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客観性の終焉(後)

訳者コメント:
 科学が追い求めてきた客観的な真実、つまり誰が見ても正しい真実とは、当の現象とは関係ない、当事者ではない観測者を必要とします。しかし量子の世界を「観測」すると、観測という行為そのものが現象に影響を与えてしまうので、当事者でないことが有り得ないのです。さらに、観測するまで量子の状態は確定しておらず確率的にぼんやりと分布しており、観測するとルーレットの数字が確定するように1つの現実が確定(収縮)するのです。
 このことが持つ比喩的な意味は、現実が見る人によって異なるかもしれないこと、また現実を解釈することで現実を創り出している、という見方です。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

決定論の破綻はたんと同じように、客観性の崩壊が開く扉は、一連の深く異なる直観とメタファーへと通じます。広大で無関心な宇宙の中に孤立した主体として自分自身を見ることによって、私たちはいとも簡単に無力感、疎外感、絶望感に陥ってしまいます。でも、もうそんな必要はありません。量子のランダム性が人間のする選択と比喩的に対応しているように、量子の計測は私たちが体験を解釈することと似ています。量子の計測と同じように、このような解釈は創造的な意味を持っています。世界と対話し物差しで測ることで、私たちは可能性で満ちた空間をただ一つの現実へと収縮させます。私たちは自分自身から切り離された現実をただ解釈しているのではなく、解釈という行為を通じて実際にその現実を引き起こしているのです。

私たちの文明の根幹をなす個別ばらばらの自己という神話が、もし本当に神話ならば、これは予想通りのことです。もしその分断が幻想ならば、もちろん私たちの解釈や思考、信念、態度といった内なる世界は、外の世界に影響を与えるでしょうし、そもそも実際には外の世界などという区別が存在しないのです。いま私たちは原始的な精霊信仰者アニミストの呪術的な考え方に極めて近いところまで到達していて、言葉や儀式が現実を創り出すという彼らの信念が新たな意味を帯びてきました。量子力学がもつ比喩的な意味が私たちを駆り立てる先には、長らく隔てられていた内的世界と外的世界の再合一があるのでしょうか? 再び統合された世界が人類にとってどのようなものになるのか、5万年前のようにというのではなく、長い間蓄積されてきたテクノロジーと文化という流れの中で、想像してみましょう。

そのような推測を抜きにしても、決定論と客観性の破綻がもたらす結果は、これまで私たちの文化にとってあまりに巨大で消化することができず、正統派とは真っ向から対立するものでした。量子測定の「逆説」パラドックスは、量子世界の観測者依存性と、私たち個別ばらばらの自己が住む日常体験の世界にある客観性とを結びつけようとした結果、必然的に生じたものです。量子力学は個別ばらばらの自己が間違いであることを示します。量子力学が私たちの自己像に突き付けた挑戦はこれほど重大なので、80年にもわたって科学者や哲学者たちは発作的に解釈を繰り返し、非客観的で非合理的な量子の事象と、私たちが経験すると思っている古典的な現実という二つの領域を、何とか仲直りさせようとしてきました。

またもや、このような試みはいずれも成功していません。実際的なレベルでは、不確定性と観測者依存性の巨視的マクロ世界への拡張を否定するものがほとんどで、基本的に量子力学の不確実性はいつも相殺される傾向にあるから、日常体験のスケールでは古典力学で近似されるのだと主張します。したがって、穴を通して投げられたビー玉が古典的な経路とは違う方向へと回折する一定の可能性はありますが、この可能性はゼロに近いので無視できるのです。古典力学が例えば機械や橋の設計になぜ適しているのかという現実的な問いには答えられますが、現実の根本的な性質とは何かという存在論的な問題には対処できません。さらに、量子力学の創始者たち、特にシュレーディンガーが気づいていたように、存在論的な問題が消え失せることはなく、量子の現象が古典的な観測にまで拡大されるとき(これこそ本質的に量子測定が行うことなのですが)、特に差し迫った問題となるのです。

ロジャー・ペンローズやジョンジョー・マクファデンのような一部の型破りな思想家は、量子効果は物理学の実験室で作られた条件下だけでなく、生命システムにおいて日常的に巨視的な現実へ投影されていると主張しています。もっと急進的な思想家の中には、自由意志を可能にするような仕組みに対する逃げ口上として不確定性を挙げる人さえいる一方、ヒーリングやスピリチュアリティへのさまざまな取り組みを支持する証拠として量子現象を挙げる人もいます。このような推測は無知なものから高度に洗練されたものまで様々ですが、現在説明されていない(そしてほとんどの場合は認識さえされていない)多くの現象に対する量子論の説明を、いつか科学が確立するだろうと私は信じています。しかし、測定パラドックスやデコヒーレンスに対する誤解についての詳細な議論は、将来の書物に譲ります。私の言葉を注意深く読めば、量子現象と人間の体験世界との間に直接的なつながりがあるとは主張していないことがお分かりいただけるでしょう。例えば、量子の不確定性が私たちに自由意志があることの証明になるとは主張していません。量子力学は私たちに新しい思考法、新しい種類の論理、そして新しいメタファーの源を与えてくれたのです。もうこれだけでも私たちの文明を一変させるのに十分な力があるかもしれません。

私が説明したような量子力学の直感に反した側面は、近代の自己観や世界観から生まれた直感に反しているだけです。〈分断の時代〉が本格化する以前の人々にとって、「それは同時に2つの位置を占めていた」とか、「あなたが探すまでそこにはなかった」とか、「あなたにとってはそこにあったが、私にとってはなかった」というような量子現象に関する記述は、あながち逆説とは見えなかったかもしれません。彼らにとって、観測者と観測される者、想像と現実、人間と自然、自己と他者の間に絶対的な区別はありませんでした。そのような区別が存在する限りにおいて、その仮の性質はおそらく遊びや創造的な作り事だと認識されていたのです。それゆえ、儀式と現実の間に、また〈原初の言語〉では名前と名付けられたものとの間に、第2章で述べた本源的な同一性があるのです。

原始人の心は西洋の訪問者にとって多くの場合イライラするほど不合理なものです。私がニューエイジ的な人々と出会ったばかりの頃、彼らが「あなたにとっては真実でも、私にとっては真実ではない」といって私を馬鹿にした(ように見えた)とき、同じような煩わしさに苦しんだのを認めざるをえません。「本当に『気』が存在するのなら科学的な測定器で検出できているはずです」と私が言えば、友人の答は「その信念こそ、あなたの測定器で検出できない理由です。」「体外離脱体験はあり得ないと思います」と私が言えば、彼の答は「そう思うなら、あなたには不可能です。」

もう気が狂いそうでした。「『私にとって』という意味じゃなくて、本当にはあり得ないということですよ。」

「ならばあなたにとって、本当にはあり得ないということです。」

あーッ、もう!

私が「本当に」と言ったのは、「客観的に」という意味だったのです。友人のチャド・パークスはヒーラーでありミュージシャンですが、(私にとっては)怪しげなニューエイジの教祖から教わった超能力による透明化のテクニックを私に説明しようとしました。その場にいる人々があなたを見ないようになるか、単に気づかないようになるというのです。「でもその人たちが見たとしたら、あなたの体から反射した光線は彼らの目に届くはずです」と彼が言うので、私は「なら、あなたは〈本当に〉透明になってはいないということですよね」と言いました。

「その人たちにとって私は透明なのです。」

同じような状況がカルロス・カスタネダの本の中にもあり、そこで語り手は呪術師ドン・ファンの力を理解しようと論争を挑みます。「でも、もし誰かがあなたの行く手に待ち伏せしていたら…きっと弾丸を止めることはできないでしょう?」

「そう、弾丸を止めることはできないだろう。でも私はその道を選ばない。」

カスタネダはこう問い続けたかもしれません。「でも、その道を行かねばならない状況だったら?」するとドン・ファンはこんなふうに答えたでしょう。「それなら私はその状況に立ち入らない。」

先の例で、私はチャドにこんな実験を提案することができたでしょう。「じゃあ透明人間になってよ。それでも君が見えるに違いないから。」彼はこう言ったでしょう。「それは上手くいかないよ。あなたの目の前に私はもういるのだから。」彼の不可視性が本質的に検証不可能なのは、客観的検証の根拠そのものが対立する前提を作り出すからです。それが検証可能なのは客観的な世界だけであり、それが機能するのは非客観的な世界だけなのです。客観的な推論によって構築される知識の確実性という考え方は、その根底にある客観性と同じだけの健全性しか持ち合わせていません。それを疑問視するなら、実験によって得られた知識全体の健全性を疑うことになります。

原始人やニューエイジの理屈が非理性的に見えるのは、まさにそれが非理性的だからです。第3章で引用したデヴィッド・ボームの定義によれば、理性とは抽象化された関係を新しいものに当てはめることです。客観的でない世界は、そのような抽象化を拒みます。「外部」の世界が何らかの形で内なる世界を反映しているとすれば、理性は私たちの体験を創造し定義するための認知の道具の一つにすぎません。理性は今でも有効で有用な道具ですが、それが足枷あしかせとなるのは、意識的な道具ではなく反射的な癖になったときだけです。

プロの懐疑論者が好んで批判する愚かな相手とは、見たところ重要な高次の認知機能が欠けている、つまり理性の無い人です。魚が自分の濡れていることに気付かないように、こうした批評家たちがほとんど気付いていないのは、自己と世界についての思い込みに自身がどっぷり浸かっていることで、それが特定の狭い認知様式、つまり私たちが理性と呼ぶものへと自身を構造的に縛りつけているということです。このような認知様式はある特定の領域で強力な力を発揮し、私たちが文明という大建造物を築くことを可能にしましたが、それを後ろ盾とする巨大な企てが世界を操作し自然を作り変えるのです。この企てが頓挫するとき、私たちは他の認知様式や関係が有り得るという可能性を受け入れるようになります。

量子力学が私たちのニュートン・デカルト的直観を非二元論的直観へと徐々に置き換えていくと、あらゆる分断の果実はその最も深い根拠を失います。その訳は、たとえ従来の哲学が正しく、量子の不確定性と観察者依存性が意識や心や自己に現実的な影響を与えないとしても、たとえ私たちの実感する物質世界が古典的記述から大きく逸脱していることを証明する者が現れなかったとしても、「宇宙はそういうものだ」という主張の根底には、ぬぐい去ることのできない例外が潜んでいるからです。喩えとしてだけでも、量子力学は私たちに新しい論理、新しい可能性の枠組みを与えてくれます。個別ばらばらの自己が、もはや世界の理解に説得力を持つ唯一の方法ではなくなるのです。

量子力学は私たちの直観に重大な変化をもたらす前触れとなり、古い生き方や考え方の破綻がますます明白になるにつれ、その変化は急激に加速していくでしょう。分断の体制がニュートン・デカルトの科学の中で頂点に達する舞台を整えるとともに、それによって強化されたように、量子力学もまた、私たちが互いに、そして自然の全てと繋がっているという新たな認識の出現を早めるとともに、それによって量子論の存在論的な帰結をより完全に消化できるようになるでしょう。言い換えれば、量子論は原因であると同時に結果でもあり、より大きな意識変化の前触れであると同時に現れでもあるのです。

量子力学が予言する直感によって強化され、あるいは少なくとも比喩としての可能性によって強化された原始人の信念は、新たな活力、関連性、重要性を持つようになるでしょう。私たちがすでにその引力を感じていることは、「アメリカ先住民のスピリチュアリティ」の人気に現れています。(この種の文化資本が急速に吸い取られ金銭に変換されているとしても、その魅力の核心は変わりません。)すでに私たちは、思考や言葉や行動には単なる質量の運動や化学物質の流れのような古典的な物理的説明を超える力があると信じるようになりつつあります。すでに私たちは、流動的な現実という考え方に親しみを覚えるようになりましたが、それは切り離された絶対的なものではなく、現実との関係によって定義され、私たちの信念によって形成されるものなのです。私たちがほとんど気づいていないのは、全く異なる科学、全く異なる技術の舞台が整いつつあることで、それはもう分断を前提とせず、その前提を強化するものでもありません。そして人間生活のあらゆる側面が変わるのです。


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原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6/

2008 Charles Eisenstein


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