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四月三十一日の供え物|掌編小説

 その花びらを掬い上げたのは、全くの偶然だった。
 日付が変わる直前、コンビニの帰り道、街灯がうっすらと照らすアスファルトの上に、それは不自然に落ちていた。四月も末になり、ソメイヨシノはとっくに散り果て、葉桜が夜の闇に黒々と枝を広げている時期だ。それなのに、僕の足元には、今しがた枝を離れたばかりのような、瑞々しく、淡い桃色の花びらが一枚、ぽつんと横たわっていた。
 無意識に手を伸ばし、指先がその花びらに触れた瞬間、違和感が全身を走った。それは、植物の柔らかさではない。冷たく、硬質な感触。しかも、鉄錆のような、腐敗しかけた血の匂いも漂ってくる。
 突然、背後から「あ」という小さな声がした。振り返ると、黒い傘を杖のように突いた一人の女性が立っていた。季節外れのトレンチコートを着込み、首元には厚手のスカーフを巻いている。見た感じは若いが、そう見えるだけかもしれない。
 彼女は僕の手元を凝視し、困ったように眉を下げた。
「それ、私のなんです。こぼれちゃったみたいで」
 彼女の声は掠れていて、窓の隙間から空気が漏れ出すような音だった。僕が戸惑いながらも、掌の上の花びら――のようなものを差し出すと、彼女は「すみません」と言い、ピンセットのような道具で慎重に花びらを摘み取り、抱えていた小さな木箱に収めた。
 木箱の中を覗き見て、僕は言葉を失った。そこには、何十枚、何百枚もの花びらが詰まっていた。どれもどす黒い赤色で、うごめくように脈打っている。
「これ、は……」
 僕の短い問いに、彼女は少しだけ口角を上げた。「よくぞ聞いてくれた」、そう言わんばかりに。
「これは『怨み』ですよ、誰かがこの場所に置き忘れていった怨嗟の欠片かけら、と言った方が伝わりやすいでしょうか」
 理解が追いつかず、呆然としている僕をよそに、彼女は淡々と続ける。
「行き場を失った怨みや、言葉にならなかった絶望は、季節の終わりに形を成して地面に沈殿することがあるんです。私の仕事はそれらを回収して、正しい場所へ還すことです」
「仕事……ですか」
「信じられませんか?」
「正直、悪い夢でも見ている気分です」
「ふふ、そうですよね。でも、せっかく拾って頂いたんですから、一つ、聞いてみますか?」
 彼女は、木箱から先ほど僕が拾った花びらを取り出し、僕の耳元に近づけた。「目を閉じて」と言われ、その通りにすると、僕の脳内に「音」が流れ込んできた。
 ――痛い……殺して……。
 それは、若い女性の悲鳴だった。続いて、男の低い、呪詛の言葉。肉が裂ける音。風が木々を揺らす音は、まるで首を吊った誰かが揺れる音に聞こえた。遠くで鳴る踏切の警報音は、飛び込み自殺の予兆のように、不気味に響く。
 春の午後の、陽気の匂い……ではなく、鼻の奥を突き刺す死臭。
 花の香り……ではなく、腐敗した肉の匂い。
 大切な誰かの隣にいる時の高揚感……ではなく、誰かに裏切られ、殺される瞬間の恐怖と絶望。
 それら全てが、鮮烈な濁流となって僕の意識を侵食した。
「う……あ……」
 耐えられずに目を開けると、彼女はすでに花びらを箱に戻していた。先ほどの感覚は嘘のように消えたが、軽い頭痛に目がくらむ
「今のは……」
「去年の春、この場所で起きた事件の、晴らせなかった怨念です。犯人は捕まらず、被害者の女の人は、その無念を誰にも伝えられずに、この場所でずっと凍りついていたんです。それが今、春の終わりに耐えきれなくなって剥がれ落ちた。それを、あなたが拾ったんです」
 彼女は寂しそうに木箱を撫でた。
「怨みが強すぎると、こうして結晶化してしまう。でも、ずっとここに置いておくと、いつかその場所の空気を腐らせ、新たな悲劇を呼んでしまうんです。だから私が集めて、記憶の貯蔵庫へ運びます」
 僕は自分の胸に手を当てた。今の僕には、あんな風に結晶化するほどの怨みがあるだろうか。誰かに届かなかった言葉も、果たせなかった約束も、最初から持っていないような気がしていた。でも、本当は僕自身が気づいていないだけで、この胸の奥には、得体のしれない黒い塊が沈殿しているのではないか。そう思うだけで、手と足が震える。
「僕のも……ありますか?」
 そう聞くと、彼女は少し驚いたように僕を見つめ、不気味に優しく微笑んだ。
 彼女は木箱の奥から、一枚の、ひときわ色の薄い、しかし、血を吸ったように黒ずんだ花びらを取り出した。それは花びらというより、今にも消えてしまいそうな陽炎のようだった。
「これはあなたのものではありません。でも、あなたがこれから落とす『かもしれない』ものです」
 彼女は僕の手を取り、その掌に花びらを乗せた。今度は冷たくなかった。ほんのりと温かく、体温が宿っているようだったが、僕自身の体温を吸い取っているかのような、不快な温かさだった。
「いつか、あなたが心から誰かを怨み、あるいは自分自身の死を願った時、それは形になります。もし、その怨念が迷子になったら、私がまた迎えに来ますから」
 彼女はそう言い残すと、夜の闇に溶けるように歩き出した。黒い傘が街灯の光を弾き、カラン、カラン……と規則正しい足音が遠ざかっていく。
 気がつくと、僕は一人で立っていた。掌の上には、もう何もない。目の前には湿ったアスファルトと古びた街灯がある、いつもの風景が戻っていた。

 翌朝、目が覚めると、世界は何も変わっていなかった。アラームの音で起き、歯を磨き、ネクタイを締める。でも、駅までの道すがら、僕は無意識に足元を探している自分に気づいた。コンクリートの隙間に、植え込みの影に、昨日までは見向きもしなかった「何か」が落ちていないかと。
 ふと、風に乗って白い花びらが目の前を横切った。それは、もはや花びらではなく、僕を死へといざなう「供え物」のように思えてならなかった。

(了)


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