ふたつの音楽世界の境界を歩くーーバリ島の楽しいガムラン音楽:円環する時間と西洋の“音楽的免疫”の崩壊
揺れるリズム(3)
1|ウブドゥのガムラン
もう遠いむかしのことだけれど、私はインドネシアのバリを訊ねた日々の幸福な記憶を忘れることができない。ジャカルタの喧噪のなかインドネシア人の客引きの子供が私を日本人と察して呼びかけた、「ちびまる子ちゃん、知ってるよ~」今頃かれはとっくの大人になっているだろう、どんな仕事をして、どんな家庭を持っているかしらん。旅行者の他愛ない感傷ではある。
しかし、私が忘れられないのはむしろ内陸部の音楽の村、ウブドゥである。自然に囲まれた簡素な村に、十字に道が走っていて、商店や飲食店が並ぶ。竹づくりのつましい家々が建っている。家々の前にはささやかな飯がちんまり持ってあり、犬たちがそれを食い散らかす。緑が多く、遠くキンタマーニ山が見える。日本人はその山の名前に微笑む。
村の人はみんな音楽が好きだ。ちいさな竹琴を寄り添ってふたりで、竹の先にコイン状のちいさなタイヤみたいなのをつけたバチで、大の大人がふたりそれぞれ二本のバチで簡素な音型を叩き合い、ふたつの音型が作り出す素朴な音楽を楽しむ。私は何度も参加させてもらった。なるほど、ガムラン音楽の原型はここにあったのか。そして私は竹琴を買い求めた。
夜になると、寺の境内に村の人が集まって来る。かれらは少し高い場所の床に座り、床に置かれた大小さまざまな金属楽器を叩きはじめる。最初は静かにゆっくりと。やがて金属打楽器合奏が始まって、さまざまな倍音が作り出す、音響のモワレが立ち上がる。そこになにやら半裸の男たちが登場し、なにやら応酬の劇が始まる。どうやら村に悪霊が訪れたのだ。この不穏な危機をなんとかねじ伏せ、やがて悪霊は退散し、村に平和が戻って来る。打楽器合奏は次第に静けさに戻ってゆく。ざっと、そんな音楽劇であるようだった。実は、私はガムラン音楽を聴きにインドネシアに訪れた。この異郷の音楽に私はたいへん満足したものだ。
2|円環する時間/直進する時間
私は思った、ここには西洋とはまったく違った時間が流れていて、いわばそれは円環する時間である。
西洋音楽が千年をかけて築いたものは、一直線に延びる時間、原因と結果が並ぶ物語のような時間、そして「解決」に向かって推進する時間だった。対照的に、バリやジャワのガムランが孕む時間はまったく逆である。そこには出発も到達もなく、ただ同じ中心をゆっくり巡る運動があるだけだ。音はけっして未来へ向かって突き進まない。むしろ、運命のように戻ってくる。
ガムランは〈循環する宇宙〉を鳴らしているのだ。
思えば1889年のパリ万国博覧会でドビュッシーとラヴェルはジャワのガムランに出会ったと音楽史の脚注に記されてはいる。しかし、かれらの音楽からその影響を感じ取ることは難しい。かれらはガムランに衝撃を受けながらも、しかし、それを自分たちの時間体系に“翻訳”することしかできなかった。そしてそのように解釈されたとき、ガムランの痕跡は消えてしまう。かれらの耳には、あの奇妙な倍音の揺れも、ランダムのように聞こえるゴングの配置も、「異国情緒」として処理するしかなかったのだ。かれらは、円環の宇宙を“絵葉書”にすることでしか保存できなかった。
1930年代のストラヴィンスキーとて同様である。かれは友人を通じてガムランのアレンジ譜を眺め、興味を示しはした。だが、かれがそこから本質的に学び取ったものはなにもない。ストラヴィンスキーがどれほどリズムの革新者であったとしても、ガムラン的な「円環の時間」には触れなかった。
つまり、西洋は20世紀前半まで――非西洋に対して“免疫”を持っていたのだ。
ここで言う免疫とはなにか。
それは、西洋音楽の形式と美学が“外来の時間感覚”を拒む力であり、どれだけ刺激を受けても、本質的な変容を起こさせない防壁である。
ドビュッシーがガムランにいかに魅了されても、ラヴェルがどれほど分析しても、かれらの音楽自体は変わらなかった。
〈線形時間〉という深い構造が、かれらを守っていたから。
しかし、その免疫が崩れたのは、1960年代だった。
スティーヴ・ライヒがガーナでエヴェ族の打楽器音楽を学び、1969年の《Drumming》で「西洋の時間」を根幹から揺さぶったとき、西洋はついに、千年守り続けてきた〈時間感覚〉を手放さざるをえなくなった。
こだまのように反復し、ずれながら重なり、終わりのない円環へと溶け込んでゆく。これはまさに、いわばガムランの時間が西洋の内部に生まれた瞬間だった。
ライヒはその後、この方法のもと音楽を複雑化させ拡大してゆく。ガムランが直接影響したというより、ガムランの〈宇宙〉が、西洋側の内部事情――構造主義、ミニマリズム、電子音楽、1960年代の感性革命――と共鳴したのだ。
このとき西洋音楽の免疫は破れた。
非西洋のリズム、非西洋の倍音、非西洋の時間が、西洋という大陸に“侵入”し、むしろ新しい未来を開く基盤となったのだ。
では、免疫の崩壊とは敗北なのだろうか。
そうではない。
それは、西洋がはじめて「他者の時間」を受け入れる準備が整ったということだ。
ガムランが西洋を侵したのではなく、むしろ、西洋が自律的にその扉を開けたと言うべきかもしれない。1960年代の混乱、価値観の揺らぎ、ポストコロニアルな視線の胎動――そのすべてが、ガムランの円環と共鳴する土壌をつくった。
ガムランの音を聴くとき、私たちはどこかで「時計」という概念を手放す。
振り返れば、西洋の歴史そのものが、時計による世界支配の歴史だった。
きっちりと進む拍、目的へ向かう和声、語りのように展開する形式……。
その秩序は偉大だったが、同時に息苦しくもあった。
ガムランは、そんな世界へ別の呼吸法を持ち込んだのである。
世界の音楽の地図は、西洋が描いたものだけではない。
むしろ、その地図の外側にこそ、鼓動がある。
ガムランは、その外側から世界を照らす青い炎だった。
そしてかれらがその青い炎を知ったとき、
西洋音楽の地図は破れてゆく。
3|だが、その円環する時間もまたいま危機にさらされている
世界化した音楽は、もはや聴く者を守らない。
円環は円環のままではいられず、商品へ、サンプリングへ、観賞用の〈エキゾ〉へと変質する。
ガムランが持っていたのは〈免疫〉——つまり、外部の騒音を拒む膜だった。
村の時間、神々の時間、稲作の時間、死者の時間、それらすべてが重なり合うことで成立した固有のビート。
しかし市場はそれを剥ぎ取り、磨き、輸出可能な音響に変える。
音は美しくなりすぎ、均質化した。
あの「生き物のようにうごめく周期」が消えてゆく。
グローバルは祝福だったのか、それとも感染だったのか。
“音楽的免疫”の崩壊とは、ただ外部の影響を受けたという意味ではない。
抵抗をやめ、意味も背景も喪失した音が、ただ「風景」として流されるようになったということだ。
もはや音は「世界の裂け目」を持たず、聴き手に突き刺さらない。
Spotifyの無限再生、映像のBGM、呼吸のように薄まるリズム。
音楽はふたたび〈環境〉へと堕ちた——しかしそれは本来の「環境音楽」ではなく、意識を奪わないための音の壁紙だ。
祈りのための音楽は
ついに「祈られない音楽」になった。
だから、いま私たちがガムランに耳を寄せるとき、そこには二重の欲望が現れる。
ひとつは〈遠い場所の時間〉を夢見るロマン主義。
もうひとつは、失われた免疫を取り戻そうとする無意識の希求。
つまり、私たちはガムランを聴きながら——
そこに存在していたはずの別の世界線を、触れられないガラス越しに覗き込んでいるのだ。
しかし、終わりではない。
円環する時間は、完全には消えなかった。
ジャワの夜、バリの寺院、あるいは世界の片隅の小さなスタジオで、
まだ人々は同じ音を叩き、呼吸を合わせ、世界の回転を聞き分けている。
それは効率でも、輸出でもなく、
ただ時間を共有するという共同の身体だ。
音楽が免疫を失った時代に、
私たちはどのように〈守られる音〉を再発明できるのか。
ふたたび円環へ戻ることはできない。
しかし——直線の先で円が新たに描かれる瞬間がある。
ガムランの崩壊とは終わりではなく、
「別の円環を設計できるか」という問いの始まりなのだ。
4|ウブドゥの優しい闇
私はいまでもウブドゥの夜、ガムラン音楽を聴き終わって、宿へ帰る道を覚えている。真っ暗闇のなかカエルたちの合唱が聴こえてくる。不思議と怖くはなかった。私は戯れに片手に竹琴を持ち、片手に持ったバチで竹琴を叩きはじめる。どこか遠い闇の彼方から男たちの陽気な声が聞こえてくる、タナカさ~ん、ホンダさ~ん!
ガムランの円環は、未来へ向かって進む私たちの身体を、一度だけ静かに立ち止まらせる。
そして問いかける。
私たちが信じてきた“時間”とは、本当に唯一の時間なのだろうか。
5|そして私たちはシベリアへ
次に私たちが向かうのは、
「時間が凍りつく場所」――シベリアである。
そこで鳴らされるのは炎ではなく、凍結と沈黙のビート。
ガムランの円環が、北方の地でどのように変質し、
どのように「別の免疫」を破っていくのか。
私たちはもう、西洋か東洋か、伝統か前衛かという単純な地図の外側にいる。
ただ音に導かれ、時間の形そのものが変わる瞬間を追う旅人となる。
円環の南洋から、静寂が砕ける北方へ。
音楽は、次の扉をまた叩きはじめている。
この論考は第三部『アジア—時間の反乱と多元性』へ向かってゆく。
