短編:七月三十二日
◉風まかせ文芸部【7月32日】参加作品
小学五年生の夏休みだった。
祖父母の家は山あいの小さな集落にあり、夜になると、聞こえてくるのは川のせせらぎと風に揺れる木々の音だけになる。
七月三十一日の夜。眠れなかった僕は、居間の柱時計を見た。午後十一時五十六分。あと四分で日付けが変わる。
そのとき、縁側の障子が勝手に音もなく開いた。
誰かいる──
そう思って庭へ出ると、月明かりの下に一人の少女が立っていた。僕より少し年上で中学生くらいだ。白いワンピース姿で、胸に黒い石のようなものを抱えている。
不思議と怖くはなかった。
「こんばんは」
そう声を掛けると、少女は少し驚いたように目を丸くした。
「見えてるんだ」
少女はほっとしたように笑った。そして僕のいるこの世界とは違う、別の世界からやって来たことを告げた。子どもだった僕は、その言葉を疑わなかった。
「七月三十二日の今日、君にお願いがあるの」
少女の言っていることの意味が分からず笑ってしまった。
「今日は七月三十一日だよ」
少女は首を振る。
「違うよ。七月三十二日」
僕は腕時計を見る。十一時五十六分。まだ日付は変わっていない。
少女は空を見上げた。
「知ってる? 一日は本当は二十四時間ぴったりじゃないの」
首をかしげる僕へ、少女は続けた。
「だから、少しずつずれた時間を合わせるために、四年に一度、閏年があるの」
「そうなの?」
難しい話だったが、少女はずっと笑っていた。
「今日は、その余った時間。誰にも数えられない四分間。だから七月三十二日」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なことに風がぴたりと止んだ。時間そのものが息を潜めたような静けさだった。
「あのね」
少女は胸に抱いていた黒い石を、そっと差し出した。
「これを預かってほしいの」
両手に乗るくらいの、小さくて四角い黒い石。表面は鏡のようになめらかで、星空が映っていた。
「これは?」
「モノリス。私たちの世界を守る石」
少女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「でも、今は力が足りない。この石は時間を蓄えるの」
「時間を?」
「うん」
「こっちの世界で十五年分」
意味が分からなかった。僕が困った顔をすると、少女は笑った。
「大丈夫。あなたは預かっていてくれるだけでいい。十五年後に返して」
僕は驚く。
「十五年後? ずいぶんと先の話だね」
「あなたにはね」
少女は静かに頷いた。
「でも私にとっては、ほんの少しの時間」
時計を見る。十一時五十八分。まだ二分しか経っていない。
「どういうこと?」
「私の世界とあなたの世界は、この四分間だけ重なるの。でも流れる時間は同じじゃない。私が帰って、もう一度戻ってくれば、こっちの世界では十五年が過ぎてる」
少女は僕の手へモノリスを乗せた。
「だから、次に会うとき、あなたは大人。私は、たぶん今のまま」
石はひんやりと冷たかった。
「本当?」
「本当だよ」
少女は笑った。その笑顔が、なぜか泣きそうに見えた。
「次に会うときには、きっと世界を救える」
その言葉の意味を聞こうとしたそのとき、時計が零時を告げた。夏の風が頬を撫で、最後に「約束だよ!」と叫んだ少女の姿は、夏の夜の空気へ溶けるように消えていった。
十五年という月日は、子どもを大人に変えるには十分すぎる時間だった。大学を卒業し、就職し、恋もした。
祖父母はすでに他界していた。夏休みに遊びに行っていたあの家も、今では誰も住まない空き家になっている。それでも毎年、七月三十一日の夜になると、僕はあの少女を思い出した。
夢だったのか、それとも本当に会ったのか。そんなふうに考えることもあったが、押し入れの奥にしまってある黒いモノリスが、現実の出来事だと告げていた。
十五年の間、その石は少しも変わらず、ただ静かにそこにあり続けた。
十五年後の七月三十一日、午後十一時五十六分。僕はモノリスを抱え、祖父母の家の庭に立っていた。
半信半疑だった。来るはずがない。そう思いながらも、約束を破ることだけはしたくなかった。
そのとき、風が止み、十五年前と同じ静寂が訪れた。
「約束、守ってくれたんだ」
聞き覚えのある声。振り返ると、白いワンピースの少女が立っていた。あのときと何一つ変わっていない。背丈も、顔も、髪の長さも。まるで十五年前から、そのまま歩いてきたようだった。
僕は思わず笑った。
「本当に来た」
「約束したでしょ」
少女も笑う。僕はモノリスを差し出した。少女は大切そうに抱きしめる。すると黒かった石の表面に、淡い金色の光が走った。夜空の星を閉じ込めたような、美しい輝きだった。
「よかった……」
少女は心から安堵したように息をついた。
「ちゃんと満ちてる」
「満ちてる?」
少女はモノリスを見つめながら言った。
「ちゃんと十五年分の時間が入ってる。私たちの世界では十五年なんて待っていられなかったの。世界が壊れてしまうほうが早いから」
僕は首をかしげた。
「でも、君も十五年待ったんじゃ……」
「違うよ。あなたと別れて、私は自分の世界へ戻った。それからすぐ、またこっちへ来ただけ。私の時間では、まだ数分しか経ってないんだよ」
少女が腕時計を見た。
「一分くらいかな」
あまりにもあっけらかんと言うので、僕は笑ってしまった。
「僕には十五年だよ」
「うん。長かった?」
その問いに、すぐ答えられなかった。長かったけれど、その十五年間があったからこそ、今日この約束を果たせた。
「長かったよ」
そう答えると、少女は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。私は全然待ってないのに」
僕には十五年、少女には、ほんの数分。同じ約束なのに、流れた時間はまるで違う。だからこそ、僕は約束を守れたことが、何より嬉しかった。
少女がモノリスを抱きしめる。
「これで私たちの世界は助かる」
「君の世界で何が起きているの?」
「時間の法則が崩れ始めたの。でも、このモノリスが修正してくれる」
そう言って、空を見上げる。
「時間が修正されれば、もう世界は交わらない」
「え?」
つまり、七月三十二日はもう二度と来ない。僕はようやく、その意味を理解した。この四分間は、世界を救うためだけに許された、たった一度の奇跡だったのだ。
少女が僕を見つめる。
「ありがとう。あなたが約束を守ってくれたから、私たちの世界は救われる」
僕は首を振る。
「僕はその石を預かっただけだよ」
「ううん。それが、一番難しいことだったんだよ。私には数分だったけど、あなたは十五年も待ったんだもの」
その差は、埋められない。でも、だからこそ。僕は笑って言った。
「僕には、その十五年も悪くなかったよ。毎年夏になるたびに、君を思い出していたから」
少女の目が大きく見開かれる。そして、初めて涙を浮かべた。
「私……そんなふうに思ってもらえるなんて、考えてもみなかった」
時計に目をやると、十一時五十九分五十秒。あと十秒で日付けが変わる。少女の体が少しずつ透け始める。
「もう時間」
「また会える?」
少女は泣きながら首を横に振る。
「もう七月三十二日は来ない。でも私はあなたのこと忘れない」
涙をぬぐい、精一杯の笑顔を作った少女は、十五年前と同じように、夏の夜に溶けていった。
八月一日、午前零時。風が吹き、川のせせらぎが戻ってきた。
帰り道、腕時計を見る。八月一日、午前零時十五分。世界は何も変わっていない。だけど僕だけは知っている。
七月三十一日の終わりには、誰にも気づかれない、ほんのわずかな時間があったことを。そして、その数分の間に、一つの世界が救われたことも。
夏が来るたび、夜空を見上げる。もう七月三十二日は訪れない。あの日から僕は、七月三十一日の夜になるたび、誰にも知られていない「七月三十二日」に、そっと思いを馳せるようになった。
