園たらしめていました。アメリカン・ドリームという文化的な価値観の中での子供時代は、『ちびっこギャング(The Little Rascals)』や『わんぱくデニス(Dennis the Menace)』、『ベレンスタイン ベアーズ』のような筋書きに沿って進みます。日がな一日、他の子供たちと外で遊び、隠れ家や砦を作り、縄跳びや「けんけん遊び」をし、カエルやカメを捕まえ、自転車であちこち走り回り、野球や鬼ごっこをし、他の女の子たちとお茶会をし、そり遊びや雪合戦をしたものです。子供たちが家にいることは滅多にありませんでした。いたのは近所の家や、遊び場や、空き地とか、池のそばとか。晩ご飯に戻ってくれば、どうでもよかったのです。つい最近まで、遊びは屋外で、公共の場で、無料で行われていました。

子供たちは今どこにいるのでしょう? 私がそう自問したのは、ある冬の土曜日、誰もいない郊外の通りを歩き、私が住んでいる街の寂れた遊び場を通り過ぎた時のことです。ようやく私は、ピンクのスノースーツに身を包んだ女の子が、腰まで雪に埋もれながら庭先に立っているのを見つけました。彼女はミトンを雪に差し込んで味をみていました。この界隈には400世帯があり、そのほとんどが子持ちですが、土曜日の午後に屋外で遊んでいるのはこの5歳の子供一人だけ。そして、彼女が雪の中たった一人でそこに長く留まるとも思えません。静寂を破るのは通り過ぎる車と、変な格好をした歩行者一人だけです。あの女の子の生活は室内にあるのです。

本章の大きなテーマは、子供たちが自由に自分の限界を探り、失敗の結果を体験することがいかに重要かということです。これは多くの場合、子供たちを屋外に出す、完全に管理コントロールされているわけではない環境の中に出してやるということです。「子供たちを自由にさせてあげればいいんだよ」とみんなに言いたいところですが、残念ながら問題はそう単純ではありません。私たちは現代社会に組み込まれているので、子供たちに課されている管理の多くは構造的なものであり、親が容易に変えることのできないものです。さらに、あらゆるレベルでの管理が、本章を通じて私が強調する逆説を生んでいて、それは世界を以前よりはるかに安全性の低い場所にしてしまったということです。別の言い方をするなら、私はあなた方すべての親が管理マニアだとは思いませんし、今すぐ子供を外に出して車の行き交う道路で遊ばせるよう勧めるつもりもありません。

でもちょっと待って、自分で言って矛盾していますが、あなた方、というより私たちほぼ全員が、この文化に属しているという事実だけで、管理マニア、コントロール狂なのだと思います。私はまた、子供たちが道路で遊ぶことは全く問題ないと思っています。でもそれは、管理された世界での道路のことではありません(これについては後で説明します)。親たちは「外」の危険を過大評価する傾向がありますが、危険なのは事実で、一世代前よりも危険になっています。世界を管理下に置くことで、私たちは世界をより危険なものにしてしまいましたが、これは、秩序ある管理された現代生活の典型である郊外と同じように、病気との闘いやテロとの闘いにも適用できる真理です。

管理のせいで郊外が子供たちにとって危険なものになったのには、二つの理由があります。第一に、生活をプライバシーのある屋内に移したことで、隣に住む人は知らない人になり、「誰かが見ていてくれる」という安心感がなくなりました。もちろん、現代の郊外生活が匿名化した原因は、地域コミュニティーの結束を揉み消してしまう全国的な移動のパターンや、テレビのせいで、誰々さんのおじいちゃんや通りの向こうの近所のおじさんといった地域の話が、遠くから放送される、地域コミュニティーとは無関係の人々や出来事についての話に置き換わってしまうことにもあります。昔なら私たちが話していたのは知り合いのことでしたが、今はテレビ番組の登場人物やプロスポーツチームのことを話しています。テレビはもともと私たちをより広い世界に開放する手段として宣伝されましたが、予想に反して私たちを周囲の人々から切り離すという逆効果をもたらしました。テレビは屋内の活動であり、もともと私的で孤立したものです。それに、外で遊んでいる子供たちは他にいないし、町は知らない人たちでいっぱいだというのに、他に何をすればいいのでしょう?

20世紀アメリカを代表するもうひとつのテクノロジーである自動車もまた、分断を悪化させ、生活を屋内に引き入れました。理屈の上では移動時間を短縮して人と人との距離を縮めるはずだった自動車が、逆の効果をもたらしたのは実に皮肉なことです。考えてみてほしいのは、自動車がなければ私たちが知っているような郊外住宅地は存在しなかったということです。自動車がなければ、どの家もさまざまな商店、郵便局、学校、駅から徒歩圏内にあることが必要です。自動車時代より前に建設された古い町や都市が、新しい大都市圏を構成して無秩序に広がる「都市なき郊外」よりもはるかに密集したものになっているのは、けっして偶然ではありません。

屋外から人を排除することによって、私たちは屋外を自動車に明け渡し、人々にとって、特に子供たちにとって近寄り難い、あるいは全く危険な空間を作り出し、ますます屋内へと追いやったのです。よくあるテクノロジーの悪循環です。屋外は道路となり、本当の意味での場所ではなく、目的地との間を移動する単なる距離だけになりました。この傾向を神格化した高速道路は、歩行者、つまり人の立ち入りを全面的に禁止しています。世界を管理下に置くことで、私たちは世界の大部分を立ち入り禁止にしましたが、これは第1章「テクノロジーの勝利」で述べた無限なるものの矮小化が予兆するとおりの展開です。

子供であれ大人であれ、屋内生活への移行があまりにも広範囲に及んでいるため、外に出るだけで不安を感じる人もいます。屋外は快適とは程遠く、安全でも安心でもないという認識です。それは手懐てなずけられていない、完全にコントロールされていない領域なのです。多くの場合このような認識は、わずかの暑さ寒さ、花粉、ヒトを刺す昆虫などに対する不耐性として身体的に現れます。これはテクノロジーがテクノロジーへの依存を生み出すもう一つの例です。自分の能力を試し活用することが少なければ少ないほど、その能力は枯れていきます。ここでもまた一種の生理的資本を、私たちはお金に換えているのでしょうか?(室内での生活のせいで花粉症が起きると言うわけではありませんが、そういった過敏症に悩まされるウサギやシカが多いとも思えません。)同じように、動物やテクノロジー以前の人類は、極端な気温に対して文明人よりもはるかに耐性がありました。

でも大丈夫。箱の中の生活なら、屋外に出る必要はほとんどありません。冬になると、駐車場から建物まで移動する2分を除けば全く屋外で過ごさないまま、文字通り何週間も暮らす人が何人か私の近所にいます。夏もますます同じようなことになってきていて、エアコンの効いた家と、エアコンの効いた車と、エアコンの効いた店やオフィスを行き来するだけの生活です。

発展途上国でしばらく過ごしてみれば、人々が屋外で過ごす時間がいかに多いか、それに伴って生活がいかに公共性に富んでいるかに驚くでしょう。世界の多くの地域がそうであるように、家が狭く、密集していて、防音性があまり高くない場合、また重要な生活活動が何かと外で起こる場合、私たちの自己も公的な度合いが強くなります。私たちはよりよく知られるようになり、私たちの物語は周囲の誰もが知るところとなります。このような状況の下で、ばらばらの自己という幻想は説得力を失います。私たちの失敗や成功が隔離された箱の中で起こるなら、私たちは宇宙の中で孤独な存在だと感じやすくなります。しかし、社会的にそれほど孤立していない場合、村中が私たちの口論や愛の営みを聞くことができ、子供が病気であることを知ることができ、赤ん坊の最初の一歩を見ることができる場合、私たちの言葉や感情、行動、存在状態がコミュニティーへとさざ波のように広がり、それが自分自身に跳ね返ってくるのが分かります。はっきりと見えてくるのは、私たちが物体でしかない宇宙の中にいる個別ばらばらの主体などではなく、私たちを取り巻く世界と密接に繋がっていることです。

したがって、高密度の住宅地を目指す都市設計の新しい潮流は、生態系やコミュニティ作りの利点をはるかに超えた意義を持っています。郊外にある孤立した箱に対応するのが安心と偽りの独立というとりでの中にいる孤立した自己であるように、公共空間を共有したコミュニティに対応するのが共有の自己で、そこでは我と我が物という私的領域が抑制されています。でも、プライベート空間として外に現れるものであれ、自我エゴとして内に現れるものであれ、そのような領域を廃止せよと主張しているわけではありません。今日、その領域は腫瘍のように拡大し、人生のほとんど全てをむしばんでいるというだけです。

プライバシー、切り離された自己、屋内という領域へ、私たちの生活の大部分を持ち込んでしまった結果、私たちの人生は豊かになるどころか、貧しいものになりました。安心、安全、独立の度合いは低下し、より多くのコントロールを求める傾向がますます強まっています。交通工学における最近の技術革新は、別の方法を垣間見せてくれます。「第二世代」の交通工学として知られるこの手法は、オランダのボンエルフ(Woonerf、生活の庭)という設計原理を参考にしたもので、道路と歩道の境界を曖昧にします[34]。それは多くの点で「工学」の対極にあります。通常の工学は、技術(Engineering)、執行(Enforcement)、教育(Education)の「3つのE」という交通管理の考え方で、車両と歩行者の交通を最適にコントロールしようとします。そうする代わりに、信号、一時停止標識、横断歩道、車線標示を全て廃止し、道路や交差点の真ん中に木やその他の物を差し挟むのです。これで、子供たちは再び通りで遊べるようになります。

都市デザイナーのハミルトン=ベイリーはこう言います。「初期のボンエルフで気付かされたのは、人と交通の間には双方向の相互作用があるということでした。悪循環というか、好循環でした。道路が混雑すればするほど、安全性が高まるのです。ですから、人々を路上から追い出てしまうと、安全性は低下します。」

これと対照的なのがイギリスやアメリカの取り組みで、1960年代以降の啓発活動では、幹線道路とそれ以外の公共空間の明確な分離を保つことを基本としていました。子供たちには行動を修正するよう訓練を施し、死にたくなかったら道路に出ないようにと教えました。「しかし、機能の分離を強調すればするほど、より危険な環境になってしまいます。なぜなら、そうすることでドライバーは自分に優先権があると思ってしまうからです。そして、それを一瞬忘れ、ボールを追って通りを横切る子供は、間違った場所にいる子供ということになります」と、ハミルトン=ベイリーは言います。

私たちが対処しているつもりになっている症状を、コントロールが作り出してしまう様を、なんと美しく説明していることでしょう。でもそれは、もう一つのことを示唆しています。コントロールを放棄することは、世界から身を引くことや不注意になることを意味しないのです。ボンエルフで作った道の混沌が良い効果をもたらすのは、私たちが積極的に関与し注意を払うよう誘導するからで、その逆ではありません。同じように、動物や原始的な人間は、現代の私たちよりもはるかに環境を意識し、観察していましたし、先住民の観察力はほとんど魔法のように思えるほどです。コントロールを捨てることは、人生を捨てることではありません。それは生命に身をゆだねることであり、生命により深く関与することであり、生命を取り込むことであり、生命を少しも損なわず充足させるよう心を開くことです。


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注:
[33] 統計はハビタット・フォー・ヒューマニティの『Creeping Affluence(忍び寄る豊かさ)』から, http://www.lawrencehabitat.org/About/Library/creepingaffluence.pdf
[34]この段落の詳細とそれに続く引用は、リンダ・ベイカー 『Why don’t we do it in the road?(なぜ道路でしないの?)』(2004年5月20日)からの引用, http://archive.salon.com/tech/feature/2004/05/20/traffic_design/index.html. しかし、第三世界の都市に住んだことのある人なら、すでにこのモデルが実際に機能しているのを目にしたはずだ。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-07/

2008 Charles Eisenstein


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