錆びた線路とメトロノーム|掌編小説
深夜一時、ワンルームの自室。デスクの端で古びたメトロノームが一定のテンポを刻んでいた。
――カチ、カチ、カチ。
それは僕がこの街で正気を保つための、唯一のリズムだった。人と時間の海で溺れそうになる毎日で、この規則正しい音だけが、僕を「今」という地点に繋ぎ止めていた。
しかし、その音は唐突に途絶えた。ゼンマイが切れたのか、あるいは重りの位置が悪いのか。そして、訪れた一瞬の無音の隙間に、あるはずのない音が滑り込んできた。
――ザザァ……という、遠い波の音だ。
気がつくと、僕は埃っぽい都会の部屋ではなく、眩暈がするほどの陽光の下に立っていた。そこは海沿いの田舎町で、僕がかつて「自分」を置き忘れてきた場所だ。
足元には夏草に覆い尽くされた錆びた線路が一本、どこまでも続いていた。もう何十年も前に廃線になったはずの、あの場所だ。
「まだ、続いていたのか……」
独り言が、熱い湿った風にさらわれていく。
ふと視線を落とすと、線路の先に小さな影が揺れていた。麦わら帽子を被り、虫取り網を杖のように突いて、ふらふらと不安定な足取りで線路の上を歩く少年。
――あれは、僕だ。
もう一人の、かつての自分。影は時折、立ち止まっては海の方を見た。
あの頃の海は、今の僕が窓から眺めるコンクリートの景色とは対極の、命を削り取るような深い青だった。潮風が吹き抜ける、その感触があまりにリアルで、これが夢であることに気づいたのは、その風が、僕の心の一番深い場所を鋭く抉った瞬間だった。
錆びた線路は、果たして「あの夏の日」へと続いているのだろうか。
僕は影を追うように歩き出した。都会で履き古した革靴が、朽ちかけた枕木を叩く。でも、どれだけ歩いても少年との距離は縮まらない。彼は、僕がとうに忘れてしまった「純粋な退屈」の中を歩いている。僕が今、喉から手が出るほど欲している、あの静かな時間の中に。
都会の生活は、分刻みのスケジュールで僕らを切り刻む。電車は定刻に来るし、信号は規則的に変わる。でも、この錆びた線路の上では、時間はただ潮の満ち引きのように、ゆるやかに円を描いているだけだ。
不意に、少年が振り返ったような気がした。逆光で顔は見えない。ただ、揺れる影だけが僕に問いかけてくる。
『ねぇ、そっちはどんな風が吹いているの?』
僕は答えられなかった。ビル風に煽られ、駅のホームで誰かにぶつかり、謝る間もなく人混みに消えていく毎日。そんな日々を誇れるはずもない。でも、少年の背後で鳴り響いた踏切の警報音が、僕の胸を強く叩いた。そんなの、空耳だと分かっている。でも――。
心の中に、突風が吹いた。それは、海沿いの町から届いた潮風のノスタルジーであり、僕を「あの夏の日」へ連れて行こうとする力強い誘惑だった。
線路の錆びが靴の裏から這い上がり、記憶を赤茶色に染めていく。
「待ってくれ……」
僕が手を伸ばした瞬間、視界が真っ白になった。
目を開けると、そこは再び都会のワンルームだった。窓の外では、深夜バスの排気音が遠くで響いている。
デスクの上で、止まったままのメトロノームが月の光を受けて静かに佇んでいた。僕は指先を動かし、メトロノームの重りを少しだけ下げて、再びゼンマイを巻いた。
――カチ、カチ、カチ……。
メトロノームは再びリズムを刻み始める。でも、さっきまでとは何かが違っていた。
僕の心の中には、まだあの潮風が吹き抜けている。錆びた線路は物理的な距離を超えて、確かに僕の足元まで繋がっているのだ。
明日、また満員電車に揺られるとしても。この胸の奥に吹く風が、いつでも僕を、あの青い海辺へと連れ戻してくれる。
僕は深呼吸をした。肺の奥に、わずかに塩の味が残っているような気がした。
都会の秒針に急かされながらも、僕の中の「もう一人の自分」は、今もあの線路の上を、ゆっくりと歩き続けている。
(了)
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