メタな虐待防止研修論6‐4
4.虐待体質からの脱却~「ノリ」の乗り換え~
(1)権力性を有する教育で虐待防止は困難
① 教育の権力性
虐待防止研修を実施し、職員間のコミュニケーションを改善したつもりでもabuse/虐待事案の発生がなかなか収まらないこともあると思います。このような事態に陥るのは組織自体に問題があるからです。当然、介護サービスの適切な管理も行われていないということでしょう。
実際にabuse/虐待が多発する組織的虐待体質の介護施設が存在するのです。このような介護施設においては、一般的な対応策や通例の虐待防止研修では十分な解決に至らない可能性が高いと思われます。なぜなら、ありきたりの教育では虐待をなくすことは困難だと思われるからです。
虐待防止研修は教育的な営為そのものであると言えます。そして、教育には教育する側と教育される側という、介護と同じ関係の非対称性(抑圧性・権力性・暴力性)があり、歴然とした権力の傾斜があります。そして、虐待の背後にも関係の非対称性、権力関係があるのです。
そうすると、虐待と同じ権力性を有した教育によって虐待を防ぐことができるのかという根本的な問題があると思うのです。毒をもって毒を制すということなのでしょうか?権力をもって権力を制するということが果たして可能なのか、慎重に検討する必要があると思います。
② 「教育」「勉強」「学習」概念の比較
成人教育は自己主導性、経験の活用、目的志向、実用性、内的動機づけ等が重視され、子供対象の教育とは異なるとされています。
私は成人教育理論(アンドラゴジー :andragogy)の最も重要な特徴は自己主導性だと思います。自己主導性とは自分自身で学習目標を設定し、学習計画を立て、学習プロセスを管理することです。
虐待防止研修を有意義なものにするためには、この自己主導性が大切だと思います。しかし、一般的な虐待防止研修に参加する職員には自己主導性が確保されているのでしょうか?
残念ながら、私は疑問に思っています。
「教育」という概念は、教育する(能動態)と教育される(受動態)がセットとなっている概念です。しかし、「勉強」や「学習」という概念は自動詞的、つまり、動作の主体がその動作を自分だけで完結させ、他に及ぼす影響がない概念です。確かに、勉強は「勉強する⇔勉強させられる」と能動態でも受動態でも表現はできますが、勉強させられたとしてもあまり効果はないように思われます。
「勉強する」や「学習する」は、自動詞的・中動態的な性質を持つため、他者への働かけ、つまり権力性が希薄であるように感じられます。
ということは、成人教育の自己主導性を尊重すると、「成人勉強」や「成人学習」という表現の方が適切であるように感じられるのです。
「教育」という概念は、教育する者の目線が強すぎる概念のように思われるのです。ですから、成人教育理論でいう自己主導性を強調するためには、 虐待防止研修は「教育」という概念よりも、「勉強」とか「学習」という概念で捉えた方が良いように思います。
(2)「虐待体質」の組織
なぜ、特定の組織、介護施設ではabuse/虐待が止まらないのか、真剣に考えておく必要があります。abuse/虐待が多発し、虐待が止まらないような介護施設は「虐待体質」の組織なのだと思います。
虐待が止まらない虐待体質の組織、介護施設では、皆、「世人」(第3章4)として生きているのでしょうし、スピードを求める業務日課至上主義(第4章2)に支配されています。
そして、日本は同調圧力が強い社会です。このような環境が、組織全体において虐待やabuseを許容し、それを助長する土壌を形成していると考えます。
「虐待体質」組織を考える際に、「第4章2組織コード要因」で紹介した千葉雅也さんの「環境コード」という概念が有益だと思います。
千葉雅也(哲学者)さんは、私たちは環境依存的であり、環境(職場)の求め、環境コードまたは組織コードに従ってしか生きられない存在であると指摘しています。
私たちは「環境依存的」な存在であると言える。・・・
・・・「環境」という概念を「ある範囲において他者との関係に入った状態」という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。・・・・
・・・「他者」とは、「自分自身でないものすべて」です。
環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。
環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。
また、千葉雅也さんは職場内の無意識的な習慣化された「こうするもんだ」という行動について次のように解説しています。以前にも紹介しましたが再掲しておきます。
日々の行動は、深く考えなくてもできるように習慣化されているものです。会社や学校といった環境のなかで、他者への対応がスムーズに、無意識的にできるようになっている。環境には「こうするもんだ」がなんとなくあって、それをいつのまにか身につけてしまっている。
「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられています。
メールの書き方の「こうずるもんだ」は、好感を与えるという目的のためであり、そしてそれは「利益を上げる」という会社の目的につながっている。環境には目的がある。
私は、この職場内の習慣化された行動も構造的なabuse/虐待の発生装置の一つだと思います。この習慣化された行動、組織コードに私は「業務日課至上主義」と命名しました。(第4章2参照)
介護施設の組織コード・業務日課至上主義では、当事者(入居者)の訴えにいちいち対応すべきではなく、決められた日課を効率よくこなしていく行動が暗黙裡に、習慣的に推奨されているのです。
冗談のような話ですが、入居者の訴えに対応している新人職員がベテランの職員から「入居者にかまってないで、きちんと仕事しなさい」と指導されるという事態が生じているのです。
先輩職員は、新入職員に職場内の「こうするもんだ」(コード・暗黙裡のルール)を教育しているだけなのでしょう。このような「こうするもんだ」の延長線上にabuse/虐待があるのです。
(3)虐待体質からの脱却は「ノリ」からの自由
千葉雅也(哲学者)さんは、日本ではみんなと同じでない人、いわゆる「ノリが悪い人」は排除されると指摘しています。
日本社会は「同調圧力」が強いとよく言われますね。「みんなと同じようにしなさい」―それは、つまり「ノリが悪いこと」の排除です。「出る杭は打たれる」のです。
さらに、千葉雅也さんは、職員が「周りに合わせて生きている」のは組織・職場の目的が皆に共有されているからであり、それは強制的な事態だと指摘しています。 以下の引用も第4章2で紹介しましたが、再掲します。
私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=「共同化」している。
そこで、次のように定義しましょう。
環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向付け」である。それを環境のコードと呼ぶことにする。
言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。
これは強制的な事態なのです。なんとなく深く考えずに生きている状態では、その強制性を意識でいていないかもしれません。あるいはそれに嫌気を感じている場合もあるでしょうが、私たちは何とか生き延びるために、周りに合わせて「しまって」いるものです。
千葉雅也さんは、習慣的、中毒的に「こういうもんだ」というコードに合わせてしまっている状態を「ノリ」と表現しています。
会社なり学校なりのコードに合わせてしまっている。習慣的に、または中毒的に、「こういうもんだ」と、ある特殊なしゃべり方や動きをしてしまう。そういう状態は、ある環境において、いかにもその環境の人らしく「ノっている」ということである。
環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリと表すことにしましょう。
ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
本書ではノリという言い方をまず、環境への「適応」。「順応」という意味で使います。
虐待体質の介護施設、つまり、abuse/虐待が止まらない介護施設では職場の「コード」「ノリ」自体に虐待的要素があるのです。
虐待体質の職場の「こうするもんだ」に従えば入居者を蔑ろにしてしまうことになるのです。しかも、それは無自覚で無意識的または慣習的に行われているのです。千葉雅也さんも次のように指摘しています。
私たちは、いつでもつねに環境のノリと癒着しているはずです。
たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなく生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない。
abuse/虐待が頻発し日常化している虐待体質を有する介護施設の「コード」「ノリ」から自由になるためにはどうしたらよいのかが課題なのです。
(4)勉強の勧め~「ノリ」の乗り換え~
さて、このような職場の「コード」「ノリ」「こうするもんだ」からどのようにしたら距離を取れるようになるのでしょうか。
千葉雅也さんは、そのヒントは「言語」にあるとしています。
自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。
ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?
丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう ― 環境に属していながら同時に、そこに「距離をとる」ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。
その場にいながら距離をとることを考える必要がある。
このことを可能にしてくれるものがある。
それは「言語」です。・・・
千葉雅也さんは、人間が、言語を習得するには他者から学ぶ必要がありますし、それは、環境コードを刷り込まれること、つまり洗脳でもあると指摘しています。
・・・言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。
しかし、千葉雅也さんは、言語は環境コードからの離脱、脱洗脳の原理でもあるとも言っています。
・・・言語の、ある環境での偏った意味づけは必然的ではなく、いつでもバラすことができる、別の意味づけの可能性がつねに開かれている、ということになります。
・・・つまり、言語の他者性は、環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の、両方の原理になっている。
さらに、千葉雅也さんによると、私たちは言語的ヴァーチャル・リアリティを生きているとされています。
・・・私たち人間は、(物質的)現実そのままを生きてはいません。言語というフィルターをつねに通している。というか、「言語によって構築された現実」を生きている。あるいは次のように言い換えられるでしょう。
人間は「言語的ヴァーチャル・リアリティ(VR)」を生きている。
そして、千葉雅也さんは、勉強は、ある環境コードから別の環境コードへの引っ越しだとしています。
勉強とは何をするかと言えば、それは別のノリへの引っ越しである。
英語をちゃんとやれば、英語的なノリへの引っ越しが起こる。社会学をちゃんとやれば、たとえば「労働」とか「差別」の問題とか、そういうことを軸に世の中を見るというノリが身につくでしょう。・・・
私たちは、言語によって構築された現実(言語的ヴァーチャル・リアリティ)を生きています。ならば、現実を変えるためにはノリを替えていく、言語(言葉)を変えていく必要があるということになるでしょう。
私たちは言語を用いてコミュニケーションし、思考しています。言語的ヴァーチャル・リアリティを生きているとすれば、虐待体質から脱却するためには、普段、習慣的に使用している言葉、ボキャブラリー、概念を問い直し、あまり使い慣れない違和感のある言葉、概念に挑戦することが必要かもしれません。
例えば、介護の世界で使い慣れた言葉・概念である、人権、尊厳、寄り添う、本人らしさ、個別ケア、自立、意志決定、支援、ニンチ、ADL、IADL、ニーズなどの概念を問い直すこと。
または、実存、世人、コード、パノプティコン、権力、抑圧、abuse、空虚放置、暴力、犯罪、規律訓練、生‐権力、生政治、文化政治、剥き出しの生、環境コード、CADLなどの使い慣れない違和感のある言葉・概念に挑戦してみるこことも大切だと思います。
千葉雅也さんは慣れ親しんだノリから別のノリへの引っ越しには居心地の悪さ、引き裂かれるような状態がつきものだと指摘しています。
勉強とは結局、別のノリに引っ越すことですが・・・以前のノリ1から新しいノリ2へと引っ越す途中での、二つのノリの「あいだ」です。・・・二つのノリのあいだで、私たちは居心地の悪い思いをする—
以前のノリ1と別のノリ2のあいだで自分が引き裂かれるような状態。
虐待体質の介護施設で働く者たちがその組織のノリから離脱するのは、かなり居心地が悪く、違和感があることでしょう。
abuse/虐待が常態化している虐待体質の介護施設では、違和感のある言葉、概念を、シラケることを覚悟でつかう。研修では使い慣れた言葉を問い直し、違和感のある言葉、概念を使う訓練の場にすることが必要なのではないでしょうか。
虐待体質の組織を変えていくためには、教育ではなく、勉強が必要だということだと思います。
