忘却の翼|掌編小説
病室の窓から見える空が、ゆっくりと燃えるような茜色に染まり始めている。
看護師が持ってきた夕食のトレイには、もう手をつけていない。今の僕にとって、胃を満たすための食事よりも、この部屋に満ちる静寂と斜光の方が、ずっと贅沢な栄養に感じられた。
昔、誰かが言っていた。「人は死ぬ時、天へ昇るのだ」と。
子供の頃の僕は、それを単純な物理現象のように信じていた。でも、大人になって知ったのは、空へ昇るにはそれ相応の「資格」が必要だということだ。憎しみ、後悔、執着、そして膨大すぎる思い出。それらは全て、目に見えない錘となって、僕たちの魂をこの地上に縛り付けてしまう。
僕は今、人生という名の旅で膨れ上がった大きなトランクの中身を、一つずつ捨てているところだ。
最初に手放したのは、かつての仕事上の功績や、プライドという名の古びた勲章だった。あんなに必死に守ろうとしていた役職も、他人の評価も、死を前にすれば砂や埃と変わらない。トランクからそれらを取り出すと、驚くほど体が軽くなった。
次に手放したのは、自分を傷つけた誰かへの怒りだ。
――あの時、あんなことを言われた。
――あんな風に裏切られた。
そんな記憶は重い石塊のように僕の胸の底に沈んでいたが、窓から差し込む夕日の赤に晒しているうちに、不思議とぼやけて消えていった。
「……あ」
不意に、大切な友人の名前が思い出せなくなった。あんなに何度も呼び、顔を突き合わせて酒を酌み交わしたのに、名前だけが意識の網をすり抜けていく。以前なら、この物忘れを老化だと嘆いただろう。でも、今は違う。
これは神様がくれた、特別な翼の羽なのだ。思い出を一つ忘れるたびに、僕の背中には白く透明な羽が一枚ずつ生えていく。忘却とは残酷な別れではなく、高く飛ぶための準備に他ならない。
記憶が整理され、空っぽに近づいていくトランクを眺める。残っているものは、あとわずかだ。
――使い古した万年筆の感触。
――土曜日の朝に焼いたパンの匂い。
――雨上がりのアスファルトが放つ、あの独特な香気。
そして、最後までどうしても手放せない、一つの色彩。
窓の外を見る。空の赤は深まり、紫へと溶け始めている。かつてこの色の下で誰かの手を握った。その人の名前が何だったか、もう定かではない。どんな言葉を交わしたかも、今はもう霧の中だ。でも、あの時感じた「愛されていた」、いや、「愛していた」という絶対的な予感と、目の前に広がっていた夕焼けの美しさだけは、魂の最も深い場所に焼き付いている。
これさえ手放してしまえば、僕は本当に自由になれる。重力から解き放たれ、あの透き通るような、どこまでも高く青い場所へと行けるだろう。
意識がゆっくりと遠のいていく。視界が白んでいく中で、最後の一枚の羽が背中に重なるのを感じた。
愛した人の名前も、夕焼けの赤も、全てが光の中に溶けていく。僕は今、かつてないほど身軽だ。
――さようなら、僕の愛した重たい世界。
僕は窓の外、境界線の消えた空へと、静かに最初の一歩を踏み出した。
(了)
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