メタな虐待防止研修論6‐3
3.感情教育の可能性
当事者(お年寄り)の尊厳を守る介護にとって必要なのは、リチャード・ローティ(Richard McKay Rorty、米国の哲学者1931~2007)の言う「感情教育」でしょう。より一層、感情に訴えることが求められているのかもしれません。
感情教育とは、物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯を育む。
入居者の「尊厳」「人権」を守るために、介護教育の中に、感情教育を取り入れていく必要があると思います。
(1)「残酷さ」の自覚と「われわれ」の範囲の拡大
abuse/虐待の抑止・防止については、人間の「残酷さ」を前提にしつつ、残酷な状況に置かれている人々への共感を基本とする必要があるのではないでしょうか。
どうすれば私たちは「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのか。共感を育むことができるのか。
つまり、自ら加害者となりえるという気づきがなければ、自らの「残酷さ」を抑制できなくなるということだと思います。また、いくら人間の尊厳、人権擁護を謳ったとしても、「われわれ」の範疇に入らない、入りづらい人々がいればジェノサイドやabuse/虐待の抑止にはならないことをみてきました。
やはり、問題は、自らの「残酷さ」の無自覚と、本質主義による「われわれ/やつら」の線引きにあるのです。
人間の尊厳、人権擁護、人権教育が、abuse/虐待の抑止に無力であるとすれば、どうしたらよいのか。
朱喜哲さんは、ローティのいう「感情教育」(sentimental education)に希望を見出しているようです。
では、本質主義を斥けた上でなお人権を擁護し、ジェノサイドに抗するためには何ができるというのだろうか。ローティの回答はシンプルである。私たちにできることは「感情教育」しかない。感情教育とは、物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯を育む。
すぐれたフィクションやルポルタージュは、その時点で「われわれ」に含まれない対象の感情や痛みに対してわれわれが共感しうるということを説得するのではなく、テキストを通じてただ共感を育む。本質主義が何らかの論証が必要なのに対して、感情教育は情緒に訴えることで目的を果たすのである。
ローティは理論ではなく、感情に訴える文芸や報道・ルポルタージュ等による共感の醸成を「感情教育」としています。
われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない。
そして、「われわれ」の拡張には二つの方向性、要素があるのだと朱喜哲さんは、指摘しています。
「われわれ」を拡張するとは、第一には、残酷さのなかにある被害者に共感することによって実践されるものでした。しかし同時に、加害者もまたわれわれと同類だと気づくことによっても、「われわれ」は拡張されるのです。
「われわれ」の拡張は、被害者に向かってと、加害者に向かっての二方向があるということを忘れてはいけないと思います。
(2)感情教育と単称名辞の置換
感情教育のイメージはわかるのですが、それでは具体的な方法はどうすればよいのでしょうか?
朱喜哲さんは、ロバート・ブランダム(Robert Boyce Brandom, アメリカの哲学者1950年~ )の推論主義 [注1]、単称名辞 [注2](singular term)論を基に、感情教育の方法論を詳らかにしています。
感情教育は、現在「われわれ」に含まれる対象者に適用される情緒的な文の単称名辞部分に対して新たな別の単称名辞が置換可能になることである、と捉えることができる。そのため、単称名辞の運用の拡大についての言語的なメカニズムの明晰化を通じて、感情教育そのものの明示化を図ることが期待できるだろう。
[注1] 推論主義とは、「言葉や表現の意味は、他の言葉や表現との関係性、特に推論における役割によって規定される」とする、言語哲学における立場。
[注2] 単称名辞は、文の中で特定のただ一つの対象を指示する働きを持つ表現のこと。非常に似た概念で、単称名詞があるが、これは、特定の個体を表現する概念のことで、ただ一つの特定の事物や人を指し示す名詞。単称名詞には唯一性、特定性という特徴がある。
単称名辞(特定の個体を表現する概念)の最たるものは、個体を指す名辞であり、祐川尚素というような固有名詞でしょう。この固有名詞が情緒的な文章において置き換え可能となるメカニズムを利用するということだと思います。
ブランダムは、単称名辞を推論実践から説明する上で「置換substitution」という操作に焦点を当てる。単称名辞を含む文未満表現同士が「同じ意味を持つ」のはそれらが置換可能であるとき、つまり、置換した場合に推論において果たす役割に変化がないときである。
例えば、「私たち」は喜んでいる。という文章の「私たち」に固有名詞の「祐川尚素」さんを置換しても意味が通じます。このことで、「祐川尚素」さんは「私たち」の一員とも考えられ、「私たち」の範囲が拡大する可能性を得ます。
ある意味、感情教育とは固有の名前を持った人間の日々の情緒、気持ちを表現する会話・言説を通して熟成していくものなのかもしれません。
そして、朱喜哲さんは感情教育のポイントとして次の三つを上げています。
① 漠然としている共感を言説的に明晰化するための教育が大切なこと。
② さらに、「われわれ」から締め出されている対象について、属性名ではなく、個々の対象を識別する単称名辞を知らねばならない。他者を属性によって包括せず、個別の対象を指示する名辞(典型的には固有名)を学ぶ必要がある。
③ そして、「われわれ」から除外された属性で一括りにされがちな個々の存在者について、一つの単称名辞では不十分で、複数の豊富な表現を学ばなければならない。
まずは、共感を言語化することが大切で、その言語化された文章に「入居者」や「利用者」とか、「被害者」などの属性名ではなく、「祐川尚素」という固有名を置き換えることを学び、その置き換えを「祐川尚素」だけではなく「張亜紅」や「リチャード・ギア」などの多くの固有名辞に置き換えられるようにすることが感情教育のポイントなのです。
この固有名を持つ人間存在は、池田喬(哲学者)さんの次の文章を参照すれば、「私とは何か」という問いではなく「私とは誰か」という問いに関わる実存ということができるような気がします。
実存の関心の的としても存在は、「私とは何か」と抽象的な本質論のかたちで問われるのではなく、「(あなたや彼/彼女とは異なるこの)私とは誰か」と、人称性を消去せずに具体的に問われる。実存には「それぞれ私のものである」という各自性が含まれるのだ、と。
感情教育の基本に、人間の実存を据えることが必要なのではないでしょうか。
(3)「津久井やまゆり園」の集団殺戮
朱喜哲さんは相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた集団殺戮を例に感情教育を説明しています。
この事件は、本質主義的な直感をもって重度障碍者を非人間化し、優性思想によってその根絶を企図したものであった。したがって、たんに殺傷事件として問うのでは不十分であり、非人間化された被害者たちをふたたび「われわれ」のうちに回復されなければならない。それはまさに感情教育の範疇である。そして、感情教育とはボキャブラリーのレベルにおいて「われわれ」に適用される情緒的、規範的な述語をともなう単称名辞についての実質置換推論を学習することであった。
abuse/虐待を抑止、防止するための感情教育においては、名前をもった入居者の個々人の虐待事例に学ぶことが必要不可欠なのではないでしょうか。 被害者及び加害者という属性名称ではなく、その方の固有の名前を主語にして個々の生い立ち、虐待に至るまでの経緯、その事件によるその方の苦悩、苦痛、思い、感情などをしっかりと明晰に言語化・表現し、話合い共感することが大切だと思います。
これは、加害者についても同じです。固有名を有した○○さんの虐待に至るまでの経緯、思い、苦悩を言語化し共有することも必要です。
このような感情教育により、自分も加害者になりえたこと。そして、残酷さの中にあるその人に共感することを通じて、「われわれ」の範囲を着実に拡大していくことが求められています。
