白い息の配達先|掌編小説(#シロクマ文芸部)
白い息が、夜の街灯の下でふっとほどけた。十二月の空気は研がれた刃物のように鋭く、それでいてどこか頼りない。
二十八歳になった僕は、代り映えのしない仕事の帰り道、いつものようにスマホの画面を見つめていた。流れていくSNSのタイムライン、知人の結婚報告、宣伝広告。それらは全て僕の指先を滑り落ち、どこにも留まることはない。
その時だった。
ふと、指先が凍りついたような感覚に陥った。画面の中央に、見慣れない通知が一件表示される。
『未配達の記憶があります』
差出人は「不明」となっている。スパムメールだろうか。あるいは、最近流行りの位置情報を利用した脱出ゲームの広告か。
「……くだらない」
独り言を呟き、スワイプして消そうとした。その瞬間、指先が不自然なほど冷たくなり、耳の奥――いや、胸の奥で、チリンと小さな鈴の音が鳴った。心臓が、妙なリズムで脈打つ。
僕は立ち止まり、今吐き出したばかりの息を見つめた。
――白い。
確かに、今は冬だ。でも、さっきまでこんなに、骨の髄まで凍えるような冷え込みだっただろうか。街の喧騒が遠のき、自分だけが世界から置き去りにされるような錯覚に囚われる。
通知が、僕の操作を待たずに勝手に開いた。
『受取場所:あなたの帰り道』
続いて地図アプリが起動する。示されたのは、普段の通勤路から一本入った、これまで一度も足を踏み入れたことのない、入り組んだ路地だった。
「何なんだよ、一体……」
気味が悪い。当然、無視して帰るべきだ。しかし、僕の足はまるで、見えない糸で手繰り寄せられるように、その路地の方へと歩き出していた。
路地裏は、街灯の光も届かないほど暗かった。アスファルトの隙間から凍りついた雑草が顔を出し、古い木造アパートの隙間から、誰かの家のカレーの匂いが微かに漂ってくる。
その懐かしさに胸を突かれながら進むと、一軒の店に辿り着いた。色褪せた緑色のサンシェード。錆びついたシャッター。看板には、辛うじて「花屋・はなぶさ」という文字が読み取れた。
そのシャッターの前に、場違いなほど清潔な、真っ白な宅配ボックスがポツンと置かれていた。
鍵はかかっていない。震える手で蓋を開けると、中には一通の封筒が入っていた。少し黄ばんだ、厚手の和紙。
表書きを見て、息が止まった。そこには、間違いなく僕の名前が記されている。その丸っこい、どこか拙い筆跡。それは、まだペンを握ることに慣れていなかった、十数年前の僕自身のものだった。
「僕が……自分に宛てて書いたのか?」
そんな記憶はない。
封筒の端に指をかけ、封を切ろうとした瞬間――。
――痛い。
猛烈な、割れるような頭痛が襲ってきた。視界がぐにゃりと歪み、アスファルトに膝をつく。頭の中に、ダムが決壊したかのように映像が流れ込んでくる。
それは、夕暮れ時の公園だった。オレンジ色の光が、錆びたジャングルジムを長く引き伸ばしている。
僕はそこで、誰かと向き合っていた。僕よりも少し背が低い、誰か。その子の顔だけが、逆光の中に溶けてしまって、どうしても思い出せない。
『忘れないでね』
その子が言った。鈴を転がすような、透き通った声。
『大人になっても、この場所で。指切り、だよ』
僕たちは小指を絡める。
――チリン。
あの鈴の音がした。その子の首筋に揺れる、小さな銀色の鈴。
「うっ……あ……」
頭痛が引いていくのと同時に、背後で音がした。ガラガラ、という重たい金属の音。振り返ると、閉ざされていたはずの「花屋・はなぶさ」のシャッターが上がっていた。中は真っ暗だ。冬の夜の闇よりもなお深い、底なしの静寂が広がっている。
その奥に、確かに誰かがいる。誰かが、僕を待っている。
――この中に入れば、失くした何かが戻る。
確信に近い直感が、僕を突き動かした。同時に、冷徹な理性が警告を発する。
――この中に入ったら、二度と元の日常には戻れないかもしれない。
明日の朝、満員電車に揺られ、デスクに向かい、無機質な数字を追いかける「僕」ではなくなってしまうかもしれない。
ブブ、とスマホが震え、画面の通知が消えた。地図も、不明の差出人も、まるで最初から存在しなかったかのように。
残ったのは、手の中にある一通の古い封筒と、目の前の暗闇だけだ。
僕は、深く息を吸い込んだ。路地の冷たさが肺を満たし、頭が冴え渡る。
封筒をコートのポケットにしまい、暗闇の中へと一歩を踏み出すと、背後でシャッターが静かに閉まった。
完全な暗闇。しかし、不思議と怖くはなかった。
鼻腔をくすぐるのは、冬の花の匂いだ。水仙、シクラメン、そして、少しだけ土の匂い。
「お帰りなさい、サトシ君」
暗闇の中から声がした。足元からぼんやりと光が灯る。それは電気の光ではなく、無数の小さな蛍のような光の粒だった。
光に照らされたのは、花屋のカウンターの向こう側に座る、一人の女性だった。彼女は、僕が思い出せなかった「あの子」をそのまま大人にしたような、穏やかな眼差しをしていた。
「君は……誰だ?」
「私は『記憶の預かり所』の店主。そして、あなたが置いていった約束の番人」
彼女の指先には、あの銀色の鈴が揺れていた。
「その封筒、開けてみて」
僕は言われるままに、ポケットから封筒を取り出し、中身を引っ張り出した。入っていたのは、一枚の手紙と、押し花になった一輪のスターチス。
手紙には、ただ一行、こう書かれていた。
『ぼくが幸せであることを、あきらめませんように』
あの日、公園で指切りをした相手。それは、転校していった幼馴染でも、初恋の相手でもなかった。
それは、未来の自分と交わした、あまりにも純粋で、それゆえに苦しい約束だったのだ。
中学に入り、高校を出て、社会という荒波に揉まれる中で、僕はいつの間にか「幸せであること」を後回しにするようになっていた。
期待に応えること。波風を立てないこと。効率よく生きること。その過程で、自分を愛する力を少しずつ削り取っていった。その痛みに耐えきれず、僕はあの日、一番大切な記憶を「未配達」のまま、心の奥底に封じ込めてしまったのだ。
「ずっと、ここで待っていたのよ」
女性――記憶の投影である彼女が、悲しげに微笑む。
「あなたがもう一度、自分を見つける準備ができるまで」
涙が溢れて止まらなかった。
大人のフリをして、何でも分かったような顔をして、でも本当は、ずっと独りで寒がっていたのは僕自身だった。
僕は手紙を胸に抱きしめた。
スターチスの花言葉は……。
――変わらぬ心。
「ありがとう。思い出せたよ」
僕がそう言うと、彼女の姿は光の粒となって解けていった。
店内の花々が一斉に光り輝くと、暗闇は温かな光へと変わり、僕は静かに目を閉じた。
次に目を開けた時、僕はあのシャッターの降りた花屋の前に立っていた。時刻はさほど進んでいない。スマホの画面を見ても、不審な通知も地図も残っていない。でも、ポケットの中には、確かにあの古い封筒が入っていた。
僕は再び歩き出した。夜道は相変わらず冷たいけれど、先ほどのような孤独な冷たさではない。
街灯の光が、まるで僕を祝福しているかのように柔らかく感じられる。
胸の奥の鈴の音は、もう聞こえない。でも、確かな重みとして、僕の心に残っている。
僕はスマホをポケットにしまい、前を向いた。
明日、会社へ行く前に、駅前の花屋に寄ってみよう。スターチスは、まだ売っているだろうか。自分への、本当の意味での「配達」を済ませるために。
夜の街に、もう一度白い息を吐く。
今度はほどけて消えるのではなく、未来へと続く道標のように、夜空へと昇っていった。
(了)
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