ガイアの出産(後)
訳者コメント:
思春期にモヤモヤした心を抱えて生きているのは、思春期を脱して(本当の意味で)成人になることを渇望しているからなのですが、現代社会は人間の成熟を許さず妨げ、母から必要なものを取ってひたすら食べ続ける子供のような自己像を持ち続けるように仕向けるのです。この殻を破って個人が成熟する成人の儀式と、人類が集団としてガイアとパートナー関係を結ぶ「個性」を確立するための通過儀礼が、折り重なるように起きているのが現代という時代なのです。人類の成人の儀式が始まることを高らかに宣言する、すがすがしい文章です。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
(前半から続く)
人間社会は生物有機体のような構造をもつとする有機体説のモデルがしばしば正当化してきたのがファシズムで、それは個人の権利やニーズや福祉よりも集団の身体を上位に置くことです。しかしそのファシズム的な解釈は、それ自体が生物と社会の両方に関するもっと深い機械論的な思い込みの産物なのです。なぜなら、身体の専門化された細胞は、階層化された工場システムの専門化された労働者とは実際ほとんど似ていないからです。第6章で触れたように、遺伝学と神経学の最近の進歩は、生物の形態が上意下達でコントロールされているというモデルを永久に否定してしまいました。個々の細胞の発達と機能を規定する中央権力は存在しません。もちろん、各細胞は環境からの信号に反応しますが、環境の知性は創発的な性質であって、唯一の司令本部に集約されているわけではなく、遺伝子の集合体にプログラムされているわけでもありません。さらに、各種の細胞はホルモンや電界などコミュニケーション媒体の海に独特の方法で反応し、同種の細胞であっても、個々の細胞はその位置や他の未知の要因によって独自の反応を示します。確かに、自分のために資源を蓄えようとする細胞は一つもなく、食料を貯蔵することのない狩猟採集民のように、生命を維持する糖分と酸素が継続的に供給されるのを信頼しています。また、がん細胞でない限り、細胞が他の細胞を犠牲にして「自己利益」を最大化することもありません。だからこそ私たち人間はエージェント・スミスが言うように「この惑星の癌」に例えられるのです。しかし、無限の成長という命令は、我と我が物を最大化しようとする活動や世界をコントロールしようとする企てのように、個別ばらばらの自己という幻想の上に成り立っています。この幻想が崩壊し、科学的基盤が解体して現実の結果が私たちを滅ぼすと、そこに生まれるのは新たな社会の可能性で、それは健康な多細胞生物のようにうまく調整され、個人は狩猟採集民の生活のように創造的で充実し目的を持っています。
このように人類の集団的な超越は、私たちが自分だと思っていたものを個人的に超越することの上に成り立ちます。そして、美しく必然的な共時性の中で、両者をもたらすのは同じ折り重なる危機なのです。私が言う個人の超越とは、人生の大きな悲劇や転機をきっかけに、人生が崩壊するときにしばしば起こる魂の目覚めのことです。それは普通、先に述べた出産前後のマトリックスという誕生のモデルに従います。突発的な人生の出来事は、長い妊娠のプロセスを早めるに過ぎません。
超越の可能性は私たち全員の中に眠っていますが、今の社会で開花することはほとんどありません。実際、それは教育と宗教と、そして現代の成人を定義する「生存のための闘い」という体制によって、ほぼ意図的に阻害されています。発達段階におけるこの阻害は、人類全体のそれと驚くほどよく似ています。ジョセフ・チルトン・ピアースは、著書『知性の進化: 脳と心の潜在能力』と『超越の生物学(The Biology of Transcendence)』の中で、人間の発達の自然な過程について述べています。成長期の子どもは、具体的操作期、形式的操作期など、いくつかの発達段階を経ていきますが、それぞれが脳の発達段階に対応しています。思春期初期まで、爬虫類型前脳、大脳辺縁系、大脳皮質など、子どもの脳はそれぞれ順番に発達し、十代前半には理性的で分析的な思考が発達し、これを私たちは認知の最高の形とみなします。
しかしピアースは、十代半ばから後半にかけて、前頭前皮質と心臓の神経学的側面に関連した脳組織化の別の段階があるはずだという説得力のある主張をしていますが、従来の科学では前頭前皮質の機能はほとんど謎であり、心臓の神経学的側面は全く無視されています。彼はこのような発達を、直感的でホリスティック(全体的)でトランスパーソナルな(個人の領域を超えた)認知機能と結びつけますが、私たちの社会はそれを過小評価し、完全な間違いだと断定します。実際、それは自己と世界に関する基本的な信条と矛盾しているのですから、どうすればその正当性を立証できるのでしょうか? 多くの学習と同じように、青年期の若者はモデルを通してこのような機能を適切に発達させますが、そのモデルは実際ほとんどありません。そのような能力は存在しないと周囲のイデオロギーが言い、そのモデルもないのに、どうして発達させることができるでしょうか?
簡単に言えば、人間は15歳くらいになると、共感的でホリスティックで、トランスパーソナルな認知様式を身につけるようになり、この能力は個別ばらばらの自己という教条と対立するものです。原始社会はこうした能力を認め、その発達を促し、十代以前の限定的・理性的な自我を超越するためのモデルと方法を提供していました。これが成人の儀式の多くにあった核心で、そのときティーンエイジャーの自我の境界は、向精神薬、食物や水や睡眠の剥奪、部族からの隔離、苦痛などの強烈な儀式体験という手段によって、一時的に打ち砕かれました。その後、部族に戻った若い男女は(もはや子供ではなく)、全く異なる自己概念を持つことになります。このような儀式の多くが、出産過程の儀式的再現を偶然ではなく取り入れているのです。
理性的・分析的・客観的な世界観は、他の全ての自己や環境から切り離されたデカルト的な自己に内在するものですが、これは人間の成長にとって必要かつ適切な段階です。しかしこの段階は、現代人がもう経験することのなくなった、さらに上の段階への舞台となるものです。したがって私たちは永久に思春期から抜け出ることができず、決して起こることのない重大な出来事を生涯待ち続けることになるのです。ジョセフ・チルトン・ピアースが雄弁に語っています。
この年齢で起こるはずの「それ」が何なのか謎のままなのは、トーマス・ウルフが「喉でブドウが破裂する」といったような引っかかりは残るかもしれないが、それが決して起こらないからだ。ジョージ・レナードは苦悩に満ちた憧れを語っているが、それが決して癒されるものではないことを彼は知っていた。ある大学生は、起こるはずのない重大な出来事を14歳のときから待ち望んでいたという。(この問題が性的なものなら、未知の問題ではないだろう。)ある学生が両親への手紙に書いたのは、大学3年生はとても楽しい日々だったが、ある夜「恐怖の冷たい手が心臓を握りしめている」状態で目覚めたことだった。14歳頃から、何かとてつもないことが起こるはずだと感じていたのだという。いま彼は21歳になろうとしているが、7年間待ち続けてもそれは起こらなかった。想像するに、彼は深夜に目を覚まし、それが決して起こらないのがわかると、こう自問した。「それが何だったはずなのかを私は知ることさえないのか?」彼はその可能性に絶望した。[7]
兄のジョンにこれを読んで聞かせると、彼はこう答えました。「そうだな、そしてある日おまえはこう思うんだ。おい俺はもう28だぞ。もうとっくに起こったはずだろう、って。」そうして私たちは、内なる空虚さと、もっとすごいものがあるはずだと心の底で知っていることからくる不満を抱えながら生きているのです。
超越の前の思春期の特徴が、個別の主体という私たちの自己認識に基づく〈ニュートン的な世界マシーン〉の世界観と正確に一致しているのも偶然ではありません。私たちの発達が分析的自我の段階で止まったままになっていることは、私たちが知る社会を継続させ、〈管理下の世界〉を永続させるために必要なことなのです。しかしここに待っている嬉しい結末は、この所有と疎外とコントロールという世界の終焉と同時に、私たちの超越を阻んでいる全ての社会的、イデオロギー的条件も終わりを迎えることです。〈再合一〉のテクノロジーが勢いを増すにつれ、それはすでに実現しつつあります。たとえあなたがもう思春期でなくても、遅すぎるということはありません。超越のモデルは今ますます増えていて、私たちの能力は深く埋もれて休眠状態にありますが、決して死んではいません。必要なのは成人の儀式に相当するものだけであり、それは思春期以前の個別ばらばらの自己という世界が崩壊することです。そのような儀式を実行する賢明な年長者がいなければ、代わりに世界がやってくれます。なぜなら、その思春期以前の自我の世界は持続不可能だからです。同じ原理に基づく現代社会のように、自我は必然的に折り重なる危機を生み出し、やがてその欺瞞が明らかになります。
同じ原動力が、人類という種の集団的発達にも働きます。私たちは超越の崖っぷちに立ち、理性的な自我の世界を極限まで発達させています。私たちは独立した存在として、あるいは集団的な場合は、〈自然〉から切り離された「人間」という存在として、個体化を完成させる段階を終えたのです。分断がもたらした膨大な苦しみを嘆くかもしれませんが、別の見方をすれば私たちは成長しているのです。この個体化のプロセスは、私たちが集団として、種として、本当は何者なのかを発見するために必要なのです。
幼少期から青年期にかけて、私たちの仕事は個性を確立し成長することですが、私たちは母から必要なだけ、母が与えてくれる限りのものを、感謝の気持ちをもって、しかし自然で単純な利己心をもって受け取ります。人類という種として、これは私たちが〈母なる地球〉に対してしたことです。私たちは、子供が母親に食べ物を求めるのと同じ権利意識をもって、〈母なる地球〉の宝を自分のものとして扱ってきました。そうすることで、私たちは種として、もはや〈母なる地球〉と、その場所、植物、動物に由来しない、独立した自己定義、アイデンティティを発達させてきましたが、ある意味、私たちは乳離れしたのです[8]。
正常な発達では、青年は真の大人になり、もはや母親から自分勝手に奪うことはありません。確かに、成人の儀式がないこの社会では、青年期が何年も何十年も、成人期を迎えるはずの年齢まで、しばしば延長されます。(実家に帰ったとき、あなたはどのように振る舞うでしょうか?)これは異常な状態です。十代後半から20代前半までに、私たちは生みの親から自立し、そして親を支えたいと願い、子供時代に特有の権利意識を捨てるべきだったのです。
今こそ、私たちが成長するために崩壊寸前まで追い込まれた〈母〉を、大事にし、守り始める時です。本来の母親というものは、今の地球がそうであるように、自分の能力を超えても与え続けるのです。
では、人類にとっての成人の儀式とは何なのでしょうか? 私たちを大人へと導くものは何なのでしょうか? 成人の儀式は文化によって様々ですが、そこに幼少期の自意識を超越するという共通の目的がありました。幼少期の個体化された自我は、切り離され、客観的で、合理的で、自己権力を最大化し、食べて成長する、つまり現代経済学の戒律そのものです。このような下位チャクラや大脳辺縁系、大脳皮質の機能は捨て去るのではなく、より大きなつながりのある全体の中で職務を果たせる、より高次の存在へと、親族、部族、村、森へと統合されるのです。そのためには、子どもの自己定義が一時的に打ち砕かれるか、手放されることが必要です。そのため思春期の若者は、それまでの経験では例のない、古い自己概念や世界概念がもはや通用しない状況に置かれるのです。
そして今、人類の成人の儀式が始まりました。実際、それは何千年にもわたって、〈人類の上昇〉と、私たちの分断と、私たちのコントロールの企てに伴ってきた、暴力と苦難の長大な歴史の流れの中で築かれてきたのです。それは空間的にも時間的にも局限できるものではなく、個々の民、個々の国、個々の人に特有な方法で訪れるのです。しかし現代に築かれつつある臨界点において、数年あるいは数十年という時の間に、多くの人々が一斉に世界の崩壊を経験するのです。そのとき、各個人が生まれながらに内包しているスピリチュアルな超越性は、例外ではなく、再び当たり前のものとなるのです。そのとき、〈再合一の時代〉が始まるのです。そのとき、私たちは互いを見つめ、そして動物や木々や地球を見つめますが、そこに見るものは競争相手や資源や〈他者〉ではなく、大きく拡がった自己の姿なのです。私たちが体験する世界は、完全に神聖で、創造性を孕み、目的を内包し、魂を持って生きているのです。人生を愛し、世界を愛し、謙虚な心で美の共創に加わるのです。それは私たちがすでにしていることです。でもそれは間もなく意識と自覚を伴うものになるでしょう。人類の個体化が完了し、私たちは自然と一体化し、成熟した協力関係を築くことになるのです。
注:
[7] ジョセフ・チルトン・ピアース[Pearce, Joseph Chilton], 『Evolution’s End(進化の終焉)』, HarperCollings, 1992年. p. 190、邦訳『知性の進化: 脳と心の潜在能力』大修館書店 1995年。
[8] もちろん、私たちはまだ〈母なる地球〉から完全に物質的に独立しているわけではないし、おそらく今後もそうなることはなく、そこに近付いてさえいない。ガイアの地球物理学的・有機的プロセスに対する私たちの依存度は多くの人が想像しているよりもはるかに高い。例えば、人間の生命を維持できる人工大気を製造できるようになるには遥か遠い道のりだし、合成食品もまだ実用可能な代替品ではない。テクノロジーによってもたらされた自然からの独立の多くは、特に食料供給に関しては幻想にすぎない。しかし、部族の若者が部族から独立して生きることを期待されていないように、このような自立は大人になるための必須条件ではない。重要な違いは態度の変化であり、「私のものだから勝手に使う」から「私たちのものだから尊重する」へと変化するのだ。
おそらくいつの日か、私たちは〈母なる地球〉から独立することになるだろう。宇宙を彷徨う生物圏や、コンピューターにアップロードされた意識といったSF的なシナリオや、あるいは、純粋な精神の領域で生きるために、物質的な肉体的欲求や肉体そのものさえも捨て去る、スピリチュアル化というニューエイジ的なビジョンである。しかし、たとえそのようなシナリオが実現するとしても、それは私たちが破滅させた地球からの脱出ではなく、癒しと活力に満ちた地球が次の発達段階に進むための実りとして起こるのではないだろうか。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-8-04/

