さらば、役立たずの近代経済学。いま必要なのは妄想経済学だ:イントロダクション:パコ崎ミャ子は囁く、Come Together
とっくに世界はでたらめに狂っている。
しかし、いつの時代もそうであったように、
私たちがそれに気づくのは遅すぎる。
そして私たちは溜息をつき、
例によって、ミネルヴァのフクロウの話をする。
しかし、いまさら古代ローマの女神の話をしたところでなんになる?
ある日、パコ崎ミャ子さんはオンラインの闇から現れ、
妙に艶のあるしわがれ声でこう囁いた。
「Come Together」
じいさんはカツラをかぶって女装して、
マツダのスポーツカー――RX-7 SPIRIT R、
「醤油号」に乗って現れる、
とんだジョーカーさ。
ヨンアさんの画像をパクり、
媚びに媚びを重ねた媚態文体で、
キラキラに“羂索化”した情報をばらまきながら、
グルメ気取りのレヴューを書き散らす。
けれども、ほんとは重度の味覚障害、
醤油の味にしかよろこびゃしない。
だが、しばらくは誰も気づかない。
みんなまぬけだったんだ。
「彼女」が、フランス文学専攻・東大院卒の“グルメ女史”、
ときどきモデルもやってます――
そんな設定を、誰もが疑わなかった。
とっくに世界は狂っている。
現実と虚構の境界はとっくに溶けちまった。
「彼女」は囁く、Shoot me.
(いや、もう撃たれてるのはこっちのほうだ。)
これはいまの世界の姿そのものではないか?
現実も虚構もとっくに溶けた
パコ崎ミャ子現象とは、
〈AI以前/以後〉の社会が生んだ小さな寓話だ。
人々は“なりたい幻”に自分を寄せてゆく。
“見たい虚構”に簡単に騙されちまう。
そしていつのまにか、
主体は溶け、境界は曖昧になって、
――それでも誰も怖がらない。
むしろ楽しんでしまう。
ここに、妄想経済学の第一原理がある。
経済は「人間の癖」と「集団の不安」によって動く。
貨幣よりも、需要供給よりも、
はるかに深い場所で、
人間たちは妄想し、誤解し、期待し、怯え、信じ込む。
その総体の現れが「経済」と呼ばれているにすぎない。
SNSが心の影を増幅し、
市場は「不安」と「期待」という名の風評で揺れ、
貨幣は国家でも企業でもなく、
“集合妄想の音量”によって価値を変える。
市場はもはや経済学者が語るような“理性の劇場”ではない。
そこには見えざる手など存在しない。
あるのは――
「声」だけだ。
「買えよ」「逃げろ」「置いていかれるぞ」
「それっぽく見える」「なんかヤバい」
そんな囁きの連なりで、世界は動いている。
もはや経済は“理由”で動かない。“気分”で動くのだ。
近代経済学はずっと嘘をついてきた。
“合理的な選択”“効用最大化”“価格メカニズム”……
しかし、人間はそんな生き物じゃない。
人は“気分”で金を使い、
“孤独の深さ”で消費し、
“社会的な重さ”で投資する。
貨幣は数値ではなく、
妄想の翻訳装置なのだ。
だから、いま、妄想経済学が必要になる
合理性の教科書を捨てよ。
代わりに、人間の不安、虚勢、希望、承認欲、嫉妬、誤読……
そのすべてを可視化する“経済学”を考えなければならない。
それが――
妄想経済学(Hallucinatory Economics)
である。
さあ、Come Together
この論考は、
近代経済学の“死後”の世界を見に行く旅である。
市場がどのように声で動き、
権威がどのように妄想によって構築され、
貨幣がどのように私たちの内面を映すのか。
次章から、あなたは
“経済という名の怪物の本性”
を目撃することになるだろう。
だが恐れる必要はない。
パコ崎ミャ子さんはいつものように微笑んで囁くはずだ、
Shoot me.
