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【聖なる経済学】 お金と心②

訳者コメント:
お金は万能の、普遍的な手段。すると、お金があれば何でも買える。するとお金は目的に、普遍的な、誰にでも共通する目的に変わります。誰でもお金儲けが人生の目的なのは当たり前。ところが、お金で買えないものをお金で買おうとするから、永遠に満たされることはなく、いくらあってもお金が足りないと感じ、欲望は無限になってしまうのです。

①から続く

シーフォードはこう書いています。「個人的なつながりをすべて切り捨てているので、お金は見境がなく、誰とでも何とでも交換でき、金銭以外のあらゆる人間関係には無関心である」[12]。他の物とは異なり、お金はその起源の痕跡も、それが渡り歩いてきた人々の痕跡も残しません。贈り物ギフトは贈り主の個性を宿しているように見えますが、お金は誰のでも同じです。銀行に2千ドルあり、半分が友人から、半分が敵からのものだとすると、敵の千ドルを先に使って友人の千ドルを残しておくことはできません。どのドルも同じなのです。

おそらく賢明にも、多くの人がビジネスと友情を混同するのを原則として拒否するのは、お金と人間関係の本質的な対立を警戒してのことです。お金は人間関係を非人格化し、二人を単なる「交換の当事者」に、自己利益の最大化という普遍的な目標に突き動かされる人間に変えてしまいます。市場原理による人間関係は敵対的です。もし私が、おそらくあなたを犠牲にして、自己利益の最大化を追求するなら、どうして私たちは友人になれるでしょうか。そして、高度に金銭化された現代社会で、ほとんどすべてのニーズをお金で満たすようになった今、友情を築くための個人的な贈り物ギフトなど一体何が残っているでしょうか。

利益追求の動機が、いかなる善意ある個人的動機とも相容れないことは、ほぼ自明の理と言えるでしょう。だからこそ、「個人的に受け止めないで、これはビジネスだから」という言葉があるのです。今日、倫理的ビジネス運動や倫理的投資運動は、愛と利益の対立を解消しようと努めていますが、動機がどれほど誠実であっても、こうした取り組みはしばしば広報活動や「グリーンウォッシング」、あるいは独善へと変質してしまいます。これは投資家が悪いのではありません。後の章で説明しますが、倫理的投資の行われる環境に致命的な矛盾が仕込まれているのです。今のところは、あなたが倫理的投資に向ける、そして一般的に「善行によって成功する」という主張に向ける、自然な疑いに注目してください。

一見利他的な事業に出くわすと、私たちはつい「何か裏があるんじゃないか」と考えてしまいます。彼らは一体どうやってこっそりお金を稼いでいるのだろう。いつ支払いを求めてくるだろうか。「実は金儲けのためにやっているに違いない」という疑いは、誰にでも共通するものです。私たちは、人がすることすべてに金銭的な動機を見抜こうと躍起になる一方、誰かがあまりにも寛大で、あるいはあまりにも純粋に親切な行いをし、金銭的な動機が明らかに存在しないのが分かると、深く心を動かされるのです。見返りを全く考えずに与える人がいるというのは、非合理的で、奇跡的とさえ思えます。ルイス・ハイドが言うように、「高利貸しの帝国の中で、心優しい男の感傷が私たちに呼びかけるのは、それが失われたものについて語るから」なのです[13]。

利益を求める動機が裏にあるのではないかという疑念がほぼ誰にでも共通するということは、お金が普遍的な目的だということを示しています。想像してみてほしいのは、あなたの学生時代に戻って、自分の才能について進路指導の先生と話し、どうすればそれで生計を立てられるか(つまり、お金に換えられるか)を相談している場面です。この思考の習慣は根深いものです。十代の息子ジミが作ったコンピューターゲームを見せてくれると、私がついつい考えてしまうのは、それをどうやって商品化できるか、そして次にどんなプログラミング技術を身につければもっと売れるようになるかということです。誰かが刺激的で創造的なアイデアを思いつくと、ほぼ必ず「これでどうやってお金を稼げるだろうか」という考えが続いて出てきます。しかし、利益が芸術創作の単なる副産物ではなく目的になってしまうと、その創作物はもはや芸術ではなくなり、私たちは売れ線狙いになってしまうのです。この原則を人生全般にまで広げて、ロバート・グレイブスはこう警告します。「あなたは安定した収入と余暇を得るために仕事を選び、崇拝する女神への奉仕をパートタイムにしてしまう。私は一体何者なのだと、あなたは自問するだろう。女神が求めるのはフルタイムの奉仕か、さもなくば全く奉仕しないか、どちらかしかないのだと自らを戒めるのだ。[14]」

お金という普遍的な目的は、私たちの言語に組み込まれています。私たちはアイデアを「資本化するcapitalize」という表現を使いますし、「無償の」gratuitousという言葉は、文字通りには「(対価を払わず)感謝をもって受け取る」という意味ですが、有り難迷惑の同義語としても使われます。経済学の前提にもこの概念が確かに組み込まれていて、人は自己利益、つまり金銭を最大化しようとするのです。科学においても、生殖という自己利益を示す符丁として組み込まれていて、ここにも普遍的な目的という概念が根付いています。

お金であれ何であれ、人生に普遍的な目的が存在するということ自体、決して自明ではありません。この考えはお金とほぼ同時期に生まれたようで、おそらくお金が哲学者たちにこの考えを思いつかせたのでしょう。ソクラテスは、知性が普遍的な目的だと提唱するとき、明確にお金の比喩を使いました。「私たちが他のすべて(快楽と苦痛)と交換すべき唯一の正しい通貨は、知性である。[15]」宗教において、これは救済や悟りといった究極の目的の追求に相当し、そこから他のすべての善きものが流れ出るのです。お金の無限の目的になんと良く似ているでしょうか。あなたの問題を解消させ、楽園へと導く唯一の鍵。私たちが、すべての鍵だと信じている単一の抽象的な目標の追求を諦めたら、私たちの精神性にどのような影響があるでしょうか。ただ遊び、ただ存在するなら、どんな感じがするでしょうか。富と同じように、悟りも限りのない目標であり、どちらもそれを追求する人を奴隷にしてしまう可能性があります。おそらくどちらの場合も、追求の対象は人々が本当に求める多様なものの偽りの代用品なのです[16]。

完全に貨幣化された社会では、ほとんどすべてのものが商品やサービスになっていますが、貨幣は世界の多様性を一元化、つまり「他のほぼすべてのものの尺度であり、交換可能な単一のもの[17]」へと変換します。アペイロンやロゴスのような概念はすべて、宇宙の根本をなし、あらゆるのものを生み出している一元unityが、形を変えたものでした。すべてのものがそこから生じ、すべてのものがそこに戻るのです。その点で、これは古代中国のタオの概念とほぼ同一です。それが陰と陽を生み出し、そこから万物を生み出すのです。興味深いことに、道教の半ば伝説的な師である老子は、ソクラテス以前の哲学者たちとほぼ同時代に生きており、それはまた最初の中国の貨幣が作られた時期とほぼ同じです。いずれにせよ、今日でも万物を生み出すのはお金です。この世界で何かを築きたいなら、まず投資、つまりお金から始めるのです。そして事業が完了したら、次はそれを売る番です。すべてはお金から生まれ、すべてはお金へと還っていくのです。

お金は普遍的な目的であるだけでなく、普遍的な手段でもあります。そして実際、普遍的な手段であるからこそ、お金は普遍的な目的でもあるのです。お金はいくらあっても困ることはありません。少なくとも、私たちはそう認識しています。私は何度も、インテンショナル・コミュニティ(目的共同体)を作ったり、他のプロジェクトを立ち上げたりする議論に立ち会ってきましたが、結局は「お金をどこから調達するのか」という理由で、無理だという残念な結論に落ち着いてしまうのです。お金が、私たちに何を作り出せるかを決定する重大な要因だと考えられているのは、ごく当然のことです。結局のところ、お金は事実上あらゆる商品を買うことができ、事実上あらゆるサービスを人々に行わせることができます。「すべてに値段がある」のです。お金は無形のものさえ購入できるようです。たとえば、社会的地位、政治力、神の善意(あるいはそれが無理でも、少なくともそれに次ぐもの、つまり宗教権威者の好意)などです。私たちはお金をあらゆる欲望を満たす鍵と見なすことに慣れきっています。お金さえあれば(そしてお金がありさえすれば)実現できるという夢をあなたは何度見たでしょうか。こうして私たちは夢を抵当にお金を手に入れ、お金を手段から目的へと変えてしまうのです。

私はお金の廃止を主張するつもりはありません。お金は本来の限界を超え、均質性と非人格化によって決して汚染されるべきではないものを手に入れる手段となってしまいました。その一方で、お金を普遍的な手段として用いるようになった結果、お金では本当に買えないものが手に入らなくなり、どれだけお金を持っていても、その見せかけしか得られなくなってしまいました。解決策は、お金を本来の役割に戻すことです。

お金で買えるものには明らかな限界がないため、お金に対する私たちの欲望もまた際限のないものとなる傾向があります。お金に対する際限のない欲望は古代ギリシャ人にとって明らかでした。お金の時代のまさに初めに、偉大な詩人であり改革者であったソロンは、「富は、人間にとって限界がないように見えるのは、最も多くの富を持つ者でさえ、それを倍にしようと熱望するからだ」と述べています。アリストパネスは、お金が独特である理由は、パンやセックスなど他のすべてのものには満腹感があるのに、お金には満腹感がないからだと書いています。

「いくらあれば十分なのか」と、かつて友人が知り合いの億万長者に尋ねました。億万長者は答えに窮しました。お金がいくらあっても十分ではない理由は、実際にはお金で満たせないニーズを満たすためにお金を使うからです。そのため、お金は他の依存性物質と同じように、満たされぬニーズの痛みを一時的に和らげるだけで、そのニーズ自体は満たされないままなのです。痛みを和らげるにはより多く必要になりますが、いくらあっても十分ということはありません。今日、人々は繋がりや興奮、自尊心、自由、その他多くのものの代用としてお金を使います。「百万ドルあれば自由になれるのに。」幾人の才能ある人々が、引退後の自由な生活を求めて若さを犠牲にするでしょうか。やがて中年になり、お金の奴隷になっていることに気づくだけなのに。

お金の主な役割が交換手段であるなら、お金は交換される商品と同じ制約を受け、お金に対する私たちの欲求は私たちの満腹感によって制限されます。お金が価値の貯蔵手段という追加的な機能を担うようになると、お金に対する私たちの欲求は際限がなくなります。そこで私が探求する一つの考えは、交換手段としてのお金を価値貯蔵手段としてのお金から切り離すというものです。この考えは、アリストテレスにまで遡る古代の起源を持ち、彼は富の獲得を二種類に区別しました。すなわち、蓄財のためと、他のニーズを満たすためです[18]。彼は、前者の富の獲得は「不自然」であり、そのうえ際限がないと述べています。

実物の商品とは異なり、貨幣は抽象概念なので、原理的には無限の貨幣を所有することが可能になります。そのため、経済学者は指数関数的な無限の成長という可能性を簡単に信じてしまい、経済の規模を単なる数字で表します。あらゆる商品とサービスの総計もまた一つの数字なのですから、数字の成長に限界などあるでしょうか。抽象化の道に迷い、成長のため私たちは自然や文化の限界を無視します。プラトンに倣い、現実よりも抽象概念の方を本物とし、実体経済が停滞する一方でウォール街を免罪します。すべての物は、その価値に落とし込まれます。これが生み出す錯覚は、世界が数字と同じくらい無限だというものです。お金さえ払えば何でも、絶滅危惧種の毛皮さえも買えるのです[19]。

お金の無限性には、もう一つの無限性、すなわち人の領域、つまり人間のものとなった世界の領域の無限性が内在しています。そもそも私たちはどんなものをお金で売買するでしょうか。私たちが売買するのは財産、つまり自分のものだと私たちが認識している物です。テクノロジーは絶えずその領域を拡大し、これまで決して手に入れることも、想像することさえできなかったものさえ所有可能にしてきました。たとえば地球の奥深くにある鉱物、電磁スペクトルの帯域、遺伝子配列などです。私たちの手の届く範囲がテクノロジーによって拡大するのと同時に進んだのが所有の意識で、その結果、土地、水利権、音楽、物語といったものが所有の領域に入り込んできました。お金の無限性は、所有物の領域が無限に拡大できることを意味し、したがって人類の運命は宇宙を征服し、すべてを人間の領域に取り込み、全世界を自分たちのものにすることなのです。この運命は、私が「上昇の神話」と表現してきたものの一部であり、私たちの自己定義である「人々の物語」の一部なのです。今日、その物語は急速に時代遅れになりつつあり、それに取って代わる新しい物語に沿った貨幣システムを、私たちは発明する必要があるのです[20]。

私がこれまで述べてきたお金の特徴は、必ずしも「悪い」ものではありません。あらゆるものを均質化、標準化するのに役立ち、普遍的な手段として機能することで、お金は人類が数々の偉業を成し遂げることを可能にしてきました。お金はテクノロジー文明の発展において重要な役割を果たしてきましたが、おそらくテクノロジーと同じように、私たちはこの強力な創造の道具を本当の目的のために使いこなすことを、まだ学び始めたばかりなのです。お金は機械部品やマイクロチップといった標準化されたものの発達を促進してきましたが、私たちは食べ物まで均質化したいのでしょうか。お金の非人格性は、広大な社会的距離を越えた協力を促進し、互いにほとんど見知らぬ何百万もの人々の労働を調整するのに役立っていますが、私たちは自分の近所の人々との関係まで非人格的なものにしたいのでしょうか。普遍的な手段としてのお金は、私たちにほぼ何でも可能にしてくれますが、お金がなければほとんど何もできないような唯一の手段にしたいのでしょうか。今、この道具を使いこなす時が来ました。そうして人類は、地球上で意図的・意識的な新たな役割を担うようになるのです。


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注:
12. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、155頁。
13. ハイド、『ギフト』、182頁。
14. グレイブス、『白い女神』、15頁。
15. プラトン、『パイドン』69a。シーフォード著『貨幣と初期ギリシア人の精神』242頁に引用されている。
16. 今日、最も満たされていないニーズの一つは、他者とのつながり、そして自然とのつながりです。皮肉なことに、抽象的で非人格的なお金は、これらのつながりを弱めてしまいます。精神性スピリチュアリティーも、世間から離れて行うべき個人的な追求として捉えられると、同じ効果をもたらします。これとは正反対の効果をもたらす、別の種類のお金を想像できるでしょうか。
17. シーフォード、『貨幣と初期ギリシア人の精神』、150頁。
18. アリストテレス、『政治学』第1巻第9節。
19. 読者は、ある矛盾に気づいたかもしれません。第2章で述べたように、私たちは豊かな世界に生きているにもかかわらず、限られた生物圏を枯渇させています。この矛盾を解決するために考えてほしいのは、私たちの過剰な生産と消費のほとんどが、実際には何の必要性もなく、不足感や、自然や共同体から切り離された孤立した自己の存在論的な孤独感によって引き起こされているということです。
20. 私たちの文明を特徴づけるもう一つの物語、「個別ばらばらの自己」についても同様です。私たちの貨幣制度もまた、個人的なつながりを断ち、私たちを競争に駆り立て、コミュニティと自然の両方から私たちを切り離すことで、この物語を具体化します。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-3-money-and-the-mind/

翻訳ノート
unity:一元。二元論のような多元に対して宇宙を作っている唯一の存在。
needs:ニーズ。これに対しdesireは欲求。
sellout:売れ線狙い。お金のために魂を売った。理想・信念・芸術性などを犠牲にして、金・権力・人気に迎合したという否定的評価を表す。
discrete and separate self:個別ばらばらの自己。
gratuitous:好意からの、無報酬の、という意味の他に否定的な意味があり、gratuitous complaintといえば「根拠のない苦情」という意味。この2つの意味の繋がりを暗示する日本語は、有り難迷惑か。

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