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一月一日のロスタイム|掌編小説

 お正月、街は死んだように静かだった。
 空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほどに青い。冷たい空気が肺の奥まで突き刺さり、吐き出す息だけが白く濁って、自分がまだ生きていることを辛うじて証明していた。

 一月一日。誰もが新しい一歩を踏み出し、希望だの抱負だのを口にする日だ。でも、二十三歳の僕にとって、それは単なる「カレンダーの強制リセット」でしかなかった。去年の汚れを落としきれないまま、無理やり新品の服を着せられたような居心地の悪さ。
「腹、減ったな……」
 独り言は風にさらわれ、誰にも届かない。冷蔵庫は空っぽで、唯一残っていた餅は今朝、カビが生えているのを見つけてゴミ箱に放り込んだ。
 僕はコートを羽織り、近所のコンビニを目指して部屋を出た。

 それが、全ての始まりだった。

 いつも通っているはずの遊歩道。その途中に、見慣れない路地があった。左右を古い雑居ビルに挟まれた、人が一人通れるかどうかの狭い隙間。そこから、妙に食欲をそそる出汁の香りが漂ってきたのだ。
「こんなところに、店なんてあったっけ……」
 誘われるように足を踏み入れる。一歩、二歩と進むごとに、遠くで鳴る車の音や、誰かの話し声が遠ざかっていく。
 路地を抜けた先には、小さな広場があった。そこには、赤提灯をぶら下げた古びた屋台と、見たこともないコインランドリーが並んでいた。
 コインランドリーの看板には、金色の文字でこう書かれている。

『思い出の洗い場:一月一日~三日のみ営業』

「いらっしゃい。お兄さん、何か洗いたいものでもあるのかい?」
 突然、声をかけられた。着流しにダウンジャケットという奇妙な格好をした老人が、屋台の椅子に座っている。白髪を無造作に束ね、手には湯気の立つお椀を持っていた。
「あ、いや……。道に迷ったというか、いい匂いがしたので」
「ほう、鼻が良いねぇ。こいつは『去年の残り福』で作った雑煮だよ。一杯どうだい?」
 老人は隣の丸椅子を叩いた。断る理由も、というか断る気力もなかった僕は、吸い寄せられるように座った。
 差し出されたお椀の中には、透き通った汁と、真っ白な餅、そして、見たこともない色の野菜が入っていた。一口すすると、温かさが胃の腑から全身へじわじわと広がっていく。
 不思議なことに、それを飲み込むたび、頭の中に「去年あった嫌なこと」が断片的に浮かんでは、消えていった。
 上司に叱られたこと。
 恋人にフラれたこと。
 将来への漠然とした不安。
 それらが、雑煮の湯気と一緒に溶けていくような感覚。
「これ……ただの雑煮じゃないですよね?」
「お察しの通り。ここは『年の隙間』だ。お正月っていうのはね、古い時間と新しい時間が混ざり合う、非常に不安定な時期なんだよ。だからこうして洗濯が必要になる」
 老人は隣のコインランドリーを指差した。よく見ると、透明なドラムの中で回っているのは衣類ではない。セピア色の写真だったり、誰かの筆跡のメモだったり、あるいは形のない「煙」のようなものだったりした。
「あれはみんなが捨てきれなかった去年の残りカスさ。未練とか、後悔とか、そういうやつだ。ここで綺麗に洗い落としてやらないと、新しい一年を歩く時に、足取りが重くなっちまう」
 ガタガタと音を立てて回る洗濯機を見つめながら、僕は自分が抱えていた違和感の正体に気づいた。
 僕は、去年を終わらせるのが怖かったのだ。何かを成し遂げたわけでもなく、ただ時間を消費しただけの自分を、新しい一年に連れていくのが恥ずかしかった。
「僕も……洗えますか?」
 絞り出すような僕の声に、老人は細い目をさらに細めて笑った。
「もちろんだ。ただし、ウチの洗濯代は高いよ?」
「お金なら、少しは持ってます」
「いや、金じゃない。ここでの支払いは『今年の抱負』だ。それも、嘘偽りのない、心の一番深いところにあるやつを一つ、置いていってもらう」
 ――今年の抱負。
 そんなもの、考えたこともなかった。
「健康に過ごす」とか「貯金をする」とか、そんな薄っぺらな言葉じゃない。もっと自分の内側にある、熱を持った言葉。
 僕は目を閉じ、空っぽだった自分の中に手を伸ばした。雑煮で温まった体が、少しずつ言葉を紡ぎ出す。

「僕は……」

 喉の奥が熱くなる。
「僕は誰かに必要とされたい。……いや、違う。僕は僕自身を許してやりたい。何者でもない自分を笑わずに受け入れたい。それが、今年の僕のやりたいことです」
 言葉にした瞬間、ふっと心が楽になった。
「上出来だ」
 老人がパチン、と指を鳴らすと、コインランドリーの一台が、軽やかなチャイムを鳴らして停止した。老人はその扉を開け、中から光る小さな欠片かけらのようなものを取り出すと、それを僕に差し出した。
 ――熱い。
 でも、不思議と心地いい。それは僕の体内にスッと溶け込み、重かった足取りが嘘のように軽くなった。
「さぁ、お帰り。お雑煮の代金は、さっきの言葉で十分だ」
 老人が手を振ると、辺りに深い霧が立ち込めた。出汁の香りが薄れ、代わりに冬の冷たい風の匂いが戻ってくる。
「あ、待ってください!」
 僕が声を上げた時には、もう路地も屋台も消えていた。僕はいつものコンビニの前の、いつもの歩道に立っていた。
 右手には、いつの間にか小さな御守りが握られていた。真っ白な生地に、銀色の糸で『洗濯済』とだけ刺繍されている。
 ふっと笑いがこぼれた。
 相変わらず、僕は何者でもない。仕事も冴えないし、貯金もない。でも、昨日までの僕を、少しだけ遠くから眺められるような気がした。
「さて、餅でも買うか」
 僕はコンビニの自動ドアをくぐった。店内に流れる一月一日のBGMが、さっきより少しだけ明るいメロディに聞こえた。
 空はどこまでも青い。
 僕の新しい一年は、今、この一歩から始まった。

(了)


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