張りつめたまま、休んでいた | #風まかせ文芸部
病室は、静かすぎた。
静かな場所で休める人がいることを、私はうまく信じられない。
白いカーテン、白い天井、白いシーツ。消毒液の匂いだけが、色のない空気の中でやけにはっきりしていて、息を吸うたび喉の奥に薄く残った。点滴の落ちる音は小さい。小さいのに、眠ろうとすると耳の近くまで寄ってくる。
ぽつ。
ぽつ。
その間に、何か悪いことが進んでいる気がした。
枕元のスマホに触れる。
画面は暗いままなのに、掌だけ汗ばんだ。持ち上げる前から、指先がこわばる。連絡が来ていても怖い。来ていなくても、もっと怖い。
入院して四日目だった。
事故そのものは大したものではなかった、と医師は言った。打撲と軽い捻挫。しばらく安静にしていれば戻れる。
身体の話なら、そうなのだと思う。
ただ、私の中では、あの日から何も止まっていなかった。
通知を開く。
上司から短いメッセージが一件。
『返事は気にしなくていいです。まずは休んでください。こっちはこっちでやるから』
そこまで読んで、親指が止まった。
まずは休んでください。
やさしい言い方だ。責める響きはひとつもない。
なのに、その次の一文だけ、なぜか体温の低い場所に落ちた。
こっちはこっちでやるから。
それを見た瞬間、肩の奥がまた硬くなる。
大丈夫、という意味のはずだった。わかっている。わかっているのに、言葉だけが別の形に変わる。
もう手を出さなくていい。
いなくても回る。
今は触らないで。
戻ってきたときに、話すことがある。
そんなふうに、書かれていない文が勝手に増えていく。
私はスマホを伏せた。画面を見ないようにしても、今読んだ言葉はまぶたの裏に残っている。
こっちはこっちでやるから。
たったそれだけの一文が、病室を急に狭くする。
あの日も、最初は、たった一行だった。
『これ、最終確認終わってますか?』
そのメッセージを見た瞬間だけ、今でもはっきりしている。
会議前。モニターの白い光。机に置いた紙コップの冷めたコーヒー。別のチャットで飛んでくる催促。秒針みたいに減っていく残り時間。
確認が一つ、残っていた。
ほんの一つだった。
でも私は送った。
先に回して、あとで整えれば間に合うと思った。というより、そう思うしかなかった。いつもそうしていたからだ。多少崩れても、後で私が拾えばいい。とりあえず止めないこと。先に詰まらせないこと。その場を持たせること。
送信。
直後に一行。
それから振動。
また振動。
スマホが掌の中で細かく震えた。小さい音なのに、心臓のすぐ横で鳴ったみたいにびくっとした。
私はすぐに謝ろうとした。状況を確認しようとした。誰に先に連絡するべきか考えた。
その次の記憶は、もううまく並ばない。
改札の光。階段。足元を見ていなかったこと。浮く感覚。白。
目が覚めた場所も、白かった。
病室の外を、ワゴンの車輪が通る。
遠くで看護師同士が短く話して、笑う。やわらかい声なのに、胸だけが勝手に硬くなる。笑い声は安堵の音のはずなのに、なぜか自分とは関係のないところで何かが片づいていく音に聞こえた。
匂いは消毒液。
音は点滴。
言葉は気遣い。
なのに身体だけが、ずっと叱られる前みたいにしている。
おかしい、と自分でも思う。
でも、身体は理屈を待ってくれない。
昼すぎ、別の先輩から電話が来た。
「起きてた? 無理なら切っていいからね」
「……大丈夫です」
反射だった。
喉が乾いていて、声は少しかすれたのに、それでも最初に出るのはその言葉だった。
「痛みどう?」
「だいぶ平気です。ご迷惑おかけして、すみません」
「いや、そこじゃないから。今はほんとに休んで。こっちにいるし」
こっちにいるし。
その言葉は、耳に入った瞬間はやさしい。
なのに電話が切れたあとで、じわじわ怖くなる。
こっちにいる。
どこに。
何のために。
私がいない場所に、私の代わりに、みんなが集まっている気配だけが残る。
私は通話履歴の画面を見たまま、しばらく動けなかった。
病室はさっきと同じなのに、電話の前より音が少なくなった気がする。静かになったのではなく、私だけが何かから置いていかれたみたいな空き方をしていた。
その夜、私はスマホのメモを開いて、謝罪の文章を書き始めた。
『このたびは、私の確認不足により――』
違う。
消す。
『私の判断が浅く、関係各所にご迷惑を――』
もっと違う。
消す。
『本件については、私の責任で――』
責任。
その言葉だけ残して、また全部消す。
何度も書いて、何度も消した。
正しい謝り方があれば、傷は浅くて済む気がしていた。きちんと順番を決めて、言葉を整えて、先に自分の非を認めて、相手が言いたいことを言いやすくしておけば、致命傷にはならない。
そういうふうにしか、私は場面を乗り切ってこなかった。
ベッドの上で、復帰初日の練習をする。
朝、上司の席へ行く。
まず謝る。
会議室に呼ばれたら、言い訳はしない。
担当を外されても受け入れる。
どこまで影響が出たか聞かれたら――
そこで想像の中の扉が開く。
会議室の蛍光灯が白い。椅子の脚が床を擦る音がする。資料をめくる乾いた音。誰かが息を吐く。
私は立ったまま、何度も頭を下げる。
あのとき、どうして確認しなかったの。
今まで何を見ていたの。
大丈夫って言っていたよね。
そこまで聞いたところで、はっと目を開ける。
天井。点滴。消毒液。
私はまだ病室にいる。
自分の呼吸だけが荒れていて、それがいちばん恥ずかしかった。
翌朝、同期からメッセージが来た。
『ほんとに今は休んで。案件のことはもう回ってるし、気にしなくていいから。こっちいるからね。あなた一人で戦ってるわけじゃないんだから』
私はその文章を一行ずつ読んだ。
案件のことはもう回ってる。
気にしなくていい。
こっちいるから。
あなた一人で戦ってるわけじゃない。
やさしい。
全部、やさしい。
やさしいのに、そのたびに胸が狭くなる。
一人で戦ってるわけじゃない。
その通りだ。たぶん最初から、私一人で支えていたわけじゃない。
それなのに、私はずっと、自分が取りこぼしたら全部崩れるみたいな顔で仕事をしてきた。
そうしないと、自分がそこにいていい理由が減る気がしていたからだ。
そこまで考えて、私はスマホを強く握り直した。
考えたくない。
今それを認めたら、たぶん立っていられない。
退院の日の空気は薄く冷たくて、病院の外の匂いがやけに生々しかった。排気ガスと、遠くのパン屋の甘い匂いと、風で乾いたコンクリートの匂い。全部ちゃんと現実で、ちゃんと生活の匂いなのに、私は駅へ向かう間もずっと、掌の中のスマホだけを確かめていた。
画面の中には、送らないままの謝罪文が残っている。
改札を抜ける。
会社の最寄り駅。
信号。
ビルのガラスに映る自分の顔は、思ったより普通だった。
その普通さがいちばん嫌だった。
中身は全然普通じゃないのに、外側だけ何もなかったみたいだ。
エレベーターの中で、私はもう一度だけ文章を見返した。
謝る順番。言うべきこと。削るべき言い訳。
扉が開いたら、すぐ使えるように。
でも、扉の向こうは、あまりにもいつも通りだった。
誰かのキーボード。
コピー機の駆動音。
紙コップのふたが閉まる音。
コーヒーの匂い。
誰かが「今日、外あったかい?」と話している声。
私がいないあいだに世界がひっくり返っている気配は、どこにもない。
「あ」
最初に気づいた後輩が、椅子を半分引いたまま振り返った。
「戻られたんですね。体調、大丈夫ですか?」
また、その言葉だ。
大丈夫ですか。
私が答える番なのに、喉が一瞬動かなかった。
「……ご迷惑、かけて」
ようやく出たのは、用意していた文じゃなくて、その一言だけだった。
「いや、ほんと無理しないでくださいね」
後輩の顔には、責める色がひとつもない。
それが逆に、最初は現実味を失わせた。
周りの席からも「おかえり」「もう来て平気なの?」と、仕事より先にそんな声が飛んでくる。
私はその一つ一つに小さく頭を下げながら、どこで本題に入るのかを待っていた。
今かもしれない。
次かもしれない。
そのうち誰かが、あの件だけど、と切り出す。
上司が会議室から出てきて、私を見つけた。
「来るの、少し早かったんじゃない?」
柔らかい声だった。
私は反射的に背筋を伸ばす。
「この前の件、本当に申し訳ありませんでした。確認が――」
「ああ、あれ」
上司は少しだけ考える顔をして、それから軽く首を振った。
「一回ばたついたけど、もう整理ついてるよ。先方にも説明済んでるし、流れも戻ってる。だから今は、仕事よりまず自分の状態見て」
その言葉を理解するまでに、数秒かかった。
一回ばたついた。
整理ついてる。
流れも戻ってる。
全部、私が病室で想像したものと違う。
違いすぎて、むしろ聞き取れない。
スマホの中には謝罪文が残っている。
頭の中には頭を下げる順番が残っている。
でも目の前の現実には、そのどれを差し込む隙間もなかった。
「むしろ、こっちが反省したくらいだよね」
少し離れた席の先輩が、苦笑混じりに言った。
「いつも先に『大丈夫です』って言うから、本当にそこまで抱えてると思ってなかった」
「ほんとそれ」と別の人も続く。「救急車呼ぶってなったときも、資料だけ送りますって言ってたって聞いて、何それってなった」
小さく笑いが起きる。
嘲笑ではなかった。困ったような、呆れたような、でも底にあるのは怒りじゃなくて安堵に近い笑い。
「こっちはこっちでやるから、って送ったの、そのままの意味だったんだけどな」
上司も少しだけ笑う。
その言葉が、病室で読んだときと全然違う音で耳に入る。
そのままの意味。
そのままの意味でよかったのに。
私はどうして、あんなふうにしか受け取れなかったんだろう。
同期がこちらへ歩いてくる。
ベッドの上で何度も読み返したメッセージをくれた人だ。
彼女は私の前で立ち止まって、少し眉を寄せた。
「ほんとに、一人で戦わなくていいからね」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
切れた、というより、ずっと引っ張り続けていたものの力が急になくなった。
喉が熱い。
肩が落ちる。
息がうまく入らない。
視界の端がにじむ。
だめだと思った。
ここで泣くのは困る。
みっともない。
ちゃんと笑って、ありがとうございますって言って、以後気をつけますって言えばいい。
そう思うのに、指から先に力が抜けた。
ずっと握りしめていたスマホが、少しだけ掌の中で滑る。
落ちない。けれど、握り直す前に、涙のほうが先に落ちた。
「あ……」
情けない声が出て、それきり言葉が続かない。
私は立ったまま泣いた。大きな声ではなかったけれど、止めようとするたび余計に喉が震えて、うまく息ができなくなる。
それは、怒られなかった安心だけじゃなかった。
むしろ、自分がずっと用意してきたものが何ひとつ使われなかったことに、身体のほうが先に追いつけなくなったのだと思う。
謝り方。耐え方。傷の浅い受け止め方。
そういうものを、私はいつも先に準備してきた。
準備していれば、生き延びられる気がしたから。
でも今日は、その全部が行き場を失った。
一瞬だけ、フロアが静まる。
それから誰かが、ふっと笑った。
「よかった」
先輩が、本当にほっとしたみたいな顔で言う。
「やっとそういう顔するんだね」
「今日、ようやく仕事してない顔してる」
別の誰かがそんなふうに言って、空気が少しだけやわらぐ。
笑われているのに、不思議と痛くない。
受け止められている音だった。
私は泣きながら、うまく笑えないまま立っていた。
スマホはもう、警報器みたいに熱くなかった。ただ掌に戻ってきた、小さな重さだった。
キーボードの音がまた始まる。
誰かが資料をめくる。
コーヒーの匂いが少し近くなる。
さっきまでと同じ職場のはずなのに、そこに立っている自分だけが少し違う。
たぶん私は、またすぐに変わったりはしない。
また反射みたいに「大丈夫です」と言うかもしれない。
先に抱えて、あとから苦しくなることも、きっとある。
それでも、と思う。
泣いた私を見ても、誰も困った顔で離れていかなかった。
何も持てていないみたいな顔をしていても、ここにいていいのだと、今日はじめて身体のほうが少しだけ覚えた。
掌の中の四角い重さが、ようやくただのスマホに戻る。
そのことだけが、遅れてきた呼吸みたいに、静かに胸の奥でほどけていった。
