ディア・グリーン・フィールド|掌編小説
夕方から降り続く雨は、夜になって勢いを増した。
僕はオフィスのデスクで、カタカタとキーボードを叩く手を止めた。ガラス窓を濡らす雨粒が、眼下に溢れるネオンの光を滲ませて、まるで万華鏡のように乱反射している。
この十八階建のビルができる前、この辺一帯はただ広いだけの草原で、僕たちの間では「グリーンフィールド」と呼ばれていた。
名前も知らない雑草が青々と生い茂り、夏になればシロツメクサの匂いが風に乗って漂ってきた。僕と幼馴染の七海は、放課後になるといつもそこで過ごした。僕は古いカメラで彼女の笑顔を切り取り、七海は地面に座り込んで、ノートに拙い詩を書き留めていた。
「ねぇ、もしここがなくなっても、私たちの心の中にはずっと残るよね」
夕暮れ時、茜色の空を見上げながら七海がぽつりと言った。彼女の横顔を包む光があまりに綺麗で、僕はシャッターを切ることすら忘れて頷いたのを覚えている。でも、約束された未来なんてものはどこにもなかった。七海の体に病気が見つかり、遠くの療養所へ引っ越していったのは、そのすぐ後のことだった。そして、グリーンフィールドもまた、巨大な重機によって硬いコンクリートの底へと沈んでいった。
デスクの引き出しの奥から、一通の古い手紙を取り出す。七海から届いた、最初で最後の手紙だ。消印は十年前の秋。便箋の冒頭には、彼女の丸っこい文字でこう書かれていた。
『Dear Green Field――親愛なる、あの緑の草原へ。そして、一緒に過ごしたあなたへ』
手紙には、都会を離れた寂しさと、それでもあの草原を思い出せば前を向けるという、彼女らしい強い言葉が綴られていた。最後に「いつかまた、あの場所で」と結ばれていたが、その約束が果たされる前に、彼女は遠い空へと旅立ってしまった。
七海が亡くなってから、僕は「あの場所」に建ったビルの中にあるIT企業に就職した。皮肉なものだと思う。彼女を失った痛みを忘れないために、あえて思い出の跡地に身を置いているのかもしれない。
「さて、帰るか……」
時計の針は、すでに午後十時を回っていた。周囲の社員はほとんど退勤している。僕は荷物をまとめ、エレベーターに向かった。いつもなら一階のロビーへ降りるボタンを押すところだが、なぜかその夜は、一番上にある「R」の文字に指が吸い寄せられた。
――屋上庭園。
このビルの最上階には、社員向けに開放されている小さな緑地がある。ただ、一度も足を運んだことはない。
チーン、と静かな電子音が鳴り、ドアが開く。初夏の風と雨上がりの匂いが鼻腔をくすぐった。さっきまで降っていた雨はすっかり上がり、雲の切れ間から、驚くほど澄んだ月の光が降り注いでいる。
一歩足を踏み出して、僕は息を呑んだ。そこに広がっていたのは、手入れされた芝生と、都会の夜景の中に揺れる木々だった。人工的に作られたはずのその庭園には、あの頃、僕たちが駆け回った草原と同じ、青々とした「緑の匂い」が満ちていた。
濡れた芝生が月の光を反射して、銀色に輝いている。
「七海……」
思わず声が漏れた。優しく吹き抜ける夜風が木々を揺らし、サワサワと音を立てる。それは彼女がノートをめくる音のようでもあり、「おかえり」と囁く声のようでもあった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動する。液晶画面に映し出されたのは、コンクリートのジャングルに囲まれながらも、確かに優しく息づいている緑の空間。
僕は十年ぶりに、心の底から「写真を撮りたい」と思った。
パシャリ、と静かなシャッター音が夜空に溶けていく。画面の中の緑はどこまでも深く、力強かった。
七海はもういない。あの頃の草原も形を変えてしまった。でも、あの場所で育まれた記憶は僕の中に、そしてこの場所の土の中に、確かに生き続けている。ビルが建とうが、時代が変わろうが、僕たちが愛した「グリーンフィールド」は、ここでずっと僕を待っていてくれたのだ。
「Dear Green Field――僕は大丈夫。これからも、ここで生きていくよ」
僕は夜空に向かって小さく呟いた。
届くはずのない手紙への、これが僕からの返事だ。
胸の奥に冷たく沈んでいた塊が、すうっと消えていくのが分かった。代わりに満ちてきたのは、あの夏の日、シロツメクサに囲まれて感じたのと同じ、穏やかな温もりだった。
僕はスマートフォンをポケットに仕舞い、今度こそ一階へ降りるエレベーターのボタンを押した。振り返った視線の先で、緑の草原が優しく月明かりに照らされていた。
(了)
中村由利子さんの楽曲「Dear Green Field」を聴いて――。
私が中村由利子さんを知り、ファンになるきっかけとなった曲です。
この曲を人前で弾いたのはもう十年以上前で、今はもう弾けなくなってしまいましたが、もう一度チャレンジしたいと思い、少しずつ練習しています。
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