ふたつの音楽世界の境界を歩くーー世界の音楽の、抹消された故郷、音楽を愛するすべての人にとっての約束の地、中央アジア・コーカサス 前編
アジア—時間の反乱と多元性(4)
地球の音楽の中心地はどこにある?
とっくに欧米の音楽ビジネスは創造性を失っていて、とてもじゃないけど、世界音楽の中心地とは言えない。いいえ、欧米に限らない、世界中の都市の音楽は錯乱しながら、なにかに賭け、狂気に嵌りこみながら、未来を模索している。スリリングだけれど、安息の地は見つからない、おそらく永遠に。あるいはその創造性に着目するならば、いま進みつつある世界音楽をすべて飲み込まんとするインドと見なすこともできるかもしれない。たしかにインド音楽はたいへんおもしろい。しかし、世界音楽の歴史を考えるならば、あきらかにその中心は、中央アジア・コーカサスなのである。その地は、あらゆる音楽を愛する私たちの、
抹消された故郷なのである。
トルコから中央アジアに広がるマカームの精緻な旋法、
アゼルバイジャンの魂の賭けとしてのムガーム、
そして、グルジア(ジョージア)の峻厳な山脈の響きを抱く多声合唱。
私の読者よ、騙されたと思って、一度かの地の音楽に耳を傾け、
このエッセイを最後まで読んで欲しい。
あなたはきっと不思議に思うでしょう、
どうして訪ねてみたこともない土地の音楽が、
こんなにも懐かしく、癒されるのだろう?
1|響きの中から見えてくる、異郷の情景
トルコの都市、イスタンブールの黄昏時。アヤソフィアの丸みを帯びたドームを遠景に、薄暗くなりかけたスルタンアフメット広場の一角。日中の喧騒がようやく収まり、石畳を照らす街灯のオレンジ色が、疲れた旅人の顔に静かに影を落とし始めた頃。
一本の横笛(ネイ)の響きが、湿度の低い、それでいてどこか切ない空気を連れてくる。この音色が連れてくるのは、異郷の情景でありながら、なぜか私たちの内奥に、遠い親近性を感じさせる。まるでヨーロッパの中世音楽(例えば、ゴシック教会の冷たい石壁に響くグレゴリオ聖歌の余韻)と、一本の細い血管で繋がっているとしか思えない。同時に、それは静かに座禅を組む僧侶が嗅ぐ密教の匂いをも運んでくる。
奏者は、座り込んだまま、瞑想するような顔で笛を口に当てている。かれの背後のサズ(弦楽器)は、控えめに、しかし確実に三拍子を刻み、低く、さざ波のようなドローン音を背景に敷いている。横笛のメロディは、いつの間にか弦楽器のそれに受け渡され、その場で精霊たちのダンスが始まっているように見える。観客は立ち止まったまま、物言わぬ彫像のような顔で、ただその音の変容に身をゆだねている。笛の音は踊るようで、どこへ行くかわからない。笛吹きの後を子供たちがうれしそうについて行って、やがて帰り道を見失ってしまうような音楽。
それは単なる民族楽器の調べではない。時代も文化圏も隔てた点と点が、ふいに一本の細い糸で結ばれたかのようだ。中世ヨーロッパのモテットの余韻と、唐の箏や日本の尺八の静かな揺らぎ、さらにはコーカサスの山中での祈祷歌の低い唸りまでが、遠回りしながら同じ場所へ帰ってくる。まるで音楽が数千年かけて描いた円の、その交点に、いま私たちが立ってしまったかのようではないか。
2|風土が定めた、声の形
この中央アジア・コーカサス地域は、東アジア、南アジア、中東、欧州、ロシアに囲まれた、地政学的に重要な、交易と征服の交差点である。シルクロードという長い動脈を旅し、交易と征服と信仰と疫病が繰り返され往復するたびに、人と声と旋律は混ざり変わってきた。しかし、けっしてかれらの音楽の核だけは失われなかった。
この土地から生まれる音楽は、もはや「西洋」だの「東洋」だのといった、地理的な峻別を崩壊させてしまう。それは音階が普遍的だからではなく、むしろその逆で、私たちの身体のどこか深いところに、同じ風の記憶が残っているからではないか。
音楽は旅をし、複数の文明の時間を折り畳み、そしていま、横笛の一息として目の前でほどけている。音は土地で生まれ、土地と別れない。
湿度の低い空気
夜の砂の冷たさ
祈りの言語
風の吹く角度
そうした風土の条件のすべてが、マカームやムガームやポリフォニーの形を決定した。だから、私がこの音階を「理解できる」と感じるとき、それは知識ではなく、もっと原始的な「身体の記憶」が反応しているのだろう。この地域に流れる音楽は、単なるエキゾティシズムではなく、「音楽とは何か」「人間はなぜ声を持つのか」「時間はどのように流れるのか」という根源的な問いへ私たちを導く。
3|マカームの螺旋:オスマン宮廷と茶店の時間の発酵
マカームは、単に「音階」ではない。音程の配列、装飾の仕方、歌い出す高さ、どこで息を吸い、どう震えを沈めるか──それらすべてを包含する〈音の宇宙論〉である。
トルコ・イスタンブールのオスマン宮廷の厳かな宴、あるいは、ウズベキスタン・ブハラの旧市街の隅にある、土壁の茶店(チャイハネ)。埃っぽい空気と、茶葉の香りが漂うその場所で、老いたウード奏者が、座布団に座り、静かに目を閉じている。かれの顔には、数十年、数百年の旋律の記憶が刻まれているようだ。
アラブ、ペルシア、トルコ、ウズベク、タジク……国が変わればマカームの性格も変わる。けれども、その根本には「音はけっして一直線に進まない」という思想がある。西洋音楽のように緊張と解決の対立で音楽のドラマを組むのではなく、マカームの旋律は螺旋のように、同じ地点へ戻りながら深度だけを変えていく。茶店の客たちは、グラスでチャイを啜る顔を上げ、その旋律が飽和する寸前でふっとほどける瞬間に、ため息を漏らす。
ここでは時間が前後に伸びず、ただその場で発酵してゆく。私が初めてマカームを聴いたとき、ヨーロッパの中世音楽に似ていると同時に、「音が方向をもたない音楽」という意味において、インド音楽にも、ある意味で沖縄民民謡にさえも似ていることに不思議な感慨を持った。そこには進歩も終着もない。ただ循環し、深化し、魂の奥へ潜っていく螺旋があるだけだ。
4|ムガームの深層滞留:バクーの夜の即興
マカームの思想がもっとも濃密に発酵したのが、アゼルバイジャンのムガームだ。
バクーの旧市街の、黒ずんだ石壁の奥にある、簡素な音楽ホール。ホールには濃い色のカーテンが引かれ、外界の光を遮っている。壇上に立つ歌い手(ハーナンデ)は、魂を絞り出すような顔で、旋律の微細な段差を滑り降りる。横には、胴の細長いタールや、膝の上で弾かれるカマンチャが寄り添い、ドホルの拍がときおり地面を叩くような低い衝撃音を与える。
ムガームの中心には、即興という賭けがある。決まった旋律型はあるものの、その順序や展開は歌い手の精神状態に委ねられる。即興とは、未来を手放し、ひたすら今この瞬間の声を掘り下げることだ。歌い手は神秘思想の詩歌を口ずさみ、聴衆は、光の届かない前方の席で、ただ彼の精神が落ちていく深さを静かに見守る。
その声は、悲嘆ではない。苦悶でもない。一歩間違えば涙に沈みそうな感情を、ギリギリのところで引き留め、音の揺れとして外に出しているにすぎない。
音は言葉の前にある。
言葉が生まれる前の、裸の感情だけがむき出しになっている。
ある女の声が、ふっと静けさを破って震える。誰かが咳払いをしてしまう。
すると歌い手は、その微細な揺らぎをすら音の中に編み込んでいく。
ムガームは「聴かれる」音楽ではなく、「共に落下する」音楽だ。
旋律の山を越えてゆくのではない。地面の裂け目から深層へ落ちてゆく。その落下のなかで、聴衆は「自分の声」があらわになるのを恐れながら、それでも目をそらせずにいる。
アゼルバイジャンの民族学者は言う。
「ムガームは、魂の滞留の記録だ。」
確かにそうだ。魂が前へ進むことも、後ろへ戻ることもできず、ただその場で震え続ける時間の滞留。
その滞留の深さこそが、ムガームの魅力であり、中央アジア・コーカサス音楽の核なのだ。
続く後編では、ジョージア(グルジア)の奇跡の多声音楽について語ろう。
