確実性のない真理
訳者コメント:
この節は数学者でもあるチャールズによる数学批評です。高校数学では「証明せよ」という問題に数多く出くわします。そこで求められていることは、限られた前提から出発して、与えられた問題が正しいという結論に記号の操作によって確実にたどり着くことです。そのような議論の基本的な前提となるのが「公理」で、その議論の仕組みが形式論理学や形式数学です。
限られた公理を使って無限の現実を理解することは不可能だということが、数学の歴史の中で次々と明かされてきましたが、私たちが現実世界を見るメガネの中には(高校でたたき込まれたせいなのか)確実性という古い世界観が根強く残っているのです。数学の進展が見せてくれた確実性の崩壊を、悲劇ではなく朗報と捉えるなら、私たちの世界観は自分の選択に基づいた創造的な生き方を肯定できるものへと変化するでしょう。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
6.2 確実性のない真理
素粒子物理学が第3章で述べた還元主義という企ての基礎だとすれば、数学と形式論理学はその基礎が乗っている岩盤です。完全なコントロールという〈テクノロジーの計画〉を完遂するためには、まず知識の確実性を達成し、期待から結果が、前提から結論が、そして設計から機能が間違いなく導かれるようにしなければなりません。この考え方では、機械が動かなかったり、設計に欠陥があったりするのは、何らかの変数がコントロールされないまま残っていたからに他ならず、つまり初期条件についての知識が不完全だったからということになります。全ての要因が説明され、全ての変数が測定され、全ての力が数式で捉えられたとき、物理系の予測可能性はそれを支える数学に劣らず信頼できるものとなるのです。
でもこの数学はどれほど信頼できるものなのでしょうか? ライプニッツとラプラスの夢見た未来では、言葉の意味は全て完全に正確であり、あらゆる科学は完全に数学で表されていて、どんな議論であっても単純な計算によって解決することができ、疑いも論争も必要なく、自然の真理が全て露わになるのです。数学は何といっても確実性の典型であり、結論を導くのは説得ではなく形式的・演繹的な証明であって、論理そのものが破綻していない限り議論の余地はないのです。しかし数学が健全であるとどうして分かるのでしょう? 算術の公理の中に隠れた矛盾が無いことを、どうして私たちは知ることができるでしょう? そして同じように重要なのは、これらの公理から出発すれば全ての真理に到達できると、どうして分かるのかということです。物理学が公理主義という土台の上に置かれ、より多くの知識分野が正当性の根拠を数学に求めるようになるにつれ、19世紀末ごろからこのような疑問はますます切迫したものになっていきました。
ユークリッドに始まった公理的方法は、今日の科学的厳密性という概念に内在しています。それは用語と前提条件を明確に定義することから始まります。そもそも用語そのものが曖昧なら、どうしてまともな推論などできるでしょうか? 推論は基本的な定義と前提から出発し、そこから構築していくものです。数学で公理的方法の必要性がはっきりしたのは、集合論のさまざまなパラドックスによって、集合の素朴な(公理的でない)定義が、突き詰めれば矛盾することが証明されたからでした。例えばラッセルのパラドックスを考えてみましょう。「自分自身の要素ではない全ての集合の集合」はそれ自身の要素でしょうか? 定義の上では、もしそれが正しければ誤りとなり、もしそれが誤りなら正しいことになります。それゆえ、何が集合で何が集合でないかを暗黙のうちに定義する公理が必要となるのです。公理は算術についても定式化されました。素朴に、私たちは足し算と掛け算が何なのか知っていると思っていますが、本当に知っているでしょうか? 算術の公理はそれらを形式体系に基づいて定義します。
ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルト[訳註1]が打ち出した計画は、全ての数学(ひいては全ての科学)を確固たる公理的基盤の上に置こうとするもので、中でも最高位にあったのが、そのような公理系(特に算術)が健全かつ完全だと証明することでした。健全というのは矛盾した結果が生じないということで、完全というのは全ての正しい記述がそこから証明できるということです。当時それは直感的に明らかだと思われました。真理であれば何でも証明できるのが当然でしょう。そうでなければ、どうしてそれが真理だとわかるのでしょうか? 他の主張とどう区別するのでしょうか? ある意味で、「自然の支配者にして所有者」になるというデカルトの野望全体が、この完全性の証明にかかっていました。なぜならそれが、いかなる謎も、いかなる真理も、人間の論理の範囲を超えるものではないということを立証するからです。形式論的な公理系から出発すれば、論理学の規則に従って機械的かつ無思考的に、それらの公理から可能な全ての証明を導くことができるのです。コンピューターでもできることです。1900年にコンピューターは存在しませんでしたが、公理的証明の機械的な性質は、ライプニッツの展望が実現すると約束しているように見えました。あらゆる論争に決着をつけ、最終的に全ての真理へと到達するには、「計算しよう」と言うだけでいいのです。
ゲーデルの有名な不完全性定理が1931年に発表されたことで、ヒルベルトの計画が完成するという希望が打ち砕かれた困惑を想像してみてください。一般向けの書物で、ゲーデルの定理は「公理から証明できないが正しい算術の記述が存在する」ことを証明するものとして紹介されるのが普通ですが、この定理は実際もう少し微妙なものです。ここではゲーデルの定理をもう少し掘り下げて紹介しようと思います。なぜなら、この定理の微妙な点が〈科学の計画〉と〈テクノロジーの計画〉にとって直接的な結果と隠喩的な結果を共にもたらすからです。
ゲーデルの定理における真理と証明可能性の乖離は、形式理論とその理論解釈の区別という文脈でのみ理解できます。形式理論とは、与えられた公理の集合から論理学の通常の規則に従って演繹可能な全ての定理の集合です。形式理論の解釈とは、その理論が記述する現実のシステムや抽象的なシステムのことです。
身近な例を挙げれば、ユークリッド幾何学の公理が生み出す理論は、その解釈として理想化された線、点、角度などを持ち、それらは平面上に描かれます。算術理論の一つの解釈は、私たちが数を数えたり、足したり、掛けたりするのに使う自然数の集合です。証明可能性は理論の形式言語で書かれた文(記述)の性質であり、真理は現実世界での対応物がもつ性質です。例えば、形式言語では「任意のx, yについて、x*y=0 ならば x=0 または y=0」という文は、形式算術の(Qと呼ばれる)7つの基本公理から証明可能であり、その解釈「2つの数の積がゼロなら、そのうちの少なくとも1つはゼロでなければならない」は現実の算術でも正しいものです。その主張はごく当たり前のことのように思えますが、どうしてそう言えるのでしょう? つまり、どうすればそれを証明できるのでしょう? 現実世界の例から抽象化することによってのみ、理論、つまり公理に埋め込まれた定義(「足し算の本当の意味はこうだ」など)の集合が生まれます。
しかし、そこで疑問が生じます。理論が解釈と完全に対応しているかどうかをどうやって知ることができるのでしょうか? 実際にQの7つの公理は、「任意のa, bについて、a+b=b+a が成り立つ」のような基本的な算術的事実を証明することができないほど最小限のものです。ゼロから数えて最終的にすべての数に到達できることを、Qから証明することは不可能なのです。しかし、このような不都合は、それを新しい公理として追加することで簡単に対処できます。ヒルベルトの計画、ひいては完全な理解という〈科学の計画〉の究極の目標は、解釈が真である証明不可能な文を全て公理として追加することです。そうすれば完全に現実を公理化し、究極的に自然を数へと変換することができます。切り離された人間の領域が、ついに現実の全てを網羅することになるのです。
ゲーデルが証明したのはこれが不可能だということ、つまり全ての真文(解釈が真であるすべての文)を証明するのに十分な公理を追加する方法は存在しないということです。無限の公理が必要になってしまうのですが、それでさえ最も深い問題ではありません。問題なのは、その無限を生み出す「有効な手順」が存在しないこと、有限の手段では理論を完全なものにできないということです。「これこれの解釈において真となるすべての文を公理とせよ」と言うことができないのは、その文が何なのかを言い当てる方法がないからです。
言い換えれば、現実を数学的に記述しても必然的に何かが欠けているのです。全ての真理を名前と数量の体系(これが本質的に「形式体系」なのですが)の中へと取り込む有限の手段は存在しません。量子の不確定性がなかったとしても〈科学の計画〉は最初から失敗する運命にあります。同じように破滅的なのが、真理への確かな道標としての還元論的合理性という考え方で、これは先に述べたように、どんな問題でも厳密な定義を並べることから始めます。証明できるもののみに知識を限定することで、私たちは真理の大部分を排除しているのです。
そしてもっと悪いことになります。先に述べた状態が許容できるのは、ゲーデルが証明のために構築した算術の文のように、手の届かぬまま残された真理が、重要ではない場合だけです。しかし、チューリング、ポスト、そして最近ではグレゴリー・チャイティンの研究によって程なく明らかになったように、証明が不可能なのは数学の奥深くの一部だけではなく、あらゆる数学的事実の大部分だったのです。
合理的な理解という考えそのものが、複雑なものを単純なものに落とし込み、物事の根底にある「理由」を見つけることに他なりません。この典型的な例が、天空の惑星の複雑な軌道をニュートンの万有引力の法則に落とし込んだことです。チューリングが証明したのは、その方法で答えることができず、「そういうもの」としか理解できない重要な数学的問題があるということです。彼の有名な「停止性問題」は、ランダムなチューリングマシン(理想化されたコンピューター)が、ある入力を与えられたとき最終的に停止するかどうかを判定する一般的な手段はなく、実際に試してみる他ないことを示しました[4]。いくつかのチューリングマシンには特定の方法が存在しますが、普遍的な方法、あるいは有限の公式や命令セットなど、コンピューターにプログラムできるようなものはありません。チューリングマシンが停止する理由についての一般的な理論は存在しません。チャイティンはこの結果をさらに拡張し、ほぼ全ての数学的事実は証明不能であり、さらに悪いことに、数学的真理はアルゴリズム情報理論の意味でランダムなのだと見抜きました[5]。真理には何の根拠も理由もなく、現実を人間によるコントロールの領域に引き入れるために必要な、有限で標準的な用語によって理解できるものは何もないのです。
数学によって決定的となったのが、混沌とした予測不可能な現実を制御可能な人工的代用品で置き換えようとする古くからの試みの運命です。私たちの作る現実の地図がいかに精巧であろうと、モデルがいかに洗練されたものであろうと、必ず何かが欠落しています。この限界は地図そのものに内在しています。もちろん、地図や定義集、公理系は便利なものですが、それを本物だと勘違いしてしまうと、私たちは自分で作った有限の世界に閉じ込められてしまいます。それは私たち自身の思い込みの投影であり、私たちが自明であるとするものによって最初から限定された、真理のごく小さな部分集合なのです。チャイティンが言うように、「言い換えるなら、現在の数学の地図は、私たちの道具が現在扱えるものだけを反映しているのであって、存在するもの全てを本当に反映しているのではない」のです[6]。危険なのは、思い込みに目が眩んで、実体験に基づくデータを「そんなはずはない」と否定してしまうことです。まさにこれが科学の多くの分野で起きていて、科学はその原理原則にどっぷり浸かっているため、どんなに十分な証拠があっても「異常な」現象を容認することができません。
私たちは日常生活の中で、信念によって経験が見えなくなるたびに同じような過ちを犯します。例えば考えてみてほしいのは、内気なティーンエイジャーが自分は男の子にモテないと思い込んでいるため、男の子からの視線に気づかず、内緒で好意を寄せている人のメモを嘲笑と解釈し、褒め言葉は自分を励ますため同情しようとしているだけだと解釈してしまうような場合です。
ゲーデル、チューリング、そしてチャイティンの結論が示唆するのは、知識を追求するときに確実性を諦め、役立つかどうかを優先させるという別の行き方です。私たちの「外部」に揺るぎない真理というものが存在しない以上、探求者と世界との関係こそが最も重要になるのです。数学では、研究者は新しい公理を形式論の体系に追加することができ、その理由としてコンピューター計算を証拠に使い、あるいは単にそれを使えば魅力的な結果が証明できると言えばいいのです。こうして、数学に再び主観が忍び寄ります。ある理論体系は「選択公理」を含む集合論の公理から導かれ、別の理論体系はそれを含まない公理から導かれます。ある理論体系は「連続体仮説」を公理として追加することから、また別の理論体系はその否定を追加することから出発します。計算理論では、NP困難な問題を解くための多項式時間アルゴリズムは存在しないという仮定から多くの結果が導かれますが、この仮定が広く受け入れられている背景には、計算上の証拠と、多項式時間アルゴリズムを見つけようとする数学者の最善の努力が何度も挫折したことがあります[7]。幾何学では、非ユークリッド公理を含めることで、ユークリッド公理で平面上の幾何学を記述するのと同じように、湾曲した時空を理解する手段が得られます。私たちにできることは、遊び心を持って、さまざまな公理系を試し、現実や現実の一部、あるいは宇宙の側面について、さまざまな説明を考え出すことなのです。
もし親愛なる読者の皆さんが、これらの複雑な問題に迷い込んでしまったようなら、要点を強調しておきましょう。数学であれ物理学であれ、理由が常にあるとは限らないということです。物事は真理だから真理だということもあるのです。「そうなの?本当なら証明してよ!」と言うのを聞いたことがあるでしょう。私たちは無意識のうちに真理と証明可能性を同じだと思うよう学んできましたが、それは直感よりも理性を重んじるよう学んだのと同じです。ヒルベルトの計画は、私たちが確実性を渇望し、議論の余地のない真理の源を自分自身の外部に求めていることの現れでした。同じ衝動を根底に持つのが、社会のいたるところで「専門家」が持ち上げられ、私たちの自律性がますます外部の権威に委ねられていることです。これは多くの宗教カルトの根底にあるものでもあり、確信は教祖からもたらされます。キリスト教原理主義も同様で、聖書という別の外的権威に議論の余地のない真理の源を求めます。聖書の無謬性という教義は、現実を公理化しようとする科学的野心に対応する宗教版です。ここに確信がある! もう真理を知るために自分の内面を見つめる必要はない。白か黒かは全て明白なのだ。もはや私たちは、この世界の神聖な創造者ではなく、ただの受け手、ただの消費者なのです。
今ではそのような確信を得る望みは全て絶たれました。もちろん、キリスト教原理主義者やカルト信者、あるいは独断的な科学者のように、自分の公理体系に閉じこもり、その外にある真理の探究を拒否することもできます。しかし、そのような確信に伴う高い代償は、偏狭さと停滞、新しい知識経験の世界からの断絶です。実は、確信の崩壊は信じられないほど解放的なことです。それがもたらす影響は、物理学の領域における決定論と客観性の破綻と似ています。真理は、存在と同じように、自分自身から切り離され独立した性質ではなくなるのです。どちらも関係性として初めて意味を成すようになります。論理的確実性から切り離され、証明から切り離された真理とは、何を意味するのでしょうか? 私が見つけた唯一の納得のいく答えは、真理とは美しい完全性をもった状態だということです[訳註2]。ある経験について二つの異なる解釈に直面したとき、さらに多くの証拠を集めてどちらが真理なのかを決めるのではなく、この新しい比喩が私たちに呼びかけているのは、選ぶことです。私たちの全存在と、もっと重要なのは、私たちがそうなりたいと努力する全てに対して、どちらがより完全に当てはまるかに基づいて、どちらか一方を選び取ることです。私たちは自分が選んだ真理によって、自分という人間を創り上げるのです。
この宣言はあなたにとって危険なものに聞こえますか? 真理を弄び、証拠を無視し、盲目的に自分勝手な現実の解釈を主張する許可を与えているように見えるでしょうか? 「それが私の真理だ」と言って何でも正当化する権利を与えるでしょうか?
実際には反対の効果を持つのです。私たちが意識的に真理を選択し、自己定義を知るとき、その選択は通常の理由や正当化にはない重みを帯びてきます。真理を創造的な選択として理解すれば、より意識的に選択することができます。数学の比喩に戻れば、真理とは解釈の性質であって、証明や理由の性質ではないのです。したがって真理を選ぶということで私たちは世界の解釈を選ぶのであり、その解釈が今度はその解釈と一致する新たな体験を生み出すのです。私たちが生きる真理を自分で選択することが、世界を創り出す力を持つのです。
私たちは科学の中であれ外であれ、真理の探求とは、より多くの事実を網羅することではなく、世界についての確信を増大させることではなく、むしろ自己理解と意識的創造性の道だと捉えることができるでしょう。数学のように、真理がしばしば確実性を超え、理性さえ超えるものであるとき、私たちはそれをどのように認識すればいいのでしょうか? どのようにして、ある信念とその対極にある信念のどちらかを選ぶのでしょうか? 私たちに残された手がかりは美しい完全性で、それを明らかにするためにこう問いかけます。「それが私なのか?それが私の選ぶ宇宙なのか?それが私の創りたいと望む現実なのか?」私たちは自分が見ている宇宙から切り離され、ただあるものを発見することしかできない、個別ばらばらの観察者ではありません。私たちは創造者なのです。
例を挙げましょう。いくつかの個人的な体験と幅広い読書を通して、私は従来の科学が受け入れない多くの現象に接してきました。ある時点で私は信念の危機に直面しました。二つの異なる解釈のどちらかを選択しなければならなくなったのですが、どちらも論理的には首尾一貫していました。それは次のようなものでした。(1)私の身体的な「気」の体験は、道場という非日常的な環境と、台湾にいるというカルチャーショックによって引き起こされた幻想だった。わざとデマをでっち上げた者たちを除けば、何百人もの一見普通で誠実で謙虚な施術者たちも同様に騙されていた。以前は尊敬に値し著名でさえあった、ジョン・マック、ロジャー・ウルガー、バーバラ・ブレナンといった人物の著書を私は読んだが、彼らも何らかの形で認知症に陥っていた。奇跡的な偶然や不可解な体験、幽霊などの話を聞かせてくれた多くの誠実そうな人たちも、じつは私をそそのかし、特別な存在として注目されることに飢えていたのだ。そして私には人を見る目がないに違いない。私の人生で、詐欺師やカモ、嘘つき、デマ屋、精神的に不安定な人を山ほど見てきた。私の妻でさえ訳もなく私に嘘をつき、何年も前に彼女に起こった異常な体験について語るのだ。私だって懸命に努力すれば、こんな「非科学的」な現象など実際には起こらないという信念体系を拵えることができる。(2)私が実際に経験し、話を聞き、書物で読んだこれらの体験は、他のどの体験とも同じように現実のものだ。私の人生に登場する人たちは、概して見かけ通りであり、虚偽や選択記憶、強迫的な虚言癖といった病に罹っているわけではない。ジョン・マックがエイリアンに拉致された話についての本を書いたのは、精神医学のハーバード大学教授という以上の名声なり悪名を轟かせたかったからではない。ふつう著名な科学者たちは、純粋に空想上の超常現象を追い求めようとして、自分のキャリアをドブに捨てたりはしない。そして私自身の体験において、私は見たものを見て、感じたものを感じた。そして結局のところ、この正しさを信じている私は、科学全体が根本的に不完全であることも信じなければならない。
この二つの解釈の中に、どちらも論理的な矛盾はありません。内気な少女と同じように、私は全てのデータを多くの解釈、多くの宇宙の一つに当てはめることができます。「オッカムの剃刀」でさえ私の救いになるとは限りません。不都合な事実を何らかの口実で切り捨てる方が「単純」だからです。真理を選択することで、私はどのような宇宙で生きるかを選択し、自分が何者であるかを私自身と世界に対して表明しているのです。時には、探求と発見の精神で、遊び心を持ってこれを行うこともあります。たとえば「懐疑論者」の著作に何日も没頭し、それが自分の精神状態、感情、人間関係をどのように変化させるかに気づくのです。でも普通は、ある信念状態から別の信念状態への移行は無意識のうちに行われ、私の理解を超えた論理と流れに従うのです。私という存在のある段階では役に立った真理も、別の段階に進めば時代遅れになります。そしてそれは私たちみんな同じです。
ゲーデルとチューリングの研究が永遠に終止符を打ったのは、有限の手段で自然を捉えるというバベルの塔のような企てでした。私たちに分かったのは、現実を名前と数に落とし込むことの限界と、真理を確実性の支配下に置くのが不可能なことでした。比喩的に理解するなら、数学の不完全性が示唆するのは、真理、知識、信念を理解する新たな道なのです。それは宇宙との関わり方であり、私たちが何者か自己定義する方法なのです。それは現実を共に創り出すプロセスであって、すでに私たちの外部に存在する物を単に明らかにし、目録を作ることではありません。確実性は失われてしまいましたが、その代わりに私たちは自由を手に入れたのです。
注:
[4] その場合でも確かなことは分からないかもしれない。チューリング・マシンを10億回反復実行させることで分かるのは、最初の10億回で停止しないことだけ、ということも十分あり得る。
[5] 基本的にこれが意味するのは、任意の数学的真理のランダムなリストが与えられた場合、そのリストを特徴づけるためのより短い方法は一般的に存在せず、そのリスト自体が最短の記述だということである。これらの結果は物議を醸したチャイティンの古典的著作『Information, Randomness and Incompleteness: Papers on Algorithmic Information Theory(情報のランダム性と不完全性: アルゴリズム情報理論に関する論文集)』に詳しく紹介されている。
[6] グレゴリー・チャイティン[Chaitin, Gregory,] 『Meta Math! The Quest for Omega(メタ数学、オメガの探求)』, Pantheon, 2005年. p. 20
[7] ジョナサン・ボーワイン[Borwein, Jonathan] とデヴィッド・ベイリー[David Bailey] 『Mathematics by Experiment(実験による数学)』, A.K. Peters, 2003年. p. 4-5. 最近の数学の傾向として、伝統的な解析的証明の確実性を捨て、代わりにコンピューターを使って洞察を求める「実験数学」がある。現在の公理系では本質的に証明不可能な基本的真理があるかもしれず、例えば、全ての代数的無理数はボレル正規数であるという推測である。これは数兆桁にも及ぶ数字についてコンピューター計算で確認されている。一見、実験数学は経験主義を数学に応用したものに過ぎず、客観的な宇宙が「私たちの外部に」あるというベーコンの仮定に合致しているように見えるかもしれないが、実はこの問題は極めて厄介なのだ。数字がある意味でランダムだとしたら、そもそも計算される前に、数字はどのような意味で存在するのか、あるいはどのような意味で必然的にそうなるのか。この疑問は決して些細なものではないが、より深い考察は本書の範囲を超えている。関連する問題の哲学的議論については、グレゴリー・チャイティンの著作を参照されたい。
[訳註1] 原文ではダフィット・ヒルベルトがフランスの数学者とされているが、ヒルベルトはフランス生まれでもなくフランスで活動したこともない。この記述は英文書籍版でもそのままになっているが、意図的なものかどうかは著者に確認が取れていない。
[訳註2] インテグリティ(integrity)には2つの意味があり、その1は主に人格を言うために使われる「誠実さ、高潔さ」その2は物体やシステムを言い表すのに使われる「全体性、完全性」。真理がintegrityを持つというニュアンスを表すのに「完全性」だけでは不足だが、チャールズが見た真理は「私たちの心が可能だと語る、より美しい世界」と無縁ではないだろう。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-02/

