縄文の記憶が残る 今も平和を祈り続ける場所 河口浅間神社【紀行文】
大きな湖の水面に富士山が映る——河口湖は富士山が美しく見えるスポットとしても有名です。
その近くに、その富士山を祀る1000年以上続く神社、河口浅間(かわぐちあさま)神社があります。
貞観大噴火(864-866年)によって、当時の世の中は、天と地をひっくり返すほどの騒ぎとなりました。その原因とされたのが、富士山に対する祈りの不足。
人々の鎮火への祈りを込めて、富士山周辺には浅間神社が建立されました。
河口浅間神社へのアプローチ
河口湖大橋を渡り、河口湖の北岸へ。そこには数々の美術館や博物館など文教施設が並んでいます。北岸の道路を西湖方面に向かい、途中を山側に折れると久保田一竹美術館があります。
さらにその奥へ進むと、河口浅間神社が見えてきます。

かつて河口湖よりも北に剗の海(せのうみ)という広大な湖がありました。しかし、貞観大噴火により埋め立てられてしまいました。
現在は富士五湖と呼ばれますが、その昔、本栖湖、西湖、精進湖は一つの大きな湖だったといわれています。
巨大な富士山の力はこの地域のあり方を大きく変えました。
河口浅間神社の見どころ
縄文からの聖地
この富士山麓には多くの縄文時代からの遺跡が存在しますが、貞観大噴火によって地中深くに埋もれてしまったものもあるようです。
河口浅間神社のあたりは、噴火で埋まることなく、縄文時代から生き残った遺跡があります。そしておそらく河口浅間神社自体が、縄文時代の気配を伝える土地なのかもしれません。
七本杉と木花咲耶姫
河口浅間神社の主祭神は浅間大神(アサマノオオカミ)こと、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)です。
江戸時代及び明治期にかけて祭神が整理され、浅間神社といえば木花咲耶姫が主祭神となっているようです。
ここも木花咲耶姫が祀られていますが、浅間大神こそが本来の神様。噴煙を上げる猛々しい姿こそが浅間大神であり、それを慰めるのが木花咲耶姫ということではないでしょうか。


境内には、樹齢1200年を超える杉の巨木が立ち並んでいます。特に立派なものが七本杉と呼ばれ名前が付けられていました。それぞれに、縁結びの杉などご利益があるとされ、信仰されているところが面白いですね。

謎めく波多志神社
参道の途中には波多志神社(はたしじんじゃ)という小さな神社があります。河口浅間神社の随神門や社殿は白木造りですが、この波多志神社はコンクリートの台座に朱塗りの社であるため、少し異質な感じがしました。

波多志神は渡来系の氏族・秦(はた)氏に由来するとされ、平安時代以降に活躍した秦氏を祀ります。
徐福伝説とも関連があり、不老不死の薬を探して中国から日本に渡来したとされる伝説上の徐福の一派がこの地に関わり「波多志」として祀られた——地元にはそんな言い伝えがあるそうです。
本殿と摂社・末社への参拝
随神門をくぐって本殿に参拝。
素朴な拝殿の奥に本殿がありますが、これは1606年に焼失し、明治期に再築されたものだそうです。
本殿が富士山の方角を向いていないのが、気になりますが、本来あった場所から移設した際にそのままの本殿の向きを維持した、とも言われているようです。

先ほどの七本杉の近くにはいくつかの末社があり、各地の有名な神社から勧請された社が並びます。
そのうちの一つに諏訪社があり、その真後ろに巨大な杉があります。これは石神信仰に見られる形で、巨木にシャグジンという神を降ろす仕組みがここにも表れているのかなと、思いました。





山宮社への道
河口浅間神社の裏手の山腹には、大きな鏡の台座が奉安されている山宮社があります。その山宮を山頂に見立てて、河口浅間神社の境内から登り始めるミニ富士登山道もありました。途中には二合目や五合目などの立て札も。


私もチャレンジしましたが、暑い夏の真昼、ましてや準備もしていないので、山宮社への鳥居あたりで断念しました。
そんな山宮社に続く道を多くの車が駆け上がっていくのを見かけました。
調べると、その先には富士山の絶景スポット天空の鳥居があるとのこと。

また、母の白滝、父の白滝という名所もあるようです。
天空の鳥居
その天空の鳥居(富士山遥拝所)に行ってみました。
近くまで車で行けますが、河口浅間神社から歩いても20分ほどのようです。
朱の鳥居越しに眺める富士山はとても人気があります。


これは素晴らしい!
雪を抱いた富士山を拝みにくる人も多いようで、正月にはここからの素晴らしい写真がSNSを飾るようです。
私も数枚写真を撮りましたが、この日はあいにく曇り空で、山頂がわずかに肉眼で見える程度でした。
縄文の記憶
再び河口浅間神社に戻ります。
ここは縄文時代から続く土地。近くの遺跡が道路開発で壊されたため、その一部が境内に移設保存されています。



この塚越遺跡は、縄文時代中期から後期(約4000~3000年前)にかけての集落跡で、囲炉裏跡や配石遺構が境内に残り、当時の生活の一端を伝えています。
特に配石遺構は祭祀に関わるもの。縄文人も富士山を聖なる山としてやはり崇めたのだと思います。「素朴で平和」というイメージがある縄文の人々と今を生きる私たちに通底する心があるようで、何か嬉しいですね。
河口浅間神社境内の一角には、美麗石(ヒイライシ)という古代祭祀の痕跡を残す石の社の一部が残っています。この神社の元宮と位置付けられるものだそう。

せのうみを埋うづむること千町許ばかり、仰ぎ之を見るに、正中の最頂に社宮を飾り造り、垣四隅に有り。丹青の石を以てその四面に立つ。石の高さは一丈八尺ばかり、広さ三尺、厚さ一尺余りなり。石の門を立て、相去ること一尺にして中に一重の高閣有り、石を以て構へ営み、彩色の美麗は言うに勝たふべからず。
巨石を祀る文化は、縄文のころからあった根源的な祈りの形だと思います。こうした信仰の痕跡が残るこの神社は、太古から聖なる空間として人々に意識されてきたことを物語っています。
そして興味深いことに、参道途中の波多志神社のご神体も石棒のようです。


石棒は縄文時代の祭祀具として重要な意味を持ち、男性シンボルを模した呪術的な道具。
縄文の石棒信仰が、後の神道と習合しながらこの地に残っていた――これは偶然ではないでしょう。
縄文人が感じた霊性と、中世の人々が抱いた神聖さが、同じ場所で時を超えて響き合っていたのです。
時を超えた祈りの場
この一帯は少し小高く、富士山を眺めることができます。富士山の噴火を鎮める祈りの場所であり、縄文時代から美しい富士山を望む場所でもあったのでしょう。
河口浅間神社一帯を歩いていると、不思議と心が休まり清められた感じがします。それは、はるか縄文の昔から人々が祈りを捧げてきた場所だからかもしれません。
縄文の昔から、平和や無事への人々の思いを込められた痕跡が残るこの場所にて、富士山が突如大噴火した時、鎮火への強い祈りが込められ浅間神社が建立されました。
人々の真剣な祈りが重層的に木霊するこの河口浅間神社では、今もなお私たちの心に尊い響きをもたらし、これからも多くの人を迎え入れていくのだと思います。

はるか昔から、富士山の威厳のある崇高さ、そしてコノハナサクヤヒメに見るような美しさを感じていたのだと思います
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