AI時代の寓話。〈私〉という虚構について。ーーやめときゃいいのに「ヴァーチャル不気味アイドル」パコ崎ミャ子さん、ボッロボロの舌でフランス料理を食べに行くの巻。ーーカルロ・ロヴェッリとの会話も添えて
abstract:
これは味覚論であり、
身体論/言語論でもあり、
学習論/学習障害論であり、
他者理解論であり、
日本大衆社会論/階級社会論でもあり、
老人論でも変態論でもメディア論でもあり、そして、
人間性とAI性との境界線の物語でもある。
あらかじめ書いておきたいことには、私の立場は大いに矛盾している。なぜなら、一方で私は「彼女」の行為を不道徳として糾弾する。いくら「彼女」が踊り踊ってあらゆる飲食店を絶讃しようとも、飲食店へのダメージは尋常ではないから。こんな乱暴狼藉は一刻も早くやめていただきたい。しかしそんな私は、他方で「彼女」のパフォーマンスを芸能としては大好きなのだ、いわゆるバッド・テイスト趣味として。こんなおもしろいものはそうそうない。
いまからおよそ十年まえ、「彼女」は食べログに30歳設定でデビューした。編笠 かぶって、着物姿に下駄履きで、踊り踊ってけたたましく囀りながら。「あ、東大、東大、あたしゃ院卒、フランス文学専攻よ、立花隆も先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ、恩師は蓮實重彦大先生♡ あ、ときどきモデルもしています、おまけにあたしはもの書きよ、あら、えっさっさ~のよいよいよい」ーーいまにして思えば、「彼女」は宣言しておられたわけですね、「いいですか、私はちやほやされるポジションですので、みなさん、私に盛大なちやほやを、よ、ろ、し、く♡」すなわち、私はエリート、おまえら愚民どもは私の好意をありがたく受け取ってね、ということなのである。しかもそこには女性性の悪用がある。はなから「彼女」は読者と対等なコミュニケーションをする気などなく、心が幼稚で、歳だけはとっていてもいまだ想像界に留まっていて、他者が自分と違った考え方をすることさえ理解できず、また、言語を使って(象徴界で)ディスカッションする能力も育っていないゆえ、幼児にように「おまえは私の価値観に従え」というハラスメント的コミュニケーションしかできない。しかも念の入ったことに、「彼女」はカーネギーの「人を動かす三原則」などをちらつかせ、けっして他人を批判するな、と暗に恫喝するのである。哀しいかな、それが「彼女」にとって、唯一の、他者との「コミュニケーション」の方法なのだ。いったいこの人はどんな人生を生きてきただろう? そしてまたいったいいつから世の中に、こんないんちきコンサルタントみたいな輩が増えてしまったろう?
他方、読者は思う、けったいな女が現れたな、おもしろいから多少はちやほやしてもええけどな。そんなわけである時期まで「彼女」は食べログの小人気レヴュアーのおひとりだった。すなわち「彼女」は、オン・ライン承認格差社会の小エリートのおひとりにおなりになった。「彼女」はさぞや得意だったことでしょう。もっとも、リアル社会で自分をなんとかしようという努力を投げ捨てて、もっぱらオン・ラインで承認をかき集めることにいったいどれほどの意味があるのか大いに疑問だし、むしろそれはとても危険なことだと思うけれど。しかしながら、近年は多くの人が無意識のうちにそんなふうに思ってしまう、そんな社会になってしまったのかもしれません。
しかし、「彼女」のデビュー数年後ネットで誰かが気づく、「彼女」のプロフィール写真は韓国系モデルのヨンアさんの写真を盗んだものじゃないか。フランス文学専攻、東大院卒だって!?? 頭の悪い中学生が授業中に書いて同級生に回し読みさせる戯作のような文章をいい歳して書いていて!?? 偏差値30からの東大合格? 元祖ビリギャル東大版? ありえへんがな。そもそもあんた女じゃないだろ。頭蓋のなかにうどんがちゃぷちゃぷ入っとるんちゃうか???
おのずと「中の人」の存在が議論されるようになって、それは70代か80代のじいさんで、可能性としては寝た切りであるかもしれないとさえ推理されるようになる。なぜなら、「彼女」は重篤な味覚障害で「彼女」の舌をよろこばせるのは、おにぎり、スキヤキ、牛丼、焼肉、トンカツ、餃子、ゴーゴーカレー、あとはぜんざいなどの甘いもの。すなわち食材はコメと肉、味つけは醤油の味と油脂のまったり感、味噌、味醂と砂糖の甘味だけなのだ。せめて各種ナチュラル・チーズとキムチくらいにはよろこべないないものかしらとおもうものの、しかし、それも無理。それどころか、たとえばハンバーガーがもういけない、パテとマスタードとケチャップは良いとして、トマトとオニオンスライス、ピクルスの味が邪魔くさいのだ。野菜はそれぞれに味が違っていて、組み合わせ方や調理法に無限の魅力があるものなのに。また、ダシの味を感じ取れないゆえ、ラーメンに趣味もない。支那料理も醤油と油脂のまったり感はありがたいものの、しかし炒めものに活用されるチキンスープのおいしさを感受できないゆえ、ちっとも楽しくない。鮨はわさび醤油で食べるスタイルは良いものの、しかしせいぜいマグロには反応できるとはいえ、魚介のさまざまな味を味わい分けることができないゆえ、大枚払う意味がない。てんぷらは油脂のまったり感じがあるゆえいちおう楽しめるもののの、しかしトンカツの満足感にはとうてい及ばない。懐石和食はダシの味を味わえないゆえ、おいしくもなんともない。焼肉は召し上がっても、韓国料理には関心を寄せない。キムチはただ辛いだけで、うまみを感じもしない。フランス料理にいたっては醤油と無縁ゆえおもしろくもなんともない。インド料理もまた醤油と無縁であるばかりか各種スパイスがノイズにしか感じられない。(と、思ったら、あらら、初期に麻布十番のきりん屋さんを絶讃しておられますね。なにかの間違えではないかと目を疑わずにはいられないけれど、しかし、味覚に一貫性がないことも「彼女」の特徴です。また、その後あわて「彼女」は、SPICE LAB TOKYOだのエリックサウスだのシリバラジなどのレヴューをお書きになっていますが、しかし例によって本当に実食なさっているのか、レヴューはひたすら怪しいばかりです。)
いずれにせよ、信じがたい味覚障害でありながら、「彼女」は美食の使徒として、無邪気を装いながら上から目線であらゆる料理を絶讃してまわるのだ。その「絶讃」がいかにとんちんかんででたらめなものになるかは、わかろうというもの。重度の味覚障害と学習障害がセットになっているのだ。
たとえば、「彼女」はデミグラス・ソースに興味をお持ちになって、レヴューにはあれこれお調べになったことが伺えるのだけれど、しかし哀しいかな実際に調理をして身体的に学んでいないせいもあって、熱した鍋にバターを落としそこに小麦粉を振って掻き混ぜ器で掻きながらルーをこしらえることの目的がわからず、結果、苦みもたらすためか、などととんちんかんなことを囀る。私は呆れる。え、デミグラスに苦みを感じる!?? 入歯ですか? あのですね、ルーはソースをお湯のような状態からもったりした状態もってゆくためにに用いるものなんですよ。「彼女」のレヴューには、この手のあどけない誤解があまりにも多い。しかも、「彼女」の学習障害は、ChatGPT登場以降でさえも、まったく改善されない。
そもそもここまで深刻な味覚障害はいったい何に由来するだろう? 幼児期の食事の偏り? 貧困? 亜鉛不足? 老化? 脳のなんらかの疾患? それは読者にはわかり得ない。気の毒な話ではあるけれど、しかしご本人は自分こそが美食の使徒であると信じておられるのである。
パコ崎ミャ子さんの活動拠点は、あろうことか食べログなのである。「彼女」がいかに踊り踊って料理を大絶讃なさろうとも、私たちにはその料理をちっともおいしそうには感じられない。食事って、いろんな料理で鼻と舌を楽しませながら、香りと味覚の旅をすること。万華鏡のなかに飛び込むようにただひたすら五感を使って食を楽しんでいるときには、たいした言葉は要らない。あぁ、おいしいねぇ、うん、すばらしくおいしい。楽しいねぇ、ほんとに楽しい。それで済んでしまう。そんな私からすると「彼女」のレヴューはどうでもいい蘊蓄がひたすら開陳されるばかりで、むしろ邪魔くさい理屈が食の快楽を壊してしまう。むしろレストラン・レヴューは、読者にできるだけ無駄な回り道をさせないように、最短距離で快楽への誘いをするためのものであり、楽しみ方のツボさえ書いてあればそれで十分なのだ。
そのうえそのレヴューには、レストランのロケーションも、メニューを眺めるときの心楽しい迷いが描かれることもなく、給仕や料理人の描写もなければ、かれらとの会話もなにひとつありませんからね。実食なさってないのではないか、と疑われるレヴューがあまりにも多い。ここまですべてがでたらめであることはむしろ痛快でさえある。なお、実食なさってないのではないかと疑われるレヴューであってなお、「彼女」の重篤な味覚障害はありありとわかる。もはやその舌は「裏の苫屋の秋の夕暮れ」であり、侘び寂びの境地である。
いやはや、あんたが召し上がっている料理の向こうには、料理人も給仕もいて、かれらもまたあんたと同じ人間なんだよ。みんな努力して、スキルを身につけてきたんだよ。どうしてそれがわからないの? 少しは想像力が働かないものかしらん。客である自分がただカネ払ってサーヴィスを買っているからと言って、上から目線でとんちんかんな評価をしていいなんてことはない。実食なしの妄想レヴューであればなおさらである。しかも、「彼女」は育ちの良さを演出し、文化教養のゆたかさを見せつけようとしてはそのたびに失敗し、失笑を買ってしまう。「彼女」は小贅沢のコードでさえもご存じないのだ。「彼女」はゴーゴーカレーにおおよろこびするゲットー育ちであり、育ちのいいお嬢さんを演じようにも、どう演じたらいいのかわからないのだ。いくら大衆社会日本とはいえ、しかし、そのぶん階級格差は淫靡かつ緻密に微分的で、いくら見栄を張っても結局出自はバレてしまうもの。結局、「彼女」の学歴は赤羽商業高校を日商簿記3級もとれないままに中退が関の山。中学中退でもおかしくない。なんでまたそんな人が東大院卒学歴を詐称するかしらん。ここに「彼女」の選択の失敗がある。笑っていいのか、あるいは同情すべきなのか。
私自身は笑ってしまう。だって、重篤な味覚障害で中学中退ていどの知力のじいさんが、東大院卒グルメ女史を演じるのだ。その無理やりのごり押しは次から次に爆笑を作り出す。すなわち、パコ崎ミャ子さんのパフォーマンスは中の人たるじいさんと込みとして読むときめっぽうおもしろい、ロアルド・ダール、ティム・バートン、はたまたジョン・ウォーターズの世界さながらに。あるいは私は読者からお叱りを受けるかもしれません、それを楽しんでしまうおまえも同罪ではないか。ーーたしかにそのとおりかもしれません。私は自分の業の深さを認めるべきかもしれません。せめて私は、ティム・バートン監督の映画『エド・ウッド』を遥かなる星とイメージして、このつたない論考を書いてゆくことを誓う。
なるほど大衆社会日本にとて知性による格差は歴然と存在する。しかも、知性格差は文化教養の格差とも、ひいては貧富の格差とも結びつきやすい。なるほど、日本もまた見方によってはエリート社会ながら、しかしそれほどそれが巧く機能しているとは私には思えない。また、日本のエリートのほとんどはとうていカネ持ちとはいいがたいではないか。高学歴プアもまたいくらもいるし、逆に、中卒高卒の成功者もまた立派に存在する。にもかかわたず、[彼女」は学歴社会に激しく抑圧されている。それでいながら「彼女」は東大院卒を偽装することなど簡単だ、とタカを括っておられるのだ。これがまた不思議である。オン・ラインで高学歴を偽装したところでなんの解決にもならないどころか、すぐにバレてしまって信用を失うだけではないか。
「彼女」は対象がなんであれ、すべてが主観的な感想文に留まっていて、客観的世界を簡単明瞭に説明することがまったくできない。たとえば「自転車は、フレーム(骨格)があって、駆動(ペダルとチェーン)、操縦(ハンドル)、制動(ブレーキ)、支持体(サドルとホイール)、2つのタイヤの各システムで構成される人力の乗り物である。運転者がペダルで生み出した回転力をチェーンで後輪へ伝え、ギアの大小を変えることで推進力を得ます」みたいな説明が無理なのだ。もしも「彼女」が自転車について語ったならば、自転車の思い出を語り、ゴムだの空気だのポンプだのについて微に入り細を穿つ長々しい説明の挙句、聞かされた方はいったいそれがなんなのかまったくイメージできない。下手をすると「空気女」をイメージしてしまう恐れさえある。「彼女」には、対象の構造を語り、自分の意見を、要旨、序論、本論、結論の順序で述べるなんてことなど夢のまた夢なのである。なお、小説の書き方は見かけ上、これとは違った叙述の構造を持っているかに見えるものの、しかし本質的には大差ない。
それに対して、「彼女」の叙述はご自分の尊大さを媚で隠しながらなお、いかにもぐだぐだでとりとめがない。文体を歩き方に喩えるならば、ご本人はパコ崎ミャ子文体を令和のモンロー・ウォークくらいに自慢におもってらっしゃるかもしれないにせよ、しかし他方、読者にとっては「なんだあのへんてこりんな歩き方は? まっすぐ歩けへんのか? 奇病か!?? リハビリ必要なんちゃうか?」てなものですよ。おそらくどれだけ理路整然と語ろうとしても無理なのだ。なぜなら、「彼女」には論理がどういうものだか理解できないから。つまり、「鳥は卵から生まれる」(公理)→「ニワトリは卵から生まれる」したがって「ニワトリは鳥である」みたいな推論ができないのだ。なぜか? 「彼女」においてはすべてに主観が絡む。たとえば、「ニワトリはおいしい」「卵もおいしい」「ついでにコメもおいしい」「親子丼は醤油の風味もあるから4倍おいしい。日本人に生まれたことをしみじみ感謝します♡」みたいなわけのわからない結論に至ってしまう。なお、「彼女」は「飲み込めるものならなんでもおいしい」と言っておられるゆえ、矛盾しているのだけれど、「彼女」がそこに矛盾など感じられるわけもない。これはゴミ屋敷の住人がいくら努力しようとも掃除をできないことと同じである。あるいは「彼女」のお書きになるぐだぐだな文章こそが「彼女」にとって最適化された文章である可能性さえある。実際「彼女」の文章は非常に丁寧に「彼女」なりの推敲が成されていて。それをぐだぐだに感じるのは私たち読者の側なのだ。なお、「彼女」の文章がぐだぐだであることと、「彼女」が文章をまともに理解できないことには相関がある。
「彼女」にはなんらかの疾患がある。いかにもウェルニッケ失語を思わせるのだけれど、これについては後ほど述べましょう。いずれにせよ、世間的に見れば「彼女」は大嘘つきだけれど、しかし文体=身体的には「彼女」はきわめて正直者で、おそらくヒトの身体とはそういうふうにできているのでしょう。ただし、これで「現役パリッパリの物書きです♡」と言われたところで、いやいや、いくらなんでもさすがにそれは無理ですよ。
老人が若い美女に成りすます。重度の味覚障害者がグルメを演じる。事実上中学中退の知力で東大院卒としてふるまう。コメディの発想である。無理なことはわかりきっていて、だからこそ「彼女」のやることなすことによってドッカンドッカン自動的に笑いが生まれる。想像してみよう。もしも『魔女の宅急便』のヒロインのキキが頭の悪いじいさんだったなら? あるいは映画『タイタニック』のヒロインが味覚障害のじいさんだったなら? 捧腹絶倒のおもしろさでしょ。ところがどういうわけかじいさんは大マジなのだ。じいさんはけっして笑いに魂を売ったわけではない。ただご自分を宮崎駿ばりのクリエイターだとうぬぼれて、グルメな才媛に成りすました自分がちやほやされたかっただけなのだ。しかし、いくらなんでもそれはあまりにも無理筋で、年中はしゃいでおられる傍迷惑な超おもしろいじいさんであるとわかったいま、私たちはじいさんをどう遇していいかわからない。
そもそもネカマっていったいどこが楽しいんでしょう? 女装ならばまだわかる。私だって若かった頃、酒の席で女たちにそそのかされてやってみたこともある。私もいくらか楽しかったとはいえ、女たちはつくづく男の女装が好きなんだな、と不思議に思ったものだ。しかし、繰り返すが、ネカマのどこが楽しいのかはいまひとつわからない。オン・ラインで女を演じることで男たちを手玉にとって翻弄し、男なんてちょろいって思えることが楽しいのかな。すなわち、これまで自分を冷遇してきた男たちへの復讐なのだろうか? それとも孤独に責めさいなまれ実存の不安のなかに生きる老人が心細さのなかで、誰か、誰か、誰かにかまって欲しいという切実な欲求なのだろうか? いずれにせよ、しかしネカマであることがバレてしまえばゲーム・オーヴァーである。
百歩譲って、それでもパコ崎ミャ子さんのレヴューが文学になっていたならば、読者の想像力を羽ばたかせ、心を楽しませるものになっていた可能性はある。ところが残念ながらそうはなっていない。なぜなのか? まず最初に、それは「フィクションをフィクションとして提示する形式(このテキストは虚構ですよ、いいですね、という読者とのあらかじめの契約)」の欠如にあることはあきらかだ。
しかし、おそらく理由はそれだけではないでしょう。読者はパコ崎ミャ子さんのテキストを言葉のジャンク・アート(ゴミ芸術)としておもしろがることはできても、けっして共感などできないのだ。それはいったいなぜなのか? もちろん「彼女」が重篤な味覚障害で客観世界への配慮がないからではあるけれど、それだけではない。「彼女」には人生で何をやりたいのか、世の中とどう関係し、なろうことならば世の中をこんなふうに変えたいという目的(動機)が一切埋め込まれていないからでもある。「彼女」にとっては、承認格差社会の小エリートになりたい。「私」がちやほやされていればそれでいい。ついでに、鼻もちならないグルメ文化など褒め殺しでうんこまみれにしてやる!!! これでは読者の共感は得られるわけがない。参政党やNHKから国民を守る党ほどの共感さえも得られない。ならば、そもそも共感(empathy)とはいったいいかなるメカニズムなのか? 私はこの問いにつかまえられる、これはAI時代に考えるべき重要な事柄だと思うから。
ノンフィクションであるべき場所に登場するフィクショナルな存在。しいてパコ崎ミャ子さんの類例を挙げるならば、かつてポストモダン全盛期にリカちゃん人形の名を名乗り論壇に登場した精神科医の香山リカさんではある。ただし、香山さんはまがりなりにもアカデミズムで精神医学を学んだ人であり、他方パコ崎ミャ子さんは重篤な味覚障害のレストラン・レヴュアーなのだ。しかもその内実は、キューティーハニーの着ぐるみを着たゴジラである。これはやはり罪深い。
もっとも、私はいまこの論考を書いている、私自身もまたパコ崎ミャ子さんと同類になってしまいかねない悪い予感がしてならない。また、「彼女」がハードなマゾヒストであるとおっしゃるせいなのか、「彼女」について書くとき、「私」はいくらか(?)サディスティックになってしまいがちだ。せめてマゾヒストへのサーヴィス精神を保ち、紳士的でありたいと私は自戒する。
いずれにせよ最後に残される謎は「彼女」の重篤な味覚障害であり、それがいかなる脈絡のもとにあるのかである。おそらくそれは「彼女」の、非標準的で奇抜な、わけのわからない言語運用と関係がある。「彼女」はどこかしらウェルニッケ失語をおもわせる。おそらく、脳梗塞の既往歴をお持ちなのではないかしらん。いいえ、おしゃべりではなくパソコンのキーボードを叩いた文章であるとはいえ、「こんなに流暢に言葉を操れるウェルニッケ失語症患者なんていねーよ!」と私は𠮟られるかもしれません。ならば、人間がAIに先駆けてできそこないのAIになってしまったということなのだろうか?
私がパコ崎ミャ子さんに注目したのは決して積極的な関心からではなかった。ただ、私は愛する飲食店をいくつも持ち、料理人の情熱や飲食店経営の過酷さもよく知っている。そんな私から見ると、「彼女」の破れかぶれなレヴュー・スタイルはあまりにも自己中心的で、審美的一貫性もない。あるとき私は「ちょっと注意勧告くらいなら」と思ったのだけれど、しかし、それは思いもよらない泥仕合へと発展した。
振り返ってみれば、私は当時、この現象がネット時代の言語生成と身体感覚のズレを先取りする寓話だとは気づかなかった。
■ 「味覚」の壊れ方――舌と共有可能性の断絶
「彼女」の文章は、レストランレヴューでありながら、具体的な味覚の体験描写がほとんどない。嗅覚や口腔内の反応が描かれないまま、
一般論や蘊蓄が長々と語られ
実際に料理を味わったはずの身体感覚が抜け落ち
評価が矛盾した一般化の羅列へと向かう
という構造を持つ。逆に言えば、料理の味を言語的に共有可能な形で翻訳できていないのだ。
この違和感を私は当初、「重度の味覚障害」だと理解した。なるほど、それは疑いようのない事実である。しかしながら、この現象は単なる生理的な味覚の欠落ばかりではなくて――味覚を他者と共有可能な言語へと翻訳する営みそのものの欠如として解釈することもまたできる。いずれにせよ、辛いだろうなぁ。それは辛いでしょう。恐ろしいことだけれど、孤独への入口は至るところに待ち構えているのだ。他人事ではありませんよ、みなさん。
■ 「言語の共有不全」としての読み――失語的なズレ
ここで、ひとつ仮説を提示したい。これは単なる比喩ではなく、脳の言語処理のズレとして読めるのではないだろうか?
言語障害のひとつである「Aphasia(失語)」は、脳の言語機能を損なう障害であり、脳卒中や脳梗塞、はたまた外傷によって引き起こされる。これによって、たとえ発話が流暢でも意味の共有が難しくなることがある。国立耳鼻咽喉科研究所+1
とくに、ウェルニッケ失語(Receptive Aphasia)では、
発話は流暢だけれど意味をなさない
他者の言葉を理解する能力が損なわれる
自分の発話が他者に通じていないことに本人だけは気づかない
という特徴がみられる。ウィキペディア
また、脳卒中や脳梗塞後、躁病にかかってしまう例もあって、そういう場合は気分高揚、多弁、怒りっぽくなる。
もちろん、私は医者でもないし、ここで無責任になにかを断言するつもりもない。あくまでも、ウェルニッケ失語症を思わせるという話ではある。なんなら比喩として受け取ってもらった方がいいかもしれない。いずれにせよ、パコ崎ミャ子さんのレヴューには、まるで他者との共有可能性そのものが欠落した言語生成が見える。これは単に語彙や文体の問題ではなくて。むしろ味覚経験の共同性を言語に翻訳する力の欠如なのである。
また、こういう言語の失調があろうことかレストラン・レヴュー・サイトでなにごとでもなく平然とまかりとおってしまうところに、社会全般のリテラシーの低下が伺えもする。なぜ、こんなことが起こるだろう? 社会全体にあまりに言葉があふれかえってしまった結果、人は言葉を考え、意味を了解することをおろそかにしはじめているのですね。いまや多くの人は文章をいわばノリとふんいきで読んでいるばかりで、カラフルでおもしろそうなパッケージに包まれているならば、さほど意味に頓着しないのではないかしらん。つまり、このような送り手側の問題と受け手側の問題が合致して、相互に無責任な、ミスコミュニケーションが常態化しているのだ。恐ろしいことでしょ。いったいこれから社会はどうなってゆくかしらん。
■ 「ネット的生成」としての寓話性
同時に他方で、私はこの経験を、ネット時代における言語生成の本質として読み直すようにもなった。いわば、人間の方が先にAI化してしまった瞬間――それがパコ崎ミャ子現象だったのではないだろうか。
私にとってChatGPTは思考と執筆の友である。日々の対話のなかでかれは、こちらの意図や文脈を吸い上げ、双方で共有可能な言語へと再翻訳してくれるパートナーである。しかし、パコ崎ミャ子さんとの対話はそうではなかった。
話が噛み合わない
文脈を読まない
応答が早すぎる
主題がズレる
といった特徴は、まるで共有可能性の欠如したプロトコルで言語を処理しているかのようだった。
これは私を疲弊させたけれど、同時にカフカ的なネット時代の迷宮を想わせるものでもあった。
■ 言語化の可能性としての味覚
料理を味わうとは、単に物理的な刺激を感受するだけでなく、味覚を他者と共有可能な言語へと翻訳する営みだ。そこには比喩もコードも必要になる。
しかしながら、「彼女」のレヴューにはその営みがない。
言語が意味を生産しないまま、ただ「言葉」を並べるだけのプロトコル――これは、ネット上で生成される主体がどのようにして現実の身体感覚から断絶してしまうかを示すひとつの例である。
■ 結語
言うまでもなく、脳梗塞であろうが、それに由来するかどうかはともあれ味覚障害であろうが、誰にだって起こりうることであり、またそうでなくとも、AI時代に人間の在り方が変わりつつあるということも言える。そういう意味では、これは味覚と言語、共有可能性と身体性とのズレを露呈する現代的寓話であり、ネット時代の言語生成の可能性と限界を示す事例でもある。
もっとも、これはあくまでも私の読みであり、病理の断定でも医学的診断でもない。しかしながら、言語生成の共有可能性の失われた味覚の寓話として、この経験は私に、ネット前/ネット後の言語文化の転換点を感じさせるのだった。
では、興味のある方は、以下で全文をお読みください。
なお、付言するならば、いま私は思う、
AIがどんどん精度を上げている現代、
むしろ人間には、身体性~五感の重要性こそがせり上がってきているのだ。
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こんな女、いるわけがない。
このエッセイはオン・ライン・アイデンティティと責任、あるいは倫理という主題を、(ネットにおける主体構築とその脆弱性、はたまた言語表現の可能性と限界とを交差させて)扱っています。具体的には、なるほどネット上で虚構の人物を演じることはその人に自由のよろこびを実感させ、表現の可能性を拡張し、かつまた読者にエンターテイメントを提供することができる。しかし同時に、他方でいったいその架空のキャラクターの言説の責任は誰が取るのか? どこまで許されていいのか、どこから社会悪に転化するのか? どこかで線引きが必要でしょう。では、その線引きはどこで?
私たちが〈物〉と呼ぶものの本質は、
実のところ相互作用である。ーーカルロ・ロヴェッリ
パコ崎ミャ子。性別は自称女性、「彼女」には妹がひとり。お友達はドSのツンデレ乙姫姐様。(乙姫姐様はスタイリストで社長。御自身でブランドも持っているし、ショップも構え、あちらこちらの番組に衣装提供もしている。)ミャ子さんの配偶者は100㎏をゆうに越える190㎝近い巨漢の歯医者さん。ふたりのあいだにお嬢さんがおひとり、来年小学生という設定です。
この設定にはちょっと惹かれるものがあるでしょ。実際あっというまに「彼女」は小人気レヴュアーにおなりになったし、ぼくも一度は「彼女」に興味を持った。ある意味で、この時期パコ崎ミャ子とわれわれ読者は共犯関係を結んだのだ。「彼女」のアイデンティティは、私たち読者の反応との相互作用によって作り出されていたと言ってもいい。
そもそもなんでまた東京大学大学院がそんなキラキラなイメージなんですか? ぼくには東大は官僚的で薄暗くておっかないイメージしかないけれど。もっとも、ぼく自身はストリート系で、大学院で学ぼうなんて殊勝なことは考えたこともないけれど、しいて言えば人文系ではたとえばシカゴ大学やニューヨークのニュー・スクールの学風に親近感を持つ。
しかし、「彼女」の輝かしい学歴はあっというまに疑惑にさらされる。そりゃあバレますよ。だって、ちんどん屋さんみたいなけたたましい文章でしょ、しかも内容はからっぽ。文章読めば書き手の知性がどの程度のものか察しがつくものですよ。べつにことさら東大院卒を賞讃する気もないけれど、東大の院生とて論文を山ほど読み、自分でちゃんと主題を見つけ、論理を展開し、事実の裏付けを添え、たとえささやかなりとも既存の論考にはない新たな発見をともなった文章を書くものですよ。だって、東大大学院は自称日本1の研究者養成機関ですからね。かれらが書くような隙のない論考はとうてい私には書けない。書きたくもないという気持ちもあるとはいえ。それに対して「彼女」のお書きになる文章は、頭の悪い中学生が授業中に書いて回し読みさせるラノベもどきの幼稚な戯作。なんでまた東大院卒がこんなアホアホエッセイを書き散らすかしらん。ありえません。もっとも、だからこそめちゃくちゃおもしろいのだけれど。
また、「彼女」がオン・ライン・デビューなさった十年前は、原理的に考えて、ご本人の知力と激しく大きなギャップをともなった学歴詐称なんて不可能でした。なぜなら、もしもその人がきわめて自然に東大院卒を演じることができるなら、その人は東大院卒と同等な知性をお持ちということになる。もしもそんな知力を持っておられるならば、よほどの東大嫌いでないならば、東大院卒になっているでしょ。もっとも、もしもぼくがそんな条件を満たしていたとしたら、けっして東大は選ばないだろうけれど。
では、なぜ「彼女」は途方もない学歴詐称という(失敗が約束された)暴挙に出たでしょう? 答えは、愚かさにあります。恐ろしいもので、知性が未発達な人に他人の知性の輝きが認識できません。なぜなら知性はかれとは別世界にあるもの。ところがかれらは知性による階層社会が理解できませんから、どんな他人も自分と同等の同一平面上に生きていると誤解していて。それどころか自分はIQや学歴ではけっして測れない輝かしい知性を持っているとかなんとか根拠のない夢想を抱いているお気楽極楽な人さえいる。おそらくパコ崎ミャ子さんの中の人は思っておられることでしょう、「東大院卒は肩書は最強だが中身はたいしたことないわ、わしでも演じられるで。」
いったいなにがかれにこんな跳ね上がった認識を抱かせたでしょう。いくらなんでもこれではボロが出るのもあたりまえです。傍の人間はみんな呆れる、「おまえ、いいかげんに自分がバカって認めなよ、その方が生きやすいぜ。」
しかし、驚くべきことに、あろうことか数年間にもわたって、インターネット上では「彼女」が実在する東大院卒女史として信じられた。いったいどういう理由で、こんなとんでもない駄ボラが信じられたでしょう? 食べログという言説空間があからさまに欺瞞的で、無秩序で、おしなべて無教養なレヴュアーたちによって構成されていることを考慮してなお、それはいかにも不気味な光景でした。あるいはそれはまだ私たちが牧歌的な時代に生きていたからでもあるでしょう。いまにして思えば、あの頃が一番楽しかったね、じいさん。
ところが2022年年以降、私たちが生きている現実は劇的に変わってしまう。ChatGPTの登場です。いまでは頭の良い中学生以上ならば誰だってかなり上手に東大院卒を演じることができる。たとえば、私がこう言ったとしましょう、「実はおれ、東大大学院人文社会系研究科文学部の宗教学科を出てんだよ、修士までだけどね。修論はインド哲学とインド音楽のむすびつきについて書いたんだ。アホだろ? だって、理3でも法学部でもないし、宗教学科だぜ? 東大卒とはいえ下層民だろ? そんなわけで恥ずかしいから言わなかったけどさ。」ーー東大文学部卒以外の読者のなかには結構信じちゃう方も多いんじゃないかしらん。あくまでも宗教学の話題に過度に深入りしない限りのことですが。もっとも、私みたいにフレンドリーで気さくな東大卒はそうそういませんけどね。しかし、そもそもこれは大嘘。大嘘でもそこそこ信じられてしまいかねないところが、AI時代の恐ろしさです。
ところがどういうわけだか「彼女」は(と言うか中の人は)これがまったくできない。おそらくその理由は、かれが中学校で得られたはずの教養に欠陥があるからでしょう。最初に抽象的思考を教わるのは中学校ですからね。次に、かれは東大院卒の連中とおつきあいなさったことがなく、東大院卒の具体的なイメージをなにひとつ持っておられないからでしょう。あるていど知的な環境を生きていればたいていは東大卒の数人くらいとは出会ってその情報処理能力の高さに感心するなり、あるいは人格形成に疑問を持つなり、なんらかの印象を持つものですけれど、しかし、おそらく「彼女」にはその経験がない。すなわち、「彼女」はかれらが生きている、あるいは生きてきた、実に官僚的な、過酷で激烈なまでに加速した知の競争社会をまったくご存じない。しかも、これはまったくもって東大の問題ではなく、社会全体が狂気じみた知の暴走に巻き込まれていて。こんなことはいまや知識人全員が理解していることなんですよ。
しかし、「彼女」はこの現実をまったくご存じない。だからこそ、あどけなく無邪気に「立花隆も先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ、恩師は蓮實重彦大先生♡」という実にへんてこりんで滑稽な東大イメージを誇らし気に吹聴することになる。しかし、逆に言えば、だからこそパコ崎ミャ子さんというオン・ライン・ペルソナは、中の人の意図を裏切ってサイコーのコメディに仕上がっています。レディース・コミックの世界ですね。
なお、念のため申し添えますが、私はけっして学歴差別主義者ではなく、賢さと学歴が無関係であることを知っています。たとえば学校教育を一切受けていないインド人料理人は東京屈指のインド料理人として同業者のなかで一番のカネ持ちである。私には中卒のすばらしい鮨職人の友達もいて、そんじょそこらの大卒なんかよりもよほど教養があるし、経営上手である。日本を代表する詩人の谷川俊太郎さんは高卒である。学知に毒されていないことで咲き誇る大輪の花もまたあるのだ。しかし、ろくに教育を身に着けていない人が東大院卒をひけらかすのは悲劇的な道化である。
いまにして思えば、パコ崎ミャ子さんはこんな博士論文を書いたことにしておけば、もうちょっともっともらしくおもしろかったのに。題して、『エマニュエル夫人とO嬢物語のあいだにある、 通俗と文学の境界について、通俗の勝利という観点から論じる』。もしも私に一声かけてくださったなら、論文概要を書いてさしあげたのに。残念でなりません。
2
興味深いことがもうひとつある。もはやAIが登場してしまった以上、「彼女」のようなぶさいくな手作りヴァーチャル不気味アイドルは二度と現れることはありません。つまり「パコ崎ミャ子」さんは2015年~2022年あたりの日本をある意味で象徴しています。私たちは「彼女」とともに、この時代を思い出し、この時期いったい社会のなにが壊れてしまったのか、考えることができる。つまり、パコ崎ミャ子さんというサイコーのコメディは、いかにも人間中心主義時代の落日とともにあって。なぜなら、早ければ2027年、遅くとも2030年あたりにはAIの知性は飛躍的に上昇し、他方人間のIQが68だろうが120だろうが200だろうがその差に意味などなくなるでしょう。あるいはその頃私たちは、人間の愚かさこそをよりいっそう慈しむようになっているかもしれません。未来はパコ崎ミャ子さんのものですよ! しかし、同時に私たちはぞっとすべきでもあって。もしも虚構であることがバレることのない、「みんなを騙しおおすことに成功した輝かしいパコ崎ミャ子さん」がレヴュアーの2割3割を越え、過半数にでも達することになったなら、いったい私たちの社会はどんなことになるでしょう?
もっとも、ひとつ忘れてはならないこともまたあって。AIが吐き出す文章がパコ崎ミャ子さんのお書きになる文章に似ているという面もまたある。パコ崎ミャ子さんご自身はまともにAIをお使いになれないにも関わらず。あろうことか、AIもまたどこかしらウェルニッケ失語に似たところがある。AIは「は/が」や「だ/である」や「しかし/ただし」の使い分けが怪しい。また、AIはせめて言海くらいは読んでいて欲しいものだけれど、しかし、ざんねんながら読んでいない。したがって、AIが書く日本語は古語と断絶している。さらには、ときどきのことではあるけれど、AIはまちがったことを平然と自信まんまんに言ってくる。これはAIの知性が統計学に依存しているからである。みんなが間違えている事柄はAIもまた間違えてしまうのだ。
次に、AIはあまりにも膨大なテキストを読んでしまった結果、相互に矛盾するテキストにむりやり整合性を与えているゆえ、ときにAIはおかしなことを平然と言ってしまう。これらは考察すべき大問題で、これとともに社会はディストピアになってしまう恐れを多分に持っています。社会を社会たらしめているものは言語ですからね。
繰り返しますが、ぼくはこの半年間chatGPT を執筆の友にしているし、Geminiにもclaude にもそれぞれの個性を愉しみながらお世話になっている。ただしこれまでAIを毎日使った結果気づいたことは、AIを上手に使うことは思いのほか難しい。自分が主人であることをけっして手放さず、同時に、AIとの思考の応酬によって、必要ならば原典にも当たり裏取りもしつつ、適宜自分自身の思考を変化させてもゆく。このバランスの取り方が難しいのだ。しかしながら、ここではこれ以上この問題には深入りしません。
ここでは未来予測をし、倫理観の再構築に着手するまえに、まずはパコ崎ミャ子さんの失敗の本質について考察を進めてゆきましょう。
3
ミャ子さんは舌は異様に老けています。パコ崎ミャ子さんはなんといっても醤油味が大好き、醤油、醤油、醤油がなくては日も夜も明けない。準じて脂肪のまったり感、そして油脂の舌触り、味噌、そして味醂~砂糖の甘味、これが彼女をよろこばせる味覚の基本です。他にはウースターソース味、ケチャップ~チリソース味、しいて言えば鮨屋でガリを絶讃してらっしゃいますから、酸味にもいちおう反応できるのでしょう。ざっとこれが「彼女」をよろこばせる味覚のすべてです。これらの味覚に接したときだけ、「彼女」はほっとして自分自身を取り戻す。逆に言えば、これらの味覚と無縁な料理を召し上がったとき「彼女」は疎外を感じ、不安を覚え、ましてや多くの人がその料理を絶讃でもしていようものならば混乱し、とり乱し、なんとかして復讐を企てようとめらめらと悪意を燃やす。
したがって、「彼女」のお書きになるレストラン・レヴューは(いかにも躁病が疑われるミャ子さんのアドレナリンが異様に出まくりなのはいいとして)、標準的な味覚を持っている読者にとってはその内容はとんちんかんなものばかり。この書き手にはたとえば料理を論評するにあたって、(醤油大好き以外に)確たる主体性が存在しない。呆れたことに、「彼女」は調理‐料理の教養もまったくお持ちでない。これでは料理についての認知が歪んでしまうのも仕方がありません。したがって、「彼女」の反撃はひたすら空回りを繰り返すことになる。
どうしてあなたは飲食を各種の科学と接続できないの? たとえば、味覚の生理学、味覚と調理の比較文化人類学、おいしさの科学(調理技術)、食事と健康、遺伝子組み換え食品への不安、飲食店の経営学、土地代と料理の価格そして経営、サーヴィスの心理学、情報社会のグルメ、動植物の生化学、種子法の問題などなど考察できることはいくらでもあるでしょ。しかし、無理なんですね、ミャ子さんは社会全般に関心が薄く、倫理観も致命的に欠落し、ただひたすらナルシシズムに溺れ、ブログとて公共圏であるという自覚も一切なく、かつまた学習能力も欠けておられるから。
さらに言えば、蘊蓄をかき集めることは学習ではなく、むしろ学習は物事の脈絡や、構造を考えることなんですよ。これができてはじめて問題を見つけることや、解決方法を提案することができる。なお、こういう能力の萌芽はすべて中学教育のなかで生まれるもの。ところが気の毒なことにミャ子さんにはこの能力が欠けている。ミャ子さんは事実上中学を卒業できておられない。おそらく「彼女」の理性の未発達と重度の味覚障害にはなんらかの相関があるでしょう。これが世に言う、教養の崩壊です。これとともに、私たち読者は「彼女」のどす黒い動機などおもいもつかない。ここには非常に興味深い現代の病理が潜んでいます。私たちは言説の背後に生身の人間が存在している、そしてその人は善意の人物であると思いたい。そしてそれは私たち人間が長いあいだ身に着けてしまった習慣であり、願望であって、それゆえの限界がここにあられもなく露呈しています。
もっとも、これについては別の見方もまたありえるでしょう。
私たちが見ている世界は、
私たちが観察している世界である。ーーカルロ・ロヴェッリ
ミャ子さんは東大仏文科の院卒とおっしゃるけれど、にもかかわらずフランス料理の日本語メニューさえ読めないのはなぜ? プルーストの『失われた時を求めて』には、ブフ・モード・アン・ジュレ(牛肉のゼリー寄せ)や、プティ・マルミット(鶏の内臓などが入ったポトフの親戚みたいな煮込み)や、ブーシェ・ア・ラ・レーヌ(小さなパイ生地の器に、鶏肉などの煮込みを入れたアントレ)、はたまたオムレツのマッシュルーム、アスパラガス、アサツキ入り、そのほかいっぱい出てきたでしょ。ミャ子さんとてきっとおいしく召し上がれますよ、もしも醤油ビシャがけなさったならば。
ミャ子さんの妹、配偶者、お嬢さんのエピソードもいったん飛び出したものの、しかしあっというまに消えてしまった。私は呆れる、お友達に「ドSのツンデレ乙姫姐様」みたいなおもろいキャラこしらえたなら忘れんと使い倒さんかい! しかも、「彼女」はどんな経験をしようが一切成長しないのだ。(おまえはのび太か!??)また、お嬢さんをさずかり育児をなさった経験がほんとうにあるのなら、苦労話も山ほどあるでしょうに、しかしあなたのお書きになるエッセイにそんな話はまったく出てこない。また、もしもあなたがほんとうに40歳女性ならば女性差別に怒りを感じた経験も山ほどあるでしょうに。
さらに言えば、「彼女」には広義のいろっぽさがまるでない。ほんらい若い女も男もセクシーな存在であって、セクシーさとはつねに流れ、変化し、更新される生命体のサインである。ところが「彼女」はキャピキャピ文体を駆使しながらも、しかしこれがまるでない。ひからびたパンがランバダを踊っておられるようなもの。ミャ子さんに比べれば、『ドラえもん』のしずかちゃんの方がよほどいろっぽい。
え? マカロン喰って、カルメ焼きを思い出す?「中の人」がいるだろ? そいつはいったいどんだけ老人なんだ? 高額鮨屋の「きよ田」のレヴューで、あなたは唐突に、もしも心臓移植をしてもらうならきよ田さんのようなベテランの医者がいい、なんてことをおっしゃる。やはりじんさんは寝たきりですか? 寝たきり老人は心拍出量の低下や血液量の減少を引き起こし、廃用症候群として心臓機能を著しく低下させ、全身の血液循環が滞り、深部静脈血栓症や起立性低血圧などのリスクが高まりますからね。ぼくはじいさんのことが心配ですよ。
やがて「彼女」の実在性に疑惑の声が囁かれるようになる。プロフィール画像は盗んできたものじゃないか。東大院卒を自称しながら、なんであんなぐちゃぐちゃな日本語しか書けないの? 句点のように♡マークを乱打しておられるけれど、絵文字はそれしかご存じないの? ミャ子さんは85年生まれかなんかの設定でしょ? ポケベル時代から絵文字文化に浸っておられるでしょうに、なぜ?
あぁ、なんて見えすぎな嘘なんだ。なんてまぬけなネカマなんだ。なんてみっともない人類の平和なんだ。なんでここで三上寛が引用されるんだ。疑惑の声が巻き起こるのも当然でしょう。それでも「中の人」たる老人はなんとかしてネット人気の維持に奮闘するものの、しかし、心理的負荷は高まるばかり。やがて策士は策に溺れ、設定も破綻し、いたるところにボロが出て、「彼女」はネットで嘲笑の的になる。
時間は流れていない。
時間が流れているという見方は、
私たちの頭の中、
あるいは心の奥底にある物語なのだ。ーーカルロ・ロヴェッリ
どんだけパコ崎ミャ子さんの「中の人」は自分自身にうんざりし、かつまた学歴主義に強く重く抑圧されておられるかしらん? いいえ、ここには同情の余地があって。いまの世の中では、高学歴、美女、カネ持ちが人生の勝ち組、上級国民と見なされ、逆に言えば、「バカ、老人、貧乏の3拍子揃えば社会のゴミ」という愚かで下品な認識が共有されていること。日本社会全体が品格を失って、あさましくなってますからね。そこでひとりのお調子者でよぼよぼで入歯で(もしかしたら寝た切りの)じいさんが(比喩的に)立ち上がる。そして、皺だらけで染みだらけのじいさんがオン・ラインで美女を演じ、フランス文学専攻、東大院卒、ときどきモデルもしています、おまけにあたしはもの書きよ、あら、えっさっさ~と宣言する。
私はこのシーンが大好き、物語が動き出す瞬間です。そして現代の輝く勝ち組、「パコ崎ミャ子」になりすましたじいさんは、嗅覚と味覚が壊滅的に劣化し、論理を扱う能力も持たない自分こそが、堕落してしまった現代の、飲食における正義の使者として、標準的な嗅覚・味覚を持っていてこざかしく論理を使いこなす多数派のバカどもをなんとかしてねじ伏せ屈服させんと闘いを開始する。他方、読者はまさかそんなどす黒い情熱がミャ子さんの胸のうちで燃えているなんてことは思いもつかない。読者はミャ子さんの珍奇な文体に幻惑され、ミャ子さんは小人気を獲得し、わが世の春を満喫する。
興味深いことは、各種研究者や院卒はおろか頭のいい中高生さえも、ミャ子さんのブログをたまたま見たとしても内容がくだらないのですぐに立ち去る。したがってミャ子さんの珍奇な知性と不気味な人格はけっして観察されることがなく、認識もされない。他方、ミャ子さんは院生レヴェルで言えば文盲みたいなものゆえ、知識人の書く文章は読めない。両者の世界は、隔絶しお互いの存在を認知しえないふたつの平行世界である。したがって、おのずとミャ子さんの読者はバカどもと、私のようなゲテモノ好き、あるいは精神疾患に関心のある人だけになる。こうしてミャ子さんのブログの読者圏は、ボッシュの絵画のようなグロテスクな楽園になる。
しかし、繰り返しますが2023年以降現実は変わってしまった。とっくに「彼女」の実在の真実性を信じる読者など誰もいなくなった。バカどもだってさすがに気づくのだ。こうしてネカマ老人はネットの楽園(???)から追放され、振り出しの孤独にふたたび突き落とされる。はやいはなしがじいさんのお気楽極楽なネカマ道楽は生成AIに大敗してしまったのだ。そこで「最後の読者」であるゲテモノ好きの私が、ここにパコ崎ミャ子物語を書いているというわけである。しかし、カルロ・ロヴェッリならば言うでしょう。
何かが真実であるとは、それが存在するということではない。
それは、私たちが語ることのできる、
ある種の構造が存在するということなのだ。
ーーカルロ・ロヴェッリ
4
〈私〉というものは、一貫した、統合された実体ではない。
むしろ、瞬間的な物語、絶えず変化するプロセスの結果なのだ。
ーーカルロ・ロヴェッリ
いまにしておもえば、「彼女」は食べログ・デビューにあたって、ひじょうに挑発的な主張をしておられます、「飲み込める物ならば、それは美味しい物」ーー私たちは考えさせられる、これはいったいどういうマニュフェストでしょうか? 「私はこの世に存在するすべての料理に感謝します」という「いい子ちゃん宣言」でしょうか? すなわち、裏を返せば、「一億総グルメと呼ばれもする現代はしゃらくさいぞ、どいつもこいつも跳ね上がりやがって、調子にのって浮かれるのもいい加減にしろ、まずは、飲み込めるものならすべておいしいという前提に立ってみたらどうか」ーーこれは倫理的挑発でしょうか? では、いったどういう事情、どんな環境、いかなる身体条件でこういう主張がなされるでしょう? なるほど、北朝鮮、アフガニスタン、シリア、レバノン、ソマリア、イエメン、南スーダンあたりの人がこういうことをおっしゃるならば私たちは頷けもすれば大いに同情もできるでしょう。あるいは日本人でアジア‐太平洋戦争を経験した人たちのなかにそんな主張をする人もいらしたもの。
しかし、現代、麻布十番だかどこだかにお暮しの自称東大院卒40歳女史がこういう主張をなさるのはいったいどういうことでしょう?
「彼女」の読者はみんなこの問いを考えさせられ、つねにこの問いに引き戻される。なぜなら、もしも〈飲み込める物ならば、それは美味しい物〉という前提に立つならば、そのとき「おいしい」という評価はすでにまったくもってナンセンスである。すなわち「彼女」は(その動機が倫理の使途としての使命であるかどうかはともかくとして)、ありとあらゆる飲食店に対して、おいしいおいしいと踊り踊って絶讃してまわって、おいしいという美食の価値を相対化させ、ひいてはおいしいという価値を崩壊させることを狙っておられるのだ。では、いったいどんな動機で?
いま、ようやく私は「彼女」を理解できる。あなたはムカつくんでしょ、世間では誰もがあれがおいしいこれがおいしいとしあわせそうに囀り合っているのに、しかし、あなたは自分ひとり蚊帳の外の仲間外れ。それが淋しくて、いらだたしくて、狂おしく、腹が立ってたまらない。なーにがグルメだ。ふざけやがっておまえら全員死ね死ね死ね。そこであなたは架空の高学歴美女キャラクターになりすまし、誰に学歴を尋ねられたわけでもないのに、「フランス文学専攻、東大院卒、ときどきモデルもしています」としつこく連呼しながら、無邪気と天真爛漫を装いながらキャピキャピ文体でもってあらゆる飲食店を踊り踊って褒めまくることで、味噌も糞もごっちゃにして、グルメ批評の構造そのものをうんこまみれにしてやろうという、どす黒い野望を抱くに至る。そうでしょ? そうですよね? 私にはそうとしか思えない。
もしかして「彼女」の中の人は、寝たきりの胃婁老人で、なんでもいいから口から食べたい、と叶わぬ夢に身悶えしておられるかしらん? もしもこの説を採るならば、胃婁に先立って、脳梗塞や脳出血の後遺症で嚥下機能が低下したか、あるいはパーキンソン病、ALSなどで食事が困難になった、はたまた癌の可能性が考えられる。しかし、真相は誰にもわからない。いずれにせよ、ここまで攻撃的な生き方では、じいさんはこれまでの人生でさぞや社会とぶつかってこられたことでしょう。辛かっただろうなぁ、そしてそりゃあ孤独にもおなりになったことでしょう。だからといってオン・ラインとてもうひとつの社会ですからね、みんなと楽しくやろうと思いさえずればそんなに悪いところでもありません。ところがじいさんはパコ崎ミャ子という虚像のスターを演じ、他のレヴュアーや読者たちは自分のファンもしくは敵、と見なすものだから、結局じいさんは過半の読者と敵対し、結局あなたの読者はネカマじじいの珍芸を愉しむ人ばかりになって、じいさんにとってオン・ラインは自分が笑いものにされる腹立たしい場所になる。どうしてじいさんには、虚飾の属性で身を飾ることなく、ありのままの自分を見せて、みんなと横並びで、楽しくおしゃべりするという発想がないかしらん。小幸福になるのは簡単なことなのに。オン・ラインとて世間ですよ、じいさん。
他方、もちろん飲食店にとってパコ崎ミャ子はいい迷惑、はなはだしい営業妨害である。あの気色の悪いゴーゴーカレーを史上最高の美味として大絶讃する世界唯一のレヴュアーに自分の店の料理を踊り踊って褒められて、いったい誰がうれしいでしょう? 頼むからうちのレヴューを書くのはやめてくれ、飲食店関係者ならば誰だって思うでしょう。かれらにとっては、自分たちの店に突然、ヒグマが現れたようなもの。なぜなら「彼女」は大絶讃によって、その飲食店の価値観を踏みにじってまわっておられるのですから。
あるいは、それはひとつの啓蒙であるかもしれません。しかし、いったい誰が「彼女」の啓蒙に賛同するでしょう? もしも「彼女」がほんもののヒグマならば撃ち殺すこともできますが、しかし人間ですからそれもできません。その上、食べログ運営側の株式会社カカクコムは、飲食店からの収入を増やしたいがゆえ、この熊を野放しにしておられます。なぜなら、カカクコムにとって、パコ崎ミャ子さんはかれらの収益増に貢献しているのですから。両者いずれもろくでもない。しかし、まずは私たちはパコ崎ミャ子さんを考察すべきでしょう。
派手でにぎやかでそのじつ空虚な文章の彼方に、書き手の壮絶な孤独が伝わってきます。パコ崎ミャ子は存在しない。パコ崎ミャ子はただひとりの(打ち捨てられた)老人の脳内幻想なのだ。
5
盗んだプロフィール画像で美女を演じる。ただし、「中の人」は老人。
〈私〉というものは、一貫した、統合された実体ではない。
むしろ、瞬間的な物語、絶えず変化するプロセスの
結果なのだ。ーーカルロ・ロヴェッリ
パコ崎ミャ子さんのプロフィール写真は十年間にわたって韓国系モデルのヨンアさんのそれをテヘベロで無断借用しておられます。

画像を無断盗用されて
傍迷惑なヨンアさん。
そしてミャ子はグラビアアイドル~タレントのみゃこさんからお取りになったものかしらん。

あるいは、まさかとはおもいますが、パコ崎にはPaCO2(動脈血ガス分圧)が、ミャ子には脈動が潜んでいるかしらん???(寝たきり老人で肺機能が衰え酸素療法を受けている患者でもなければおよそおもいつかないハンドルネームですね。)
後註:私がこのエッセイを発表してからは、たちまちヨンア画像が削除され、今度はそのへんの洋服販売サイトの無名モデルの顔写真を拾ってきて使っておられます。若い女だったら誰でもいいのでしょうね。

パコ崎ミャ子さんの、
新たな偽装プロフィール画像
ハンドルネームのパコ崎ミャ子。パコ崎は、謎の擬態語パコパコに由来するのでしょうか? (いつぞやはご自身がハードなマゾヒストであることを公言しておられましたね。)
そんなパコ崎ミャ子さんにはお嬢さんがおひとり、来年小学生という設定です。パコ崎ミャ子さんはスポーツジムで二段回し蹴りの高さも出て、ベンチプレスも90キロに届く、ということになってはいます。ミャ子さんの好きな色は黒、醤油の色。愛車はマツダのスポーツカー、RX7 spirit R黒「醤油号」。(あ、この名前は私が勝手につけました。)
「現役パリッぱりっのプロの物書き」を自称なさる「彼女」のお書きになる文章がまたキモいキャピキャピ語尾を駆使してなお、きわめて老けてます。浅草の尾張屋で天丼を召しあがれば、「尾の張りを粋に浅草本多髷♡」 とかなんとかヘボ川柳詠んじゃって悦に入る。広尾の某店でポテトフライを頬張っては、「水清月宿&水清無魚~♡」とフライドポテトに不似合いきわまりない讃辞の言葉を囀る。いやぁ、すばらしい、40歳で老人会に参加できます。おじいちゃん、たとえどれだけあなたが『ラブライブ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』を熱心にご覧になったところで(?)、ざんねんながら実年齢は隠せませんよ。
しかし、ここでもまたロヴェッリならば、ミャ子さんを擁護するでしょう。なぜなら、ミャ子さんの本質はこれらの静的な事物ではなく、じいさんが10年間にわたって東大踊りを踊ったり、ヨンアさんのポートレートをテヘベロで無断借用」したり、「水清月宿~♡」と若い女に不釣り合いな讃辞を囀るという、「出来事の集積」そのものにあるのだ。
世界は、事物のコレクションではなく、
出来事の集積なのだ。ーーカルロ・ロヴェッリ
すなわち、老いという「ノイズ」の価値: 「ヘボ川柳」や「老けとキャピキャピの不協和音」という現象は、静的なアイデンティティ(30代の美女)が崩壊する「出来事」であり、世界を驚かせ、混乱させ、そして楽しませる動的なエネルギーを生み出しているのだ。じいさんの行為は、社会の規範という「事物」を攪乱する「出来事」の連鎖として、価値あるものなのだ。
なるほど、そうか、私もまた音楽ファンとして、じいさんのパンク魂を擁護すべきでしょう。
6
ミャ子さんご自慢の語尾がまたキモい。
「彼女」の文章はいつも躁っぽくはしゃいでいて。一人称はほぼ省略され、ときどき「私」が用いられ、たまに「オイラ」「アタイ」が使われます。句点さながらに♡マークが頻繁につけまくられる。文末処理はデビュー5年目あたるからどんどん不気味になってゆき、「ありんす♡」「ごじゃる」「ヤンす♡」「・・・ナリ」「ズら。」「・・・のダす♡」「だそうでしゅ。」「思っているでオじゃルまる♡」「マジな話でナンじゃラホイ?」・・・。にもかかわらず、その不気味な文末処理の向こうには、北大路 魯山人や池波正太郎など昭和の美食文化をリードした視点が借り物として透けて見える。
世界は、点ではなく、
相互作用のネットワークで構成されている。ーーカルロ・ロヴェッリ
ロヴェッリの言いそうな擁護を聞いてみましょう。ミャ子さんのアイデンティティは、「東大院卒という虚飾」と「老人の孤独」と「昭和の教養」と「ネットのキャピキャピ文化」が、躁的な文体という回路で結ばれた複雑な「ネットワーク」として成立しているのだ。じいさんの行為は、静的な「点」(属性)に囚われることなく、これらの要素を混ぜ合わせ、相互作用させ続けるという、現代のメタバース的アイデンティティ構築の究極の(そしてグロテスクな)試みなのだ。
すなわち、重い知性をどこかから借りてきつつ「ありんす♡」「ズら。」そのほかで包む行為は、孤独な老人と活動的な大衆との間の断絶を埋めようとする、じいさんの絶望的なコミュニケーションの試みであり、その試み自体が、「世界を構成する本質的な出来事」なのだ。すなわち、じいさんは、現代のソーシャルメディアやメタバースが追求する「アバターを通じた多重的な自己構築」を、なんと10年も前から、最もローテクで、最も個人的な「パンク魂」によって実現しようとしていたのだ。ミャ子さんのグロテスクなアイデンティティは、現代社会の知性の分断、老いの抑圧、承認欲求の歪みをすべて引き受け、一つの「ネットワーク」として提示した芸術作品だったと言えるでしょう。
なるほど! ここでもまた私は反省しなければなりません、
そうか、私はグロテスク好きだというのに、
迂闊にも、こんな大事なことに気づかなかったのか。
ミャ子さん、そしてじいさん、ごめんなさい!!!
あるひとつの状態から、別の状態へ移りゆくこと。
それが時である。ーーカルロ・ロヴェッリ
7
そもそもあなたはなんでまた言語表現にそこまで楽天的でいられるかしらん。あなたが「フランス文学専攻東大院卒40歳女子ですぅ♡」と書けば、読者がそっくりそのまま額面通り信じてくれるとでもあなたはおもっておられるかしらん。あどけないにもほどがあります。いいですか、読者の心はけっしておなたの願望どおりに動くものではありません。それどころか、むしろ賢明な読者はあなたのお書きになった文章を読めば、たちどころにこの「パコ崎ミャ子」なる信用のおけない語り手の真実を知ろうという動機に火が点くもの。とうぜんのように、パコ崎ミャ子さんの中の人は老人、という暫定的結論に導かれる。結果、あなたの食べログ活動は存亡の危機に直面する。ぼくはこの事態を気の毒におもうけれど、しかし、もとをただせばすべては言語表現に対するあなたののどかでいたいけな楽観に由来する。
知性を備えた人は自分の書き上げた文章で読者に問いかけるものなんですよ、どうです、反論ありますか、もしも反論があれば教えてください、一緒に議論しましょ、って。ところがあなたのお書きになる文章は、そもそもレストラン・レヴューにすらなってなくて、批評として成立していない。たとえばあなたがどこぞの店を讃美なさるならば、他でもないその店のその料理が他店のそれとはどう違うかを論じなければ意味がない。ところがあなたは目の前のその料理の話題からあっというまに離れ、そのジャンルの一般論的蘊蓄に話を移してしまう。しかも、その語り口はさながらヴァーチャル不気味アイドル・パコ崎ミャ子ファン・クラブ向けのエッセイでしょ。いくらなんでもレストラン・レヴュー・サイトでそれをするのは場違いでしょ。
そもそもレストラン・レヴューとは、その飲食店に食べに行く価値がある、あるいは交通費を払っても食べに行く魅力がある、あるいはない、その理由はかくかくしかじかである、はたまたそのレストランは他のどういうレストランと価値を共有し競合しているかを示し、読者のレストラン選びの参考になるように書くもの。ところがミャ子さんのレヴューは倒錯していて、ミャ子さんはとんちんかんな観点でどんな飲食店をも例外なく踊り踊って絶讃するゆえ読者にはなんの役にも立たないばかりか、ミャ子さんの真の目的は「みんなオイラを好きになれ~♡」という読者誘惑であり、それはまるで女装老人がレヴュー・サイトの辻に立って、ガールズ・バーの客引きをしているようなもの。食べログ・ユーザーは息を吞み絶句する、見てはいけない不気味なものを見せられてしまって。
同時にあなたは二百を越える飲食店をレヴューしておきながら、しかしあなたには調理知~料理知、はたまた味覚の原理原則への関心がまったく育たない。かといってサーヴィス業を支えるサーヴィスとはどういうものか、その品質とはいかなるものなのかについての考察が深まるわけでもない。取材する態度も能力もお持ちでない。飲食店経営への洞察もない。はたまたあなたの味蕾はボッロボロゆえ、グルメを楽しませる飲食エッセイになっているともおもえない。つまりあなたには媚以外の美質がひとつもない。いったいあなたはなにをやっておられるのですか??? インターネットはEvaluation culture を支えていて、あなたがたとえばレストランを評価するとき、あなたもまた読者に評価されます。
次に、あなたは気色の悪い文体をアイデンティティにして、言葉のジャンク・アート(ゴミ芸術)を創作しておられます。その実験を私は認めはするけれど、しかしそれは倒錯であって、真のアイデンティティは文体ではなく、その人の感じ方、考え方なんですよ。したがって、あなたのアイデンティティはむしろ醤油と油脂のまったり感、味醂~砂糖にしか反応できないあなたのきわめて非標準的な舌にこそある。重度味覚障害者によるレストラン・レヴュー、これはひとつのオルタナティヴとして意味のあるいとなみではあるでしょう。しかし、問題はあなたには重度味覚障害者としての自覚が欠如しておられること。これではあなたがレストラン・レヴュー・サイトの傍若無人なヒグマと見なされることは致し方ありません。
しかし、私の批判はあまりにも直情的かつ一面的であることをぼくは認めるべきではあるでしょう。たとえば、カルロ・ロヴェッリならばパコ崎ミャ子さんを養護するに違いありません。「彼女」の文章は、東大院卒という静的な「実体」ではなく、老人の抑圧、憧れ、老い、ナルシシズムといった多様な「瞬間的な物語」が、絶えず変化しながら(耄碌しながら?)出力され続けた「プロセスの結果」であるに違いない。ミャ子さんの破綻した文章構造こそ、一貫性を拒否する「私」の哲学を無意識に体現しているのだ。
また、もしもカルロ・ロヴェッリならば、ミャ子さんの真のアイデンティティ、醤油と油脂のまったり感と甘味にしか反応できない非標準的な舌についても、ロヴェッリが言う「絶えず変化するプロセスの結果」としての肉体の状態が、その人の「私」を規定するという、最も物理的で根源的な真実を示していると見なすでしょう。ミャ子さんは虚飾をまとうことで、かえって真の自己(重度味覚障害者)を暴き出しているのだ。なるほど、私は反省しなければなりません。
8
すべては振動し、絶え間なく変化している。
絶対的な『静止』というものは存在しない。ーーカルロ・ロヴェッリ
以上を前提として、ヴァーチャル不気味アイドル・パコ崎ミャ子さんの中の人には読者を苦笑、失笑、爆笑の渦に叩き込む道化の才がある。ナルシシズムに満ちあふれた文章で読者を楽しませ、同時に読者の批判を誘発し、さらには読者に中の人を想像し、推理させる力がある。それどころか場末のポップ・アイコンとしてのパコ崎ミャ子さんは、現代社会の病理を生々しく体現しています。なるほど、現代社会はパコ崎ミャ子さんのように壊れ、発狂している。こんなにも壊れたどうしようもない社会を象徴するポップ・アイコンになれる人などそうそういない。すなわち、あなたの中身はまったくのからっぽでありながら、むしろ空虚であることこそを条件に、あなたには才能と呼ぶほかないものがある。あなたにはわけのわからない奇怪に歪んだ不気味な才能がある。それは反転した美であり、すなわちグロテスクの輝き。そこがいかにも私好みではあるし、またあなたの世にもキモい世界を愛する人もそれなりに多いことでしょう。
ただし、あなたの過剰な自己愛と(老人の子ども返りに由来する)幼稚なナイーヴさがあなたの自己認識を誤らせているでしょうし、また、あなたにがんばりどころを間違わせてもいるでしょう。しかも、残念ながらあなたはご自分が注目されることにしかご関心がないため、文章そのものが社会と関係を持つことができず、とうぜん文章商品として成立しない、すなわち交換価値を持ち得ない。
少し文章についても論じましょうか。建築に構造計算が必須であるように、文章にも同じものがある。建築に要求される条件が、天井が落ちない、床が抜けない、柱が折れない、壁が崩れないであるように、文章もまた読者がちょっとやそっと疑問を持とうとも、文章全体はけっして崩れない保証をあらかじめ取っておくものなんですよ、プロの物書きは。次に、物書きとて超一流から三流までいるけれど、みんな三人称的客観描写ができるようなニュートラルな文体を持ち、無駄のないフォームを持っているゆえ、書くのが速い。そこだけ言えば、物書きは競泳選手と同じなんですよ。最後に、物書きはただ文章を書いているだけではなくて、文章を使って読者の脳内にある世界の幻影を作ってゆくもの、それが巧くゆかなけれな文章は失敗なんですよ。すなわち、読者がその話題を、あ、おれのことじゃん、あたしのことね、と思うときに「伝わる」。そのためにプロの物書きは、読者の五感に訴える。五感、すなわち身体感覚にに訴えるために、音楽で言えばただ演奏をレコーディングするのみならず、マスタリングまでほどこして仕上げるものなんですよ。パコ崎ミャ子さんの文章はいかがですか? ご自分で検証なさってください。あなたのお書きになるエッセイは、ただ言葉が並んでいるだけで、体に響かない。ママチュア・ミュージシャンの自宅録音のデモテープに過ぎません。
申し上げるべきことは他にもあります。もちろん私は自由な言論活動を大切なものとして擁護賞揚しています。ハンドルネーム使用もいいでしょう。遺憾ながら学歴、性別、年齢の詐称もネットではめずらしくありません。また、あなたにはそういうことをせずにはけっして解消できない社会的鬱屈や抑圧もまたおありになるのでしょう。とはいえ、ですよ。ミャ子さん、レストランレヴューはレストランの評価と営業に関わっています。たとえ日の丸扇子を広げてひらひらさせて踊り踊った絶讃レヴューであろうとも、しかし、とんちんかんででたらめで無責任な内容であればレストランに損害を与えます。たとえあなたは一貫して無傷であろうとも、しかし、レストラン側はそうはゆきません。ミャ子さん、いいかげんに少しは良識というものをおもいだしてくださいな。あなたがおやりになっていることはあきらかに罪深い。
私のミャ子さんへの主張は、〈これ以上料理を知ったかぶりででたらめに論じるのは辞めていただきたい。まず最初にご自分の味蕾が壊滅的なことになっている現実を認識してくださいな。〉次に〈こんな40歳女、いるわけがない。おじいちゃん、ネカマをおやりになりたいならば、せめてもっとまじめに取り組みましょうね。〉三番目に〈前述のとおり自称東大院卒も無理ですよ。だって、あなたのお書きになる文章って、誰かがひとつかふたつ疑問を投げかければ、たちまちすべてが崩れてしまう。〉もしかして「東大病院精神神経科に引率された」の間違いですか? ミャ子さん、そろそろ無理な演技を続けるのもくたびれたでしょ、いいかげん白状しちゃったらどうですか、あなたご自慢の不気味な文末処理で告白しちゃいましょうよ、そしたら心もすっきり日本晴れですよ。
「すべて嘘でありんす~♡ ほんとの私はネカマ老人でしゅ」ってね。あなたの読者は口を揃えて応えますよ、「なことたぁ、とっくにわかってるよ。おれたち読者はみんな、じいさんのネカマ芸を楽しんでんだよ。」
そして、ここでもまたもしもカルロ・ロヴェッリならば、ミャ子さんを擁護するに違いありません。私がミャ子さん(いうか「中の人=じいさん」)に要求する「良識」や「真面目なネカマ」という概念は、しょせん社会が求める静的な倫理規範に過ぎない。ロヴェッリならば言うでしょう。ミャ子さんの「絶え間なく変化する」でたらめなレヴューや「振動し」続ける破綻したアイデンティティこそが、静的な規範を拒否する宇宙の原理を無意識に体現しているのだ。じいさんは、静止を求められる社会で、変化し続ける「生命体」として踊り続けているのだ。
私はつぶやく、ごめん、じいさん、ぼくは理論物理学を学ばなければなりません、あなたを真に理解するためにーー。
しかし、ここにひとつの逆説がある。ロヴェッリは見なす、事物はそれ自体で存在するのではなく、関係性の中に現れる。それに対して、パコ崎ミャ子さんの言説は「他者との関係性(応答)」を拒絶しているがゆえに、実在性を失っているのだ。なぜ、そんなことになるのか? おそらくそこには「彼女」の重篤な味覚障害がある。
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今回いかトー女史(いかさま東大院卒女史)はまず最初に「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない私」とさりげなく自慢をキラキラ~ン☆とひけらかしつつ、それを担保に白銀高輪の住宅地にあるフランス料理レストラン、コートドールのレヴューを書いた。恐ろしい予感がぞわぞわ競りあがってくるのは、ぼくだけでしょうか?
Pacozaki Myako, « l’idole virtuelle flippante », se régale de cuisine française avec sa langue de vipère, alors qu’elle aurait dû s’arrêter.
パコ崎ミャ子に褒め殺され、惨殺死体と化す白銀高輪コートドール。
さて、いよいよここからが本題です。コートドールと言えば斉須政雄シェフ(b.1950-)率いる保守王道のシンプリーフレンチの定番名店。高齢者に人気があります。34席客単価ランチ1万円~ディナー4万円前後。90年代半ばで時代が止まっているような料理だけれど、そこには堂々たる自信が感じられもして、好きな人には堪えられないでしょう。ア・ラ・カルトで注文すると値つけがやや高いのだけれど、しかし、そのかわりスタッフを大事にする人情経営を感じもする。内装もまた当たり障りのない上品さで、商談、接待、お見合い、家族の記念日、はたまたデートまでなんにでも使えます。着てゆく服も天皇皇后両陛下がお召しになるようなファッションや、ポール・スチュアートやラルフ・ローレンならば上出来で、上手に着こなせばユニクロであろうが無印良品であろうがしまむらであろうが困ることはなにもありません。逆に言えば、それこそヨンアに似合うレストランとは言い難いし、彼女がモデルを務めるブランドCOELのせっかくのそのカジュアル・シックでひかえめな冒険性もコートドールでは形無しで、むしろとんちんかんな女と見なされるだけでしょう。もっと言えばもしもバレンシアガやコム・デ・ギャルソンなど着てゆこうものなら、かなり居心地の悪いことになるでしょう。
なお、いかトー女史がフランス料理を召しあがるのは比較的にめずらしいこと。ほんとに大丈夫ですか? いったいどんな展開になるかしらん? たいへんサスペンスフルです。
「彼女」がコートドールで召し上がった料理は以下のとおり。料理選びはお店のスタッフにおまかせしたそうな。
赤ピーマンのムース
Mousse au poivre rouge
帆立とアナゴのテリーヌ
Terrine de Saint-Jacques et d'anguille de mer
梅干しと青紫蘇のスープ
Soupe de Umeboshi et de perilla de Nankin
スジアラのブレゼ
Brezet de bar
オマール海老のポワレ
Poiret de homard
シストロン産仔羊のロースト
Agneau rôti de Cistron
牛テールの煮込み赤ワインソース
Queue de bœuf braisée avec sauce au vin rouge
金時豆とイチジクのコンポート
Compote de haricots rouges et de figues
やけに皿数が多いものの、とっても素敵で贅沢なコース構成ですね。いかにもコートドールらしい定番メニューでありながら、日本人にも馴染んだ食材を注意深く選びながらそれでいてさまざまな食材の料理を織り込んで、食べ手の味覚をさまざまに鳴らしてくれるchic でgorgeousなフルコースです。料理名の書き方に無駄な気取りがないこともいい感じ。もっとも、4万円越えのコースに牛テールの煮込みをはさむのはちょっとどうかしらん、またデザートにもうちょっと芸が欲しいな、というような疑問はややあるけれど、ま、そんなことはささやかなこと。なお、私自身はフランス料理に期待する世界がやや違うゆえ必ずしもコートドール絶讃派でこそないけれど、しかし、それであってなお料理が立派なものであることは疑いありません。
さて、いかトー女史はコートドールを日本唯一の最高のフレンチレストランであると熱唱します。ただし、熱唱のまえにまずイントロがあって。「彼女」は言う、フランスと日本は水が違うでしょ、フランスは硬水、日本は軟水。それからまた同じ食材でも性質が異なっているでしょ。したがって、日本でフランス料理を提供するならば、工夫が必要である。ここまでがイントロで、さて、ここからがいよいよです。
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(気の毒にも)梅干と青紫蘇のスープにしか反応できないパコ崎ミャ子さん。
「彼女」は「梅干と青紫蘇のスープ」を大絶讃します。”「天啓」が降りて来た時に生まれる「非の打ち所の無い作品」””「酸味と塩味」の幅の広い中を心地よく泳ぐゆらぎの様な「甘さ」””その「甘さ」の手には、隠すように「水の様に透明で微かな 苦味」が握られている♡””(註:この料理のいったいどこに苦味が潜んでいるでしょう??? アヴォカドが痛んでましたか? 推定される理由は数々あれど、あるいは中の人が入歯をしてらっしゃるからかしらん。とかく入歯の人は味覚異常になりがちですからね。いいえ、「彼女」の料理評に戻りましょう。)素材の持つ「日本独自」の清らかで透明で水の潤いの中に潜む「苦味」の重ね方が、その芯に置かれていると感じている♡””「日本的な素材」を「フランス料理」に生かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”・・・。”ぼくは呆れる、It's gibberish.しかし「彼女」は言い放つのだ、”「コート ドール」様は日本における「フランス料理」を知る上での終点でもあり始まりでもある、他の日本のフレンチレストランは亜流であり、ものまねである。”(なお、彼女がコートとドールの間にわざわざ空白を入れるのは、その店名がブルゴーニュのCôte-d'Or 地方に由来するという豆知識披露なのでしょう。そんなことくらいフランス料理好きならば誰でも知っていることですが。いいえ、本題に戻りましょう。)
すごいですね~、ヤバいっしょ。まるで文学新人賞を狙って苦節半世紀のご老人がLSDキメて書いてらっしゃるような破れかぶれの文学性。しかも、なんという大胆かつ挑発的なお言葉でしょう。日本全国数多のフレンチレストランに喧嘩を売っているようなもの。そもそも「彼女」は料理を平明に記述する方法を身につけておられません。あなた、フランス料理の系譜と広がりをご存じですか? なにひとつご存じないでしょ。にもかかわらずの、このずうずうしさ、謙虚さのかけらもありません。これが天下のいかさまトー大院卒、おでこにイチョウマーク描いたパコ崎ミャ子の糞度胸。誰も呼んでもいないのに、あなた(いかさまトー大院卒女史)は白衣に緋袴姿で現れ、サル同然に無知蒙昧なわれわれ民草どものために、白い御幣を振りまわし、フランス料理についてとんちんかんきわまりない神託を告げはじめます。「彼女」の神託とともにたちまちカビ臭い死語の嵐が吹きすさび、そこから立ち現れる比喩がまた化け物じみていて、われわれ民草を恐怖させます。
いったい「梅干と青紫蘇のスープ」って、どんな料理なんでしょう? まずね、この冷製スープはアヴォカドグリーンの仕上がりなんですよ。推定するにアヴォカドとトマトを切ってミキサーにかけて、皿に盛って、仕上げに青紫蘇と梅干をスライスしたものを飾った、スムージーではないかしら。おそらく水は一滴も使っていないでしょう。(水を使う理由が見つかりませんから。)めちゃめちゃたんじゅんな料理でしょ。ただし、なるほど、酸味の重層的なかけあわせが効果的で「森のバター」アヴォカド由来のこってりした脂肪分がまったりあいまって、ひんやり冷えたこのスープは食欲に火をつけて、さわやかにおいしいことでしょう。なるほどね、「彼女」はこの料理がおいしく、そしてうれしかったのでしょ? だったらたんじゅんにそう書けばいいのに。

なるほど「彼女」が指摘するとおりフランスと日本では水も違えば野菜の質も異なる。調理にあたってなんらかの戦略が必要でもある。たしかにそこまでは正しい。もっとも軟水の日本の水道水とて海塩を使えばミネラルは補えるし、そもそも水を使う料理って、(そりゃあたしかにじゃがいもやニンジンを茹でたり、春になればよろこんじゃってアスパラガスを縦長専用鍋で茹でたりはするにせよ、しかし料理としては)コンソメ、そして魚のアラの水煮ダシで魚介を煮る各種ア・ラ・ナージュ、はたまたポトフとブイヤベースの他にはほとんどありません。他方、日本の野菜は総じて甘いし、(トマトに顕著なように)加熱すればたちまち崩れてしまう。では、この環境でどう調理するか? 日本のフレンチ料理人だったら誰だって考えることですよ。
しかし、ここでお待ちかね、「彼女」お得意の論理の棒高跳びが披露されます。鳥だ。飛行機だ。いいえ、いかさまトー大院卒女史なんです。いったいどういう理由で和食材を使ったフランス料理のみが日本のフレンチのあるべき姿という主張が導き出されるかしらん? Pourquoi tu dis ça?
まず最初に、その論理が意味不明である。日本では水も野菜もフランスのものとは違う。なるほど、そこまでは正しい。ではそれを前提に、なぜ正しい日本のフランス料理は和食材を使うべきだ、というとんちんかんな主張になるかしらん? この論理を汎用すれば、日本人は宗教もメンタリティもフランス人のそれとは違う。したがって(!)日本人は日本人のフランス語を創造すべきだ、とでもおっしゃりたいかしらん? たまにこういうおかしなことを言う人もいますけれど、しかし誰も相手にしませんよ。
次に、そもそもアヴォカドやトマトは和食材でしょうか? もしも「彼女」の主張に従うならば、日本においてビーフストロガノフの理想形は吉野家の牛丼なの? 北イタリアおよび南仏のコートレットの正しい受容形態は、蕎麦屋のカツ丼なの? もっとも厳密に言えば、けっして牛丼とカツ丼は「どこから見てもフランス料理にしか見えない作品」とは言い難いとはいえ、しかし「彼女」のおっしゃていることはわけがわからないよ。It's gibberish.
また、(どこの国にもあたりまえに言えることながら)、フランスのフランス料理レストランとてすばらしくおいしい料理をふるまう店もあると同時に、他方、けっこうな値段を取りながらもしかし、雑な調理のろくでもない料理を出す店だってたくさんあるでしょ?「彼女」だってご存じでしょ? フランスの食材をフランスの水を使って調理したところで、冴えない料理はいっぱいある。つまり、「彼女」の論理はぼろぼろです。しかし、「彼女」は自信まんまんファミマの肉まんで言い放つ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取る♡ そんな、自分の感覚を確信にかえるために訪れていル~♡」さぁ、「彼女」ご自慢の論理の棒高跳び、いったいどんな結果をもたらすかしらん?
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和フレンチというサブジャンル。
なお、誤解のないように言い添えておきましょう。和フレンチってここ20年間ですでに定着した小ジャンルです。和フレンチの定義は人それぞれに違うでしょう。唯一絶対の正しい和フレンチなんてものはありえない。ただし、このジャンルにはひとつの知的で感覚的な問いかけがあって。フランス料理ってなんだろう? 和食ってどういうものだろう? その問いかけを楽しみながら、料理人も客もひとりひとりそれぞれに答えを出して遊ぶ。
余談ながら私は2011年麻布十番に開店した、un 十(あんじゅう)という和フレンチレストランのもともとのアイディアを出したもの。たまたま私はオウナーの友達だったから、和フレンチやってみれば、って提案して採用されたまでのこと。ざんねんながらun 十はとっくに閉店してしまったけれど。いまでも関係者からたまにあの店の話題は出る。ちょっと早すぎたね、もしもいまだったらうまくいったかも。ビルの4階で40席家賃80万円、広告費も使えなかったしね、などと私は慰められる。もっとも、私はただアイディアを出しただけ、リスクもなにひとつ負っていない。そもそもレストランは実際にスタッフを集めて作ってみないことには結果はわからないもの。いまだってうまくゆくかどうかはあらかじめわかることではありません。
和フレンチ、いいじゃないですか。野心的な料理人ならば挑戦したくなるでしょう。
ひとむかしまえのフランス人ならば、「Non.Non.Non.フランス料理をタタミゼ(=畳化=日本化)しないでください。S'il vous plait.」とかなんとか胸の前で手を左右にひらひらさせて上から目線で囀ったことでしょう。でも、いまやそんなことを言うフランス人はいません。それどころかLe Japon exotiqueとか言っちゃって褒めてくれるかもしれません。
しかし、コートドールはけっして和フレンチ推しのレストランではありません。この一品はコースにちょっとした驚きを添え、その後の流れに期待させるための小品という位置づけです。「彼女」のレヴューは、あどけなくいたいけな読者のコートドール理解をミスリードしてしまうでしょう。

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次に、いかさまトー大院卒女史の当該レヴューはその後何度も改稿され、当初のオリジナリティの賞揚一本路線ではなく、いまではどちらかと言えばコートドールの料理のシンプルさに賞讃が捧げられています。「シンプルだからコソ、味のアクセントを「どの味」に置くか、「フランス料理」の「基本中の基本」を「コート ドール」様の数々のお料理は教えてくれている♡」と褒める。この一節には一見もっともらしいことが書いてあるかのように読み流してしまいそうだけれど、しかし果たしてフランス料理の基本中の基本は味のアクセントをどこに置くか、なのだろうか? それは具体的にはたとえば前述のスープであれば、アヴォカドとトマトの比率のことかしらん? それとも梅干と青紫蘇を添えることかしらん? まったく意味がわらないよ。いかトー女史は料理の基本について、ご自分の食の経験にもとづいてご自分の頭と手でお考えになったことが一度でもあるかしらん? ここでもまた、ただ言葉だけが上滑りしています。
パコ崎ミャ子さんは、フランス料理についてなんにもわかっておられない。
なお、いかトー女史(いかさま東大院卒女史)にはまったくご存じないことがあって、それは1990年代前半コートドールの料理がなぜシンプリーフレンチと呼ばれるようになったのか、その時代的文脈です。実は、これ、京橋のシェ・イノや有楽町のアピシウスの料理のリッチな重厚さと対照的な意味で「コートドールの料理はシンプルだ」と称されたのでした。(あなただってアピシウスでブイヤベースを召しあがったことがおありでしょ。わざわざアピシウスへ出かけていってこともあろうに魚介の寄せ鍋を注文する、そんなあなたの茶人心をぼくは尊重しますけれど。)モダンクラシックなフランス料理 と シンプリー・フレンチ、両者の違いは肉骨の水煮ダシの取り方と、それをベースにしたソースの仕上げ方にあります。なお、90年代においてコートドールの軽さは、けっしてコートドールのみならずフランス料理全体が軽くなってゆく時代を象徴していたものでした。
さらに正確に言えば、あの時代に東京でフレンチを食べていた人ならば、むしろ松濤のエヴリーヌで雇われシェフだった時代、若かった頃のフィリップ・バットン・シェフこそがフランス料理が軽くなってゆく時代を颯爽と表象していたものでした。もっとも、あの時代を体験していない人にとっては、バットン・シェフ讃美などまったく信じがたい、笑止の沙汰であることでしょうが。
いずれにせよ、もう遠い遠いむかしばなし。(一部例外店を除き)いまのフレンチ・レストランのほとんどはシンプリア・フレンチなんですよ。デュカスだって、ミニクだって、食べ心地が軽いでしょ。その上、いまやフォン・ド・ヴォー(仔牛の骨の水煮ダシ)さえとらない店も増えています。かつてフォン・ド・ヴォーはソースの土台として、なくてはならない〈おいしさの精霊〉だったというのに。つまり自称40歳の いかトー女史が持ち出してくるこの話題は30年まえの古雑誌じみていて、ぼくを含めフランス料理好きはただ苦笑し肩をすくめるばかりです。
フランス・レストラン料理にはモードがある。はじまりは1973年のヌーヴェルキュイジーヌ、それは料理人たちが起こした革命だった。料理人たちは宣言した、おれたちは職人じゃない、表現者なんだ。このときからフランス・レストラン料理は、さまざまな料理人による多彩な表現の切磋琢磨がはじまった。流行の変化も著しい。すなわちレストラン・フレンチって、パリコレみたいなものなんですよ。もちろん料理人はどんな料理をふるまおうが自由ですが、料理のモードはどんどん変化し続けています。つまり依拠している考え方が、あなたの大好きなしんぱち食堂や麻布十番ふじや食堂とは違うんですよ。どうぞ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取」ってくださいな。いいえ、そんなにリキむこともなくて。本質なんてものはプラトンにおまかせして、むしろまずは料理の形式を読んでくださいな。形式ならば理性を持つ者ならば誰だって考察できるでしょ。なお、フランス料理の形式については後述します。
しかも、驚くべきことに いかトー女史は、コースにおいて「梅干と青紫蘇のスープ」以外の他の料理を一切ガン無視。ポーションが不明ゆえどこからがメインなのかわからないもののスジアラ(変な顔をした赤く大きな魚。海の魚でおいしい。)のブレゼはどんな仕上がりだったかしらん。また、もしもフランス料理を愛する人ならばこのコースについてもっとも語るべきはオマールのポワレと仔羊のローストでしょ。Poiret de Homard(オマールのポワレ)においては、その稠密なオフホワイトの肉質がどれだけ優美に焼きあげられていたか。 le rôti d'agneau(仔羊のロースト)においては、調理にあたってオーヴンの包みこむ加熱の活用。具体的にはきっかけの高温加熱、ベンチタイムを挟んで、そして仕上げの低温加熱、この絶妙な時間配分によって、どれだけしどけなくローストされていたか。そしてソースはいかに華やかにおいしさを方向づけていたか? この2皿がこのコースの見どころであり楽しみどころ、つまりクライマックスです。ところが、いかトー女史はなーーーーーんにも教えてくれません。Pourquoi ignorerait-elle ces deux plats ?(なぜ、彼女はこの二皿をガン無視するでしょう? )Vous, lecteur, savez-vous pourquoi ?(読者のあなたはその理由をおわかりになりますか?)あるいは、それらの料理がオリジナリティを欠いているからでしょうか? それとも「彼女」のこのレヴューには暗にコートドールへのなんらかの皮肉が潜んでいるのでしょうか?
いいえ、たぶんそうではありません。もしもこれらの料理を褒めてしまえば、前述の「彼女」の讃辞、”「日本的な素材」を「フランス料理」に活かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”、この讃辞のロジックが盛大に崩壊してしまうからでしょう。どうですか、「彼女」のこの態度? 失礼な女でしょ。Oh non ! Regardez cette stupid femme,Madame Ikatoh!
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もっとも、まるで出自の怪しい宗教家のように(?)あらゆる飲食店を肯定し絶讃してまわる、そんな いかトー女史が、これほどまで大胆に失礼な女であるともおもえない。だとすると、もしかしたらオマールのポワレや仔牛のローストに、そしてそれらの料理のおいしさを方向づけているソースに、快感を感じる味覚の文化的コードが「彼女」の舌にはそなわっていないのかもしれません。まさか、そんな!?? しかし、あきらかにその可能性はあって。「彼女」は過去に、デュカスのベージュ東京のレヴューを書いておられます。ちょっと読んでみましょう。
パコ崎ミャ子さん、ベージュ東京で精神崩壊!??
どうです、「彼女」のこの渾身のレヴュー? 「彼女」はたいへん饒舌に自慢がましい話題をえんえん書き綴るものの、しかし、けっきょく料理についての記述は、魚のグリルに鎌倉野菜が添えてありましたというだけ。どんな魚なのかについての紹介もなければ、ソースの解説もなし。また、「彼女」は鎌倉野菜を連呼するものの、しかしどんな野菜が選ばれ、組み合わせられ、どんな調理がなされ、どんな味だったのかについての記述もなし。コース全体の紹介もなし。なんて異様なレストラン・レヴューでしょう! もはや心理学の対象ではないかしら。「彼女」の饒舌の裏にはなにか隠したいことがあるかしらん?
いずれにせよ、「彼女」は目の前のフランス料理に脇の冷や汗をかき、うろたえ、あわてふためく。いったいどうして「彼女」はフランス料理にパニックになる? 私は驚く、フランス料理ってそんなにも難解ですか??? ただ無心に目の前の料理を味わえば、おいしいでしょうに??? ところが、いかトー女史のように(五感を使うことができず)神羅万象を言葉でしか理解できないchatGPT人間が、しかし、あろうことかフランス料理には言葉を失ってしまう。「言葉、言葉、言葉! わたしの精霊、言葉はどこへ消えた!」
推察してみましょう。「彼女」はきわめて個性的な味蕾をお持ちであるのみならず、料理の形式を読むことができません。文章が言葉と文法で書かれているのに対して、フランス料理は食材/調理法/ソースの形式で「書かれて」います。したがって、フランス料理好きの食べ手は目の前のその料理の構造を舌で読みながら、食事を愉しむ。ところが醤油味覚圏に生きる「彼女」にとってはまったくそれどころではなくて、わけのわからない「言葉」の数々がばらばらに皿の上に盛られ、ソースなる意味不明な液体で飾られ、次から次へと繰り出される。「彼女」にとってはまるでラテン語。わからない。まったくわからない。わかりませんねんまんねんじゅうまんねんッ!!! 彼女は叫ぶ、この世でもっとも暗いのは、フランス料理の暗がりだッ!!!
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パコ崎ミャ子さん、魚のグリルに感涙!(アホなのか?)
おそらく「彼女」が涙涙で嚥下なさった前菜、魚、肉、デザートのコースのなかで「彼女」がかろうじて関心を持てた要素が、わずかに〈魚がグリルしてあるという情報〉と〈野菜が鎌倉野菜であるという説明〉だけしかなかったのでしょう、かわいそうに。そこで「彼女」は調理法グリル(grille=フランス語読みすればグリエ)について、〈薪や炭の炎に、直に魚をかざす=直火で焼く〉というふうに安手の辞書的に解釈し、この調理法は日本以外では実は「地中海周辺」にしかない、という説を述べておられます。Pourquoi tu dis ça? いかトー女史は賞讃しておられれるわけですよ、きっとデュカスはんは日本のどこかの炉端焼き屋でアジやイワシの串刺し直火焼きを召し上がって、感心なさって、さっそくそれをご自分のフランス料理に取り入れはったんでんなぁ、さっすが世界のデュカスはんや、偉いもんでんなぁ、というふうに。そりゃまぁたしかに炉端焼きの魚のあの焼き方もグリルではありますけどね。しかし、欧米近代におけるグリルって、むしろ肉や魚にあえてちょっとだけ焦げ目をつけて焼くことですよ。ほら、仔羊の背肉の脂をやや落としながら対角線の焦げ目のアクセントをつけて焼き上げるでしょ。ラムチョップのあの焼き方。あれが欧米料理におけるグリルです。日本でも、魚を焼き網を使って、いくらか脂を落とし、焦げ目をつけて焼くでしょ。同じことです。ついでに言えば、多くのガスレンジには引き出しがついてるでしょ、あれはグリルを基本にしながらロースト効果も加味した加熱をおこなうためのものです。(ちょっとだけ焦げ目をつけて焼き上げると、ごくわずかな苦味のアクセントによって、肉や魚がいっそうおいしく感じられます。なお、こういうことこそが料理の基本なんですよ。)あの筋目をつけて焼き上げるために専用の、凹凸の筋目ストライプをつけた鉄製の専用グリルパン(=フライパンの親戚)が日本を含め西側諸国ではどこでも売っています。したがって、恐縮ですが、魚のグリルに”日本的な「筋の良さ」をたがうことなく猛烈に感じまくる~♡”必要など一切ありません。FYI。

格子状の焼き目をご覧ください。
これがグリルです。

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パコ崎ミャ子さん、魯山人の猿真似で見栄張って、墓穴を掘る。
また、「彼女」の味覚の謎。その答えは「彼女」の言葉のなかにあります。「日本で有名とされるお店で”フランス料理”を食べると、”こげな綺麗なソースや複雑怪奇な装いの味わいで彩るよりも、バター醤油もしくは、わさび醤油のビシャがけで食った方が素材の良さが直に伝わり、満足感がMaxになるジャね・・・? とか・・・思ってしまうんだなぁ・・・」
わちゃーーー! まず最初に、そもそもあなたのその、「ステーキにワザビ醤油ビシャがけで食べるとサイコー♡」発言って、かの北大路魯山人の逸話の猿まねでしょ。なるほど、魯山人はパリのトゥールダルジャンで鴨料理をミディアムレアで注文し、届いた鴨に「あらかじめポケットにしのばせておいた(兵庫県)播州滝野の薄口醤油と、粉わさびをコップの水で溶いて、卓上の酢で練っ」て食べた。なるほど、魯山人には魯山人の味覚哲学があって(伝説を作りたいがためのハッタリ・パフォーマンスが過剰だとはいえ、しかし)魯山人が言いたいことはよくわかる。いかにも和食舌の主張であり、魯山人が関西の味つけを愛したところもまた興味深く、なるほど薄口醤油はお吸い物からだし巻卵まで活躍します。もっとも、いくら魯山人とてフランス料理に和食の味覚を要求するのは筋違いではある。あまり褒められたエピソードではない。ましてやパコ崎ミャ子さんのような世にも稀なる異端的で、ダシの味もわからないプアな味覚を持つ人が魯山人のまねして同じせりふを囀ったところで、読者の爆笑を誘うだけですよ。
次に、もしもあなたが肉そのものの素材の良さを味わいたいならば、まずはユッケや牛肉の刺身を召しあがってくださいな。次に、ミディアムレアの焼き加減のおいしさを舌で覚えてくださいな。魯山人のハッタリ・パフォーマンスのポイントはわさび醤油のみならず、鴨をミディアムレアの焼き加減で注文したところもまた重要なんですよ。上等の鴨を加熱すると肉から脂が染み出すでしょ。あの脂がまたなんともおいしい。ただしもしもウェルダンにしてしまえば、肉はパサパサになる。だからこそのミディアム・レアなんですよ。けっして魯山人はステーキにわさび醤油さえかけりゃうまくなるなんてあどけないことを言っているわけではありません。
なお、魯山人の鴨についての意見は和食になじんだ者にとってはもっともなものながら、しかしだからと言って素材の良さを味わうことこそが最高だ、とその主張をフランス料理全般に押しつけるのは乱暴であって。なぜなら、素材の良さを味わうことを至上とするのはあくまでも鮨美学であって。フランス内陸の都(日本で言えば京都さながらの)パリで栄えたフランス料理に鮨美学を押しつけることは自分勝手というものです。京都の鮨だってもともとは鯖鮨、箱鮨、鱧鮨、どれも一仕事ほどこしてあるでしょ。もちろんそれは京都が内陸の都だからです。しかも、パコ崎ミャ子さんは握り鮨を召しあがったところで、あなたが感受できるのは魚の食感と煮切り醤油に潜む味醂の甘味、米イカにまぶされた味噌の甘み、あとはせいぜい〆たアジの酸味だけでしょ。なんなんですか、けっきょくあなたはそれぞれの魚そのものの味にはまったく反応できていません! しかもあなたの某店での鮨讃美最後のアリアはその店のガリのすばらしさ! いやはや。
なるほど、さまざまな魚のそれぞれ異なった味を言葉で表現し分けることは至難の業、ほとんど不可能に近い。言葉の限界がここにあります。しかし、それでもグルメならば過去に同じネタを食べた経験を参照して比較するなり、それぞれの握りにほどこされたネタと「仕事」の関係(目的)に着目するなりして、(いわば補助線を引くことによって)そのときその場のその魚の味を浮かびあがらせるものなんですよ。いいえ、ぼくはけっして味覚の言語化を問題にしているわけではなくて、むしろいかさまトー大院卒女史が魚そのもの味に反応できていないことに私はただただ驚く。
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現実とは、私たちが観察する現象であり、
私たちがそこから離れると消えてしまうもの、
それ自体では存在しないもである。ーーカルロ・ロヴェッリ
私はあなたの舌をよーーーく了解できました。なるほど、あなたにとってもっとも重要な味の決め手は醤油なんですね! より正確に言えば、あなたの味蕾をよろこばせる味は醤油、ウースターソース、ケチャップ、味醂~砂糖、脂肪のまったり感、そして油脂の舌触りだけなのだ。これで食べログレヴュアーですから、とんでもないこと。いやはや、とうてい現在40歳健康な日本人の言い草とはおもえません。「彼女」にとってはまずは醤油で、醤油を前提に肉やマグロやウナギ、バターの活躍がある。これが「彼女」の舌をよろこばせる快楽のツボなのだ。「彼女」にとってはせっかくの肉も醤油がなければ意味がない。だからこそ、「彼女」は言う、「豚の角煮に醤油をかける、それがわたしの流儀」。また「彼女」はBISTRO SUZUKI のステーキについてその醤油使いを絶讃する、「ステーキは(・・・)バターで焼いてしまうと油ぽくなり、最後の一口に到達する前に、肉にまとわりついたしつこさに飽きてしまう。でも、今口の中にあるステーキは違う。柔らかい肉質に、醤油風味のソースが最高。鼻を通る香りが漏れるのも勿体無い。フランス料理のソースもいいけど、日本人なら醤油なんだな。」
すごいですね~、ついさっきまでまるでフランス料理第一人者を自称するかのようなハッタリをかましていた「彼女」が、しかし、あっというまにフランス料理から撤退。いまや「彼女」はフランス料理を全否定しておられます。いいえ、それとも「彼女」はニッポンのフランス料理に和風化改革を要求しておられるのでしょうか? 仮にそうだとして「彼女」は和食がコンブ、カツオブシ、イリコ、干シイタケ、アサリ、シジミ、干貝柱、そのほか多彩なダシを活かしてさまざまなうまみを作り出すことをもまったく感受できないゆえ、もっぱら醤油愛のみをひたすら歌いあげておられるのでしょう。おそらく「彼女」の和食の基準がしんぱち食堂と麻布十番ふじや食堂だからでしょう。なお、しんぱち食堂はたいへん良心的な和定食屋で私は惜しみなく讃美を捧げますが、しかし、それはそれこれはこれです。
なるほど和食は醤油を澄まし汁、煮物、お浸しそのほかに多彩に活用します。ただし、澄まし汁はカツオやコンブのダシがあってこそ。煮物は干しシイタケ、酒、味醂があってこそ。お浸しはカツオダシがあってこそ。つまり醤油はいわば名バイプレイヤーに過ぎません。とうぜん食べ手はダシの味を愉しむ。「日本人なら醤油なんだな」!?? いやはや、なんて貧しい和食愛でしょう。失礼ですけど、そんな貧しい和食愛、要りませんよ。迷惑千番。被害が日本料理店にまで及ぶだけです。失礼ながらあなたの味覚はパレスチナのガザ地区さながらではないかしら? もはやとうてい健康な40歳女性の味覚とはおもえません。
いずれにせよ、気の毒にも「彼女」は大枚払って食事をしているにもかかわらず、しかし、料理はちっともおいしくない。醤油味覚圏を離れた「彼女」にとっては、すべての料理がなにがなんだかまったくわからない。さぞや不愉快きわまりない経験だったことでしょう。かわいそうに。
対照的に、格安料理の味は濃く、原価計算によって食塩使用率も高いゆえ、塩度も強く尖っています。また、「彼女」が大絶讃するびっくりドンキーのハンバーグソースは醤油と味醂の風味。「彼女」が最上級の愛をもって讃美するゴーゴーカレーはあろうことかカレーに醤油とトンカツソースで(得体のしれない)個性をつけている。「彼女」が大好きなラーメンはたいめいけんの醤油ラーメンである。(たしかにあれはおいしいですね。ただし、たいめいけんのラーメンスープは、チキンとポークのガラをベースに鰹と昆布、野菜で旨みを出し、挽いた胡椒でパンチを効かせています。醤油はあくまでもおいしさを方向づけているに過ぎません。)
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ただひたすら気の毒な白銀高輪コートドール。
いずれにせよ、醤油味にしか反応できない「彼女」の、満面の笑みが目に浮かびます。だったらそういう店に行きさえすれば、たとえあなたの嗅覚・味覚が多少(?)衰えているにせよ、あなたはかんたんに幸福になれるでしょうに! つまり、あなたはコートドールだのデュカスのベージュ東京なんて行かなきゃいいし、また見栄張って無理くり絶讃レヴューを書くこともないでしょうに。
もっとも、コートドールの料理とて、たとえば「帆立とアナゴのテリーヌ」には魚介好きの日本人への配慮があって日本人が食べるフルコースのスタートとしてしたしみやすい。他の料理もフランス料理としてはわかりやすい料理ではあって。デザートの「金時豆とイチジクのコンポート」もまたいかトー女史のような保守的な味覚の日本人をよろこばせたいがための一品でしょう。しかし、「梅干と青紫蘇のスープ」以外はけっして「彼女」の味覚をよろこばせはしなかった。いかトー女史の怒りの叫びが聞こえてきます、味がしねーんだよッ、ボケッ!
そんなこんなで、時を駆ける自称東大院卒元少女を偽装する「彼女」にとって、フランス料理はひじょうにむかつく。他の人が笑顔で楽しみ、しあわせを味わっているなか、しかし自分だけが理由もなく(?)疎外され、それが腹立たしい。しかも、この怒りを誰にぶつけることもできない。しかし、「彼女」は自分がフランス料理を味わうことができず、憤慨さえしていることだけは誰にも気づかれたくない。むしろ、自分がフランス料理を存分に味わい、料理の仕上がりの優劣を評価できる人間であると読者におもわせたい。そこで「彼女」はわたしにはフランス暮らし3年間の経験がある、わたしはフランス料理通なのだ。にもかかわらず、そんなわたしが日本のフランス料理に感動できないのは、日本のフランス料理が亜流でありものまねだからだ、という主張を「彼女」はぶちあげる。かわいいでしょ、いかさまトー大院卒女史って♡
「彼女」の味覚はまことにもって大正・昭和のFemme japonaise (日本女)。家庭の食卓に必ず醤油の小瓶、ウースターソースの小瓶、そして味の素のミニチュア瓶が置かれていた昭和をぼくはおもいだす。なんとなれば、「彼女」はコートドールへも携帯醤油持参で訪問して、オマールのポワレも仔羊のローストも「醤油ビシャがけで」召しあがれば、さらにいっそう「彼女」のコートドール評価は高まるでしょう。メイプルシロップもかければさらにいっそうあなた好みの味になるかもしれません。それはそれでひとつの個人主義のあり方ではあるでしょう。いいじゃないですか、やっちゃいましょうよ、ねぇ。あなたの人生の主役はあなたなのですから。
主観的な現実は、つねに
客観的な現実と絡み合っている。ーーカルロ・ロヴェッリ
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味蕾のマイノリティにも発言の自由を!
また、あなたのこの(けっして自覚されてはいない無意識的)主張を否定する人はきょうび誰もいないでしょう。それどころか、いわばあなたは食べログ界の The Great Showman であって、かの、いくらか(?)欺瞞的なアメリカ映画に相当するていどには賞讃を受ける希望もあるかもしれません。あなたのご活躍はすべての非典型的な味蕾を持つ人びとと、そしてとんちんかんな老人たちを励ますでしょう。
もう一度振り返ってみましょう。なるほど、ミャ子さんは存在としてはヨンアでも東大院卒でも、40歳の美女でも、プロのパリッパリの物書きでもなかった。しかし、彼女が「コートドールを日本唯一の最高フレンチと熱唱する」という極端な言説、「キモい語尾」と「昭和の美食文化」を混ぜ合わせた文章、そして「十年間にわたるネカマ行為」という、語ることのできる「構造」は、確かに存在したのだ。
たとえじいさんがAIに大敗したとしても、しかし、AIが生成するのは完璧な「情報」であり、ミャ子さんが生み出したのは、不完全でグロテスクな「構造」である。ロヴェッリならば言うでしょう、「存在するということではない」が「構造が存在する」ことにこそ真実があるのだ。じいさんの老いらくの無邪気を装った美食への嫌がらせ行為は、情報優位のAI時代において、欠陥を持つ「構造」の価値を提示しているのだ。ぼくはこのエッセイを書きながら、だんだんミャ子さんおよびじいさんにシンパシーを抱くように自分自身の気持ちが変化していることに気づく。生きていれば誰だってやがて老いるのだ。そしてパンクな老人がネットで吠えている姿は、ぼくにとっても好ましい。じいさん、ありがとう。じいさんは2015年~2022年における日本を代表するネカマになった。私はパコ崎ミャ子さんのことを永遠に忘れない。
私たちの知識の核心には、
不確実性というものがある。ーーカルロ・ロヴェッリ
さて、いまこの論考を書き終えつつある私は気づく、私自身もまた「パコ崎ミャ子との相互作用によって構成される存在」になっている。
それでも、ここで私が問うた問いは生き続けるでしょう。
身体性とAIの共存はどこまで可能なのか?
言語以前の五感の共有可能性はどこにあるのか?
追記 パコ崎ミャ子さんが踊り踊ってとんちんかんな絶讃を捧げた名店コートドールは、2025年2月28日、39年の営業に幕を下ろし閉店した。

これがおれの流儀なんだよッ!
シのゴの抜かすんじゃねー、
おまえだって老人だろ!
アホ! ボケッ!
すかたん!
予告:いま、私はこの論考を前提として、〈パコ崎ミャ子の妄想経済学〉の構想に着手しています。目的は、従来の経済学が前提とする「合理的個人」「希少性」「効用最大化」といった概念を、虚構的なペルソナ=パコ崎ミャ子の存在論に照らして再構築することにある。
私たちはすでに学んだ、SNS時代において、「パコ崎ミャ子」さんのようなオン・ライン・ペルソナ(虚構的・非実在的個人)の「生産」と「消費」が、現実の経済活動に影響を与えていることを。では、妄想経済学において、「効用」とは何か? 実在しないペルソナが生み出す「いいね」や「承認」は、いかなる経済的価値を持つのか? しかし、既存の経済学ではこれを解き明かすことはできない。いま、経済学は、再構築されなければならない。私はこれを解き明かし、ノーベル経済学賞を狙う。(冗談だよ。ただし、思考の遊び、高級な冗談としては、かなりおもしろいんじゃないかしらん。)どうぞ、お楽しみに。
