途中のまま、恋人だった | #風まかせ文芸部
改札を出たところで、彼が私の手から紙カップを取った。
『もうぬるいでしょ』 「まだ少し残ってる」 『そう見せてるだけで、たぶんもうおいしくない』
そう言って、彼は駅前のごみ箱にそれを捨てる。 頼んでもいないのに、と思うより先に、私は小さく息をついていた。
抗議するほどのことじゃない。 そう思ってしまうくらいには、私はもう彼のそういうところに慣れている。
戻ってきた彼は、信号が変わるのを待ちながら、私の右手に軽く触れた。
『冷たい』 「今日はちょっと風があるから」 『手、貸して』
貸して、と言われたのに、私は返事もしていない。 けれど次の瞬間には、彼の指が私の指の間に収まっていた。
私の手がそうされることを知っていたみたいに、迷いなく。
それがあまりにも自然で、私はふいに立ち止まった。
『どうしたの』
ヘッドライトの白が横断歩道に流れる。コンビニの揚げ物の匂い。遠くで鳴る発車メロディ。春の夜の、どこにでもある駅前の風景だった。
その真ん中で、私は彼の顔を見上げる。 どうして私は、この人と手をつないでいるんだろう。
その問いは、あまりにも遅く胸に浮かんだ。
私たちは付き合って一か月半になる。 けれど半年前、私たちは仕事のたびに言い合っていた。
私は彼のことを、正しすぎて息が詰まる人だと思っていたし、彼もたぶん、私のことを面倒な女だと思っていたはずだった。
それなのに今、彼の手の中にある私の指は、少しも戸惑っていない。
「……何でもない」
口が勝手にそう言った。
彼はそれ以上訊かなかった。『そっか』とだけ言って、信号が青に変わるのと同時に歩き出す。
私も隣を歩く。 手を振りほどくことはしなかった。 しなかった、ではなく、そうする発想が間に合わなかった。
彼の掌は、ちょうどいい温度だった。
知っている温度だ、と思った瞬間、背中の奥が薄く冷えた。
部屋に戻って、私は洗面台で何度も手を洗った。
泡立てたソープの甘い匂いが鼻につく。水は冷たいのに、右手だけ熱が残っている。さっきまで触れられていたところに、まだ体温が貼りついていた。
鏡の中の私は、普通の顔をしていた。 普通に仕事をして、普通に恋人と帰ってきた女の顔。
私は蛇口を閉める。 静かになった洗面所で、自分の呼吸だけが小さく響いた。
私は彼のことが好きなのだろうか。
考えてみても、胸のどこにも熱はない。 会いたくてたまらないとか、触れたいとか、そういう分かりやすい感情はもう見つからなかった。
むしろ逆で、今日みたいに不意に顔を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、胸の奥がひやりとすることがある。
ああ、またこの人だ、と思う。 そう思った直後にはもう、口が先に笑っているのに。
私は彼を嫌ってはいない。嫌いだと言い切るには、彼はあまりにもやさしい。 けれど、愛しているかと聞かれたら、今の私はたぶん答えられない。
それなのに、体だけがまだ覚えている。
彼に触れられたとき、どのくらいの力なら自然か。 どんな声で返せば、この関係がきれいに見えるか。 彼が少し疲れているとき、何を言えば安心したみたいに目を細めるか。
知っている。 知ってしまっている。
それが、気味悪かった。
「……気持ちだけが、もういない」
口に出してみると、その言葉だけがやけに正確だった。
私は彼の前で、恋人のように振る舞うことができる。 できてしまう。
甘える声も、やわらかい返事も、さりげない気遣いも。 ひとつひとつは小さいのに、それが積み重なると、ちゃんと親しい二人に見える。
でもそのたびに、少し遅れて別の私が追いついてくる。
今の、ほんとうに私だった?
そう確認する頃には、もう次の会話が始まっている。
半年前の彼は、今よりずっと腹の立つ男だった。
会議室の長机を挟んで向かい合うたび、私は彼の言い方に棘を感じていた。 結論が先に来る。余計な情緒がない。 間違っていないぶん、なおさら癪に障る。
『その修正、今日じゃなくてもいいですよね』 「必要だから言ってるんだけど」 『必要なのは分かります。でも優先順位の話です』 「じゃああなたの優先順位を先に説明して」
周りが息を潜めるようなやり取りを、私たちは何度もしていた。 気が合わない。そう思っていた。 というより、合いたくないと思っていた。
最初に少しだけ歯車がずれたのは、雨の日だったと思う。
残業で遅くなって、エントランスを出たところで傘を忘れたことに気づいた。 舌打ちしそうになった瞬間、頭上に影が差した。
『駅までなら一緒に行けます』
見上げると、彼が傘を差していた。
「別に平気。走るし」 『その靴で?』 「……いちいち感じ悪い」 『じゃあ、感じ悪いまま送ります』
腹が立つのに、彼はそれ以上何も押しつけなかった。 傘の角度を少しだけ私側に寄せ、腕が触れそうで触れない距離を保って歩く。
信号待ちの間も無言で、駅に着くころ、ただ一度だけ訊いた。
『温かいの、買いますか』 「いらない」 『分かりました』
それだけだった。 親切を断られた不満も、恩を売る顔もない。 ただ必要なことだけ差し出して、いらないと言われたら静かに引く。
そのあたりから、私は少しずつ調子を狂わされていったのかもしれない。
次に思い出すのは、資料室で青いファイルを取ってくれたことだ。
会議で言い合ったあと、私は棚の前でむきになって探していた。 彼は扉を開けると、何も言わずに一番上の段からそれを取って私に差し出した。
『これですよね』 「頼んでない」 『そうですね』 「じゃあ何で持ってくるの」
彼はほんの少し考えてから答えた。
『困ってそうだったので』
腹を立てる準備をしていたのに、その答えは拍子抜けするほどまっすぐだった。
計算されたやさしさならまだ拒めた。 けれど彼は、私が嫌な顔をする余地ごと先に片づけてしまう。
そういうことが何度かあった。
私が苦手な食べ物を覚えていること。 会議の前、私の机のコーヒーが空になるタイミングを知っていること。 少し声が荒くなった日には、余計なことを言わずに早めに話を切り上げること。
彼の「やさしい」は、いつも正確だった。
正確すぎて、私はだんだん、自分が嫌な女になる権利を失っていった。
不機嫌になる前に整えられる。 怒る前に引かれる。 拒絶しようとすると、もう拒絶が必要ない形に直されている。
彼のやさしさの中では、私はちゃんと嫌な女にもなれなかった。
たぶん私は、それを居心地のよさと勘違いしたのだ。
翌日の夕方、彼から短いメッセージが届いた。
『今日、帰り遅くなる?』
画面を見つめる。 返したくないわけではない。 返したくないと言い切れるほど、私はもう自由じゃなかった。
少し時間を置いてから、私は打つ。
「たぶん少し」
もっとそっけなくてもよかったはずだ。 けれど私の指は、関係を壊さない言葉を選んだ。
その日、帰り際にエレベーターで彼と一緒になった。 狭い箱の中で、彼は私の紙袋を見て言う。
『重くない?』 「平気」 『持つよ』 「いい」
私は短く返す。 今日は少し冷たくしようと思っていた。 意識して距離を取ってみれば、何かが変わるかもしれないと。
彼は一拍だけ黙ってから、『分かった』と言った。
それだけで引く。
十二階に着くまで、彼はそれ以上何もしない。 押しつけない。気まずくもしない。ただ静かに隣にいるだけ。
その沈黙のほうが、私には堪えた。
扉が開く直前、私は自分の口が勝手に動くのを止められなかった。
「……ファイルだけ持って」
言った瞬間、背筋が冷える。
彼はごく自然に私の右手から資料だけを受け取った。紙袋には触れない。ちょうどいい線だけ守る。
『うん』
たったそれだけ。
私は今、距離を取ろうとしたはずだったのに、数秒後には自分で彼の入る余地を作っていた。
この関係は、私が少し退いても続いてしまう。 彼がやさしいからだけじゃない。
私の体も、声も、もう続け方を覚えてしまっているからだ。
その夜、駅前の小さなカフェに入った。
窓際の席に向かい合って座る。彼はブラックコーヒー、私はミルクティー。 店内には低いピアノの曲が流れていた。カップの触れ合う音。甘い湯気。窓ガラスに映る街の光。
『今日は静かだね』 「そう?」 『うん。でも、無理に喋らなくていい』
それはたぶん、本当にやさしい言葉だった。
けれど私は、そのやさしさに守られながら、同時に身動きが取れなくなっていることを知っていた。
店員が飲み物を置いていく。 彼がブラックに口をつける前に、私は反射みたいに言った。
「またそれ、飲みすぎじゃない。今日で何杯目?」
言ってから、喉の奥がひやりとした。
その台詞は彼のものだった。 細かいことを覚えていて、相手の体調をさりげなく気にして、重くならない温度で差し出す。
彼がずっと私にしてきたことだ。 私は今、それをそのまま返している。
彼はほんの少し目を見開いて、それからいつもの穏やかな顔に戻った。
『三杯目。反省してる』 「してない顔してる」 『じゃあ、反省してる顔してみる』
そんなやり取りを、たぶん私は前にもしている。 していないとしても、してきたみたいな滑らかさがあった。
外から見れば、きっと仲のいい恋人同士にしか見えない。
そのことが、決定的に怖かった。
私は彼に合わせているだけじゃない。 彼のやり方を、自分の中で再生し始めている。
彼が私にしてきたみたいに、私も彼の小さな不調に気づいて、先回りして、やわらかい言葉で整えてしまう。
愛している自信なんてもうないのに、それでもできてしまう。
この関係はたぶん、心がきれいに揃っていなくても続いてしまう。 習慣と距離と、身体の覚えたやさしさだけで。
店を出ると、小さな雨が降っていた。
街灯の下でだけ見えるような、細い雨だった。 彼が折りたたみ傘を開く。私は何も言わず、その中に入る。
肩が触れそうで触れない距離。 昔、雨の日にこうして歩いた記憶が、妙に鮮やかに蘇る。
『寒くない?』 「平気。あなたのほうこそ、最近ちょっと寝不足でしょ」
彼が小さく笑った。
『ばれてる』 「分かるよ、それくらい」
言ったあと、私ははっきり理解した。
私はもう、彼を愛しているかどうかを確かめないまま、この関係を続けられる。
続けられてしまう。
彼のやさしさを学んでしまった私と、私の応じ方を信じきっている彼。 その二人が並んで歩けば、外から見えるのはきっと、穏やかで壊れにくい恋人同士の形だけだ。
途中なのに、完成しているみたいな顔をしたまま。
帰宅して、私は部屋の明かりをつけなかった。
窓の外の光だけが床に細く落ちる。 スマホには彼からメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。あったかくして寝て』
私は画面を見つめる。
胸は静かだった。苦しくもないし、熱くもない。 ただ、透明な諦めだけが底のほうに沈んでいる。
返信欄を開く。指は迷わない。
「うん。あなたも」
送ってから、スマホを伏せる。
その言葉が本心かどうかは、もうどうでもよかった。 本心でなくても届く。届いてしまう。そのことを私は知っている。
たぶん私は、もう彼を愛していない。
でも、愛しているかどうかを確かめないまま、この先も彼にやさしくできる。
彼が欲しがる前に差し出して、壊れない距離だけを残して、穏やかなほうへ関係を整えることができる。
彼みたいに。
そうしてこの関係は続いていくのだろう。 途中のまま。どこにも辿り着かないまま。
それでも外から見れば、何ひとつ問題のない恋人同士として。
窓に映る自分の影は暗くて、表情がよく分からなかった。
分からないままでいい、と思った。 そのほうが、もう楽だった。
