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契約に縛られた人生

訳者コメント:
 現代の社会では、たとえば部屋を借りる場合でも、「なあなあ」な口約束ではなく、何かあっても問題ないように賃貸契約書を取り交わすという考えになります。その安全は契約違反を賠償させるため訴訟を起こすことによって、外部の権威が力を行使することを頼りにしています。裏を返せば、当事者間の信頼関係は「無い」、あるいは信頼関係を信用していない、当事者間で問題解決する可能性を信頼していない、ということです。法律の世界に直感的に感じる「冷たさ」の根っこはここにあります。
 また、モノやサービスを売る場合でも、お客から訴えられる可能性に備えて「賠償責任保険」に入らなければなりません。私が産直市場に農産物を出荷するのでさえ、これが求められます。昔なら、たとえ商品に問題があったとしても、信頼関係によって交換などの対応がとられてきたのでしょうが、売り手も買い手もお互いを信用していない、つまり「他人同士」の関係でしかなくなってしまったのです。それが行き着いた先に、昨今話題になっている「カスハラ」があるのでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.8 契約に縛られた人生

イエスとノーの絶対権力、完全に飼い慣らされた領域への生活の移行、明確に許可されたものと明確に禁止されたものを優先し不確実で未定義のものを減らすこと、これらが別の形をとって、法律、規則、規制となります。ここでコントロールという企ては、蔓延する法律尊重主義として現れ、現代生活のあらゆる側面に浸透します。

生態系エコロジーの領域では、野生の縮小とは飼い慣らしであり、閉じ込めであり、「壮大な屋内」です。個人の領域では、子供の自発性と創造性の制圧です。社会の領域では、それまで非公式だった合意、道徳、慣習を成文化することです。法学者のポール・カンポスがこう言っています。「私たちの社会の法の領域を前近代国家のものと比較するなら、以前の形式的に規制されていなかった社会空間が、途方もなく加速度的に縮小していることに、誰でもすぐに気づくだろう。[35]」

どこまでが許される領域なのかを権威に定めてもらうということが集団レベルに投影されると、「労働や遊びにおけるあらゆる行為を規制し、法律化し、医療と警察の領分にしようとする衝動」となります[36]。学校教育のおかげで、私たちは何が許されるかを人から教えられることに慣れ、権威が善悪を決めることに慣れ、その区別が強制されることに慣れています。コントロールされた世界で暗黙の了解となっているのは、何か問題が起きたら、それは誰かのせいに違いないということです。誰かが法的責任を負わねばならないのです。誰かが罰せられねばならず、私は補償を受けるべきなのです。(学校など)権威主義的な施設にいる子供たちは、権威の源である教師に言いつけることで、争いを解決します。宗教においても同じ傾向が現れ、神は審判者であって、正義を報い、悪を罰し、最後には全てを公平にするという考えになります。法律においては、このような態度が原動力となって、規制される領域が急拡大し、「公式に規制されていない社会空間がますます縮小」し、紛争の解決を訴訟に頼ることが常態化しています。

法の支配が必要不可欠なものとなったのは、共同体の解体と共に他の形の社会的協調が崩壊したからです。昔なら、経済的・社会的なニーズを満たすのを隣人に頼っていたため、非公式な社会的圧力は今よりずっと強いものでした。地域社会の善意は非常に重要で、社会的敬遠がもたらす結果は深刻でした。現在のアメリカで本当の意味での地域社会コミュニティはほとんど存在せず、あるのは近所付き合いだけで、隣人の意見などほとんど無関係です。法律さえ守っていれば、隣人がどう思おうと誰が気にするでしょうか? 彼らが何を考えていようとも、私は安全です。私は彼らから物を買う必要はないし、彼らに子供たちを見守ってもらう必要もないし、彼らが作るものを使うこともないし、趣味で彼らに頼ることもありません。社会資本をお金に変えることが意味するのは、他の生活必需品と同じように、紛争解決も遠くの他人に頼るということです。近くの個人的なものが、遠くの組織的なものに取って代わられたのです。

私の息子が野球のボールで隣家の窓ガラスを割ったとしましょう。隣人は私に弁償を求めてきます。昔なら、もし私が拒否すれば近所中から反感を買っていたでしょう。もし私がいつもそのような振る舞いをしていたら、地域の食料品店ではツケで買い物をすることができず、地域の医者から緊急サービスを受けることができず、何かあったときに子守をしてもらうこともできないでしょう。人々は「ご近所づきあい」という持ちつ持たれつの関係や好意に依存していました。現在アメリカのほとんどの場所では、今でも機能している社会的圧力の仕組みはほとんどなく、隣人は私を訴えるしかありません。個人ではなく遠くにある権力によって、露骨な強制力を行使してもらうのです。

非人格性、つまり個人によらないことは、客観的・合理的で公平であるとされる法の概念そのものに組み込まれています。紛争の解決は、誰の知り合いかによってではなく、地域社会での評判によってでもなく、裁判官が誰を好きかによってでもなく、善悪の感情的判断や民衆の感情によってでもなく、むしろ公平な法的推論を適用することによってなされなければなりません。紛争全般は論理と原則に従って解決でき、また解決されるべきであるというのは、ニュートンとデカルトの世界観に由来する基本的な想定であり、公理数学に倣ったものです。形式主義の数学では、(憲法に相当する)基本公理とそれを元にした推論から出発し、古い公理で命題の証明や反証ができない場合(新しい形の紛争を解決する場合)には、必要に応じて新しい公理(法律)を追加します。〈理性の時代〉の頂点である20世紀初頭、ダフィット・ヒルベルトは数学の最終目標を宣言しました。それは、あらゆる数学的真理を推論できる一揃いの完全な公理です。ヒルベルトの計画は1930年代のゲーデルとチューリングの研究によって崩れ去りましたが、法の領域では、現代の紛争を合理的に解決できないような場合、さらに多くの法律を作れば対処できると考えているようです。その最終結果は、あらゆる行為の合法性が揺るぎない論理によって決定できる、ヒルベルト流の完全な原則の集合です。そうなれば、人間関係の曖昧さはなくなります。物理学者が何世紀にもわたり、完全な普遍的法則、すなわち「万物の理論」を求めてきたのと同じ確かさを、人間関係においても手に入れることになり、そこでは全てが明確に定義された法的地位を持つことになります。

あらゆる行為は合法か違法かのどちらかになります。すでに私たちはコントロールされた世界に骨の髄まで慣れ親しんでいるので、これが憂慮すべき発言だと思う人などほとんどいないのではないでしょうか。誰にも所有されず、ただ存在するだけの土地を思い浮かべるのが難しいように、合法か違法か以外の状態を考えるのは難しいかもしれません。「誰かが所有しなければならない。ただ『ある』だけではダメなんだ!」理解しやすいのは「明示的に禁止されていない限り全ては合法である」、あるいは「明示的に許可されていない限り全ては違法である」ということですが、単に法的地位を持たないものが存在するというのは理解できません。

どのような領域においても、コントロールの体制が求めるのは、管理されない変数を排除し、野生のものを飼い慣らすことです。法の領域で、野生とは規制されない社会空間であり、変数は不確実性を意味します。法律は、カンポスが言うように、「リスクそのものの最終的な排除 」を目標とする〈テクノロジーの計画〉を社会に具体化したものです。さらに彼は、「労働や遊びのあらゆる行為を規制し、医学と法律と警察の領分にしようとする衝動」を、「人間存在の意義に関して…広く信じられている信念の喪失に対処する必要性から生じた現代の副産物」だと解釈します。直感的に言えば、カンポスは本書の中心テーマに近づいています。それは、世界をコントロールしようとする強迫観念は疎外から生じたもので、その疎外が快適、安全、快楽の最大化以外の意味を人生から奪っているということです。コントロールしたいという衝動を生んでいるのが「信念の喪失に対処する」必要性よりも大きなものだということを別にすれば、コントロールとはむしろ、私たちの信念そのものがもたらす必然的で論理的な帰結なのです。

不確実性を排除する法律尊重主義の面白い例を挙げましょう。何年か前、ある大学の学生規則が改正され、性愛の前戯で新たな段階に進む前に、両者の明確な同意を得ることが義務づけられたという記事を読んだことがあります。たとえば、「キスしてもいいですか?」「はい。」「胸を撫でてもいいですか?」「はい。」 といった具合です。この規則が書かれたのは、性的同意が曖昧な状況を明確にするために違いありません。たとえば、「キスをしたからといって、体を触る許可を与えたことにはならない」というような場合です。その解決策は、同意を定義する規則をさらに増やすことです。この馬鹿げた状況はひとまず忘れて、十分に細かいルールがあれば全ての曖昧さを解消できるという基本的な前提を考えてみましょう。またしてもテクノロジーの計画です。「明示的な同意」の意味が問題となるケースも想定できます。情熱のため息だけで十分でしょうか? 愛撫し合うには事前の同意が必要でしょうか? 「はい」ではなく「うっふ〜ん」というのはどうでしょう? 溜息はどこまでで、どこからが「うっふ〜ん」なのでしょうか? この曖昧さを解消するために、もっと細かな区別を設けることができるのは間違いありませんが、曖昧さをなくそうとする試みそのものが、さらなる曖昧さを生むことになります。

数学との類似は不気味なほどです。ゲーデルがヒルベルトの計画を打ち壊すのに使った方法は、十分に複雑な一貫した任意の公理系が与えられた場合、その公理系に含まれる形式言語には、公理から証明不可能な正しい論理文が存在することの証明でした[37]。正しい論理文(あるいはその否定)を新しい公理として追加することもできますが、どれだけ追加しても、拡張された公理の一式からは証明できない正しい論理文がまだ存在することになります[38]。同じように、どんなに細かく法律で区別しても、法律から論理的に解決できない状況は常に存在します。新たな公理、新たな法則、より細かい区別を加えることはできても、論理的に解決不可能な状況が無くなることはありません。にもかかわらず、〈テクノロジーの計画〉という物の見方にどっぷり浸かっていると、有りうる全ての状況を最終的には法的な枠組みの中で網羅することを期待して、解決策は常に法律や規制を増やすことになります。全てが明示的に禁止されているか、明示的に許可されているかのどちらかであり、グレーゾーンはありません。その結果は、カンポスが言うように、「100ページの控訴審意見書、200ページに脚注が500ある法律評論、1千ページの法令、1万6千ページの行政規則」となります。それにもかかわらず、法の文言もんごんが正確さと範囲を拡大するにつれ、法の精神は衰え、人間の行動をコントロールする力は弱まっていくのです。

法律が生活の隅々にまで行き渡っていることは、ますます蔓延する契約に表れています。私たちはいつも、気づくことさえ無いまま契約を結んでいます。「この製品を購入することにより、あなたは…に同意したものとみなされます」と、細かい文字で書かれているのに気付いたことはありますか? ペンシルバニア州立大学では、学生は大学に入学すると、膨大な学生便覧の規定に従うことに法的に同意したことになり、私の授業に参加すると、シラバス(講義要綱)に同意したことになりますが、それは学生と大学との間の契約書のような地位を与えられたものです。

契約とは法的な合意であり、法律の目から見て「実在」するものです。表象言語が招く名前と対象との混同は、ここで頂点に達します。合意は文書化されることによって現実となりますが、そこに同意したことの証は署名に帰結します。合意において「肝心」なのは何でしょうか? 暗黙の了解でもなく、社会的な文脈でもなく、ただ「白と黒」、つまり紙に書かれた言葉だけが重要なのです。もちろん、法律や契約が一見客観的であるように見えるのは幻想で、それは言葉の解釈や実行が、依然としてこのようなもっと人間的な要因に左右されるからです。

法律尊重主義の拡大は共同体の解体から生まれるとともに、その解体を助長します。外部の権威を頼んで裁定を下し解決策を押し付けることで、私たちは自分たちの間で物事を解決する必要性から解放されます。「私から連絡を取ることはもうないからね。あとは弁護士から連絡があるだろう。」これは、私の友人が長年ともに働いた共同事業者から聞いた最後の言葉でした。別の言い方もあります。「何か言いたきゃ裁判官に言え。」

訴訟やそれをちらつかせた脅しによる社会統治のもう一つの結果は、第4章で述べたように、生活をますますお金に落とし込むことです。損害はドルで計算され、裏切り、過失、痛みと苦しみなど、あらゆる訴訟の対象をドルによって賠償します。一般的に言えば、人々が訴訟を起こすとき、彼らはお金を求めているのです。他に何を求めて訴えることができるでしょう? 反省ですか? 同情ですか? 不正を認めることですか? 不慮の死や手足を失ったことに対して金銭的な「補償」がなされる場合、その根底にあるメッセージは、お金が命や手足と同等だということです。

生活を安全にするテクノロジーの計画、生命の換金、そして法律の浸透は、賠償責任保険という領域へと収斂しゅうれんしていきます。保険インシュアランスという言葉そのものにはある思い込みが示唆されていて、それは人生を安全確実シュアなものにすることが可能で、不確かなものを確かなものにすることは可能だというものです。結局のところ、業界用語でいう「リスク管理」なのです。この思い込みがもたらす結果は実に広範囲に及んでいます。すごく高いブランコやジャングルジム、滑り台といった楽しい遊具が、なぜ無くなってしまったのか不思議に思ったことはないでしょうか? 賠償責任です。なぜ誰も公共の場でのスケートボードを許可しないのでしょうか? 賠償責任です。安全性の根拠を示そうにも筋道が立たないのが明らかな場合、賠償責任がその代わりとなります。

ここ20〜30年で、刑法と刑務所制度の主役は抑止でした。抑止の背後にある前提は、その言葉の定義に暗黙のうちにあるように、罰則がなければ人々は関連する犯罪を犯すだろうということです。私が生まれつき持っている邪悪と、あなたの生命、自由、財産の間に割って入るのが、法律です。興味深いことに、これはトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』からよく引用される一節で述べていることです。教訓に満ちたその段落全体を読んでみましょう。

それゆえ、万人が万人の敵であるような戦争状態の結果と同じことが、人が自らの体力と自らの発明がもたらす保障だけで生きている場合にも起きる。そのような状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航海も、海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具および多くの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく社会もなく、そしてもっと悪いことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は孤独で、不快で野蛮で短命なのだ。

ホッブズが言っていたのは、テクノロジー以前の状態ではなく、むしろ政府の無い状態における人間のあり方です。統治するものがいなければ、商業も、建物も、創造的な成果も生まれないと彼は主張しましたが、その訳は、誰か他人が労働の成果を横取りするのを何が止めてくれるだろうかということです。私たちは常に強盗を恐れて生活しているので、生産的なことは何もする気になりません。ホッブズが言っているのは、統治されていない状態のことです。

人間は生まれつき堕落しているというホッブズ・カルヴァン主義的な戒律に基づいているので、法律の基礎には強制があり、社会的に望ましくない行動を、その人の合理的な自己利益とは一致しないようにします。法律とは、「赤信号で止まることに同意する」というような社会的合意の成文化に留まりません。そこには、これらの合意を破った場合の罰則も明記されています。これは、生命や自由に対する脅しとなる刑法だけでなく、契約の「執行(enforcement)」を求めるという点で民法にも当てはまります。その言葉について考えてみてください。法律とは、詰まるところ力(force)の行使なのです。

しかし、ニュートンの原理にこれほど深く傾倒した文明において、他に何を期待できるというのでしょうか? 結局は力こそが、ニュートン的宇宙では質量に影響を与える唯一の方法であり、究極的には人の行動を変える唯一の方法なのです。

必然的に、ホッブズ的な前提と強制のメカニズムに基づく法律は、強制がむしろ必要だという前提を置くことによって市民を軽んじているのです。簡単な例を考えてみましょう。「ポイ捨て禁止、罰金300ドル」と書かれた看板と、「アメリカを美しく保ちましょう、ポイ捨てしないでください」と書かれた看板があります。一番目の看板は、罰金さえなければポイ捨てしたいと思っていることを暗示しているようなものです。ポイ捨てをしない理由として罰金が出てくるのです。二番目の看板は、読者はアメリカを美しく保ちたいと確かに思っている、という前提に基づく注意喚起です。あるいは、握手によって結ばれる合意について考えてみましょう。それを破った場合に金銭的な罰則を科すこと、特に外部の権威が罰則を科すことを主張するのは、お互いの信頼に対する否定ではないでしょうか?

書店で本書を手に取ったあなたが万引きしなかったのは、本当に抑止が働いたからですか? あなたの本性は欲望のままに物を手に入れることですか? それとも、そのような行動は個別ばらばらの孤立した自己が人為的に作ったものであり、経済・社会的な制度によって押し付けられた生存不安に対する痛々しい反応なのでしょうか? それが本当の私たちですか? 電気椅子で脅されないと、あなたは本当に人殺しですか? そうでないなら、法律は侮辱的です。

抑止に基づく、あるいは強制に基づく法制度が暗黙のうちに含んでいる侮辱は、私たちの文化が人間の精神を縛り、生まれ持った善良さ、神々こうごうしさ、創造性を否定する他の手段と全く何も違いません。間違いなく、抑止の本質的な前提は、子供っぽい言葉を使えば、「お前がそうするようにしてやる」ということです。どうすれば誰かが何かをするように「してやる」ことができるでしょうか? その者たちを支配する力を持つことです。そして、誰かを支配する究極の力とは、その人の命を脅かす力です。警官の銃が暗示する命の脅しは、そう言って脅す親の叱責とほとんど変わりません。刑務所による身体の拘束は、子に勝る親の体力とほとんど変わりません。私が警官に撃たれることを本当に恐れているわけではないという事実は、ここでは関係ありません。その恐怖はとっくの昔に内面化され、礼儀正しさ、慎重さ、何が現実的かという概念に組み込まれているのです。ほとんどの人にとって、銃はそれを思い出させてくれる小道具であり、あらゆるところに存在する命の脅威の象徴にすぎません。それが思い起こさせるのは、私たちが従うように「してやる」という恐怖です。

強制を行わない線で法律を改革することは、自己と世界という観念から生じる他の社会構造を全て改革することなしには不可能でしょう。ホッブズとカルヴァンのいう、人間の本質は利己主義だという仮定は法制度の根底にあって、抑止はその論理的な必然ですが、それが本当に正しいといえるのは、現在の私たちが持つ自己という観念が前提となっているからです。しかし、自己に対する現在の誤った認識が崩れ去るにつれて、経済、テクノロジー、教育の新しい制度とともに、新たな法制度が生まれるでしょう。その先駆けとなるものは、すでに世界中のさまざまな地域で試みられています。専門的労働に頼らず誰もがお互いを知っているような村落や部族社会への回帰を求めているわけではありませんが、このような社会形態から着想を得たものです。そのような法体系は、共同体を骨抜きにするのではなく、むしろ共同体を育み、曖昧さと対立がもつ発展の働きを尊重し、そして最も重要なことは、全ての人間の堕落ではなく善良さを前提とするのです。


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注:
[35] ポール・カンポス [Campos, Paul F.,] Jurismania: The Madness of American Law(『法マニア:アメリカ法制度の狂気』). Oxford University Press, 1999年. p. 5
[36] カンポス [Campos,] p. 29-30.
[37] 私はここで、形式的な系(または理論)とその系の解釈(またはモデル)の区別を無視することによって、定理の記述を簡略化した。正しく表現すれば、その系の解釈において真である証明不可能な論理文が存在するということである。数学的理論とモデルの区別に内在する難しさは、法律にも関係し、法律文書に特徴的な際限のない精緻化と反復の一端を担っている。
[38] 矛盾が埋め込まれているような一貫性のない公理系は例外であり、そこから何かを証明することは可能である。これは実際には、矛盾した社会的価値観から生じる多くの矛盾した原則を体現している法律の状態に近い。その一例は、言論の自由とヘイトスピーチ規制の対比である。これらの原則の両方が法律に書かれていれば、同じ行為が一方に従えば法的に正当化され、他方に従えば正当化されないことになる。そしてこの矛盾は区別をどんなに細かくしても残るようだ。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-08/

2008 Charles Eisenstein


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