短編:君だけが十七歳
◉風まかせ文芸部【線香花火】参加作品
「おじいちゃん、花火やろうよ」
孫娘に手を引かれ、隆司は重い腰を上げた。
「じいちゃんは見てるだけでいいよ」
「だめ。一緒にやるの」
「六十三にもなって花火か」
「六十三でも花火くらいできるでしょ」
八歳の孫に言われて、隆司は笑った。八月の終わり。息子夫婦と孫二人を連れて、近くの海辺へ来ていた。
「私はいいわ。蚊に刺されるもの」
そう言って、妻は家に残った。食後のお茶をすすりながら笑っていた。
昼間は海水浴客で賑わっていた砂浜も、夜になると人影はまばらだった。遠くで若者たちの笑い声がする。波が寄せては返し、湿った潮の匂いがした。
息子が蝋燭に火をつけると、孫たちは歓声をあげた。赤、緑、黄色。暗い浜辺に、小さな光のシャワーがいくつも描かれた。
「おじいちゃん、見て!」
「ああ、見てるよ」
「こっちも!」
「危ないから走るな」
隆司は少し離れたところから眺めていた。孫たちの顔が花火に照らされる。息子が笑っている。嫁がスマートフォンを向けている。きっと、幸せというのはこういうものなのだろう。隆司はそう思った。
妻と結婚して三十七年。二人の子を育てた。喧嘩もしたし、仕事ばかりで家に帰らなかった時期もある。それでも子どもたちは大人になり、その子どもたちが今、目の前で笑っている。
悪くない人生だった。いや、充分すぎるほど、幸せな人生だった。
「最後、これだって」
孫娘が花火の袋を逆さにすると、砂の上に、細い線香花火が何本か落ちた。
「これ地味だから嫌い」
「お兄ちゃん、さっきやりたいって言ってたじゃん」
「やっぱいい」
派手な花火をひと通り楽しんだ子どもたちは、線香花火には興味がないらしい。隆司は砂の上に落ちた一本を拾った。
「じゃあ、じいちゃんがやるか」
「おじいちゃん、それ好きなの?」
「……どうだったかな」
息子が蝋燭を差し出した。隆司は腰をかがめ、先端を火に近づけたが、なかなか火がつかない。しばらくすると先端が赤くなり、小さな火の玉が生まれた。
ぱちぱちと光が弾けた。その瞬間だった。
「動かしちゃ駄目だからね」
少女の声がした。隆司は顔を上げた。夜の海が消えていた。いや、海はある。だが、目の前にいるのは孫ではなかった。
白いブラウス。膝丈のスカート。背中まで伸びた黒い髪。十七歳の少女が、しゃがみ込んで線香花火を持っていた。
「隆司、また動かした」
「動かしてないよ」
「動かした」
「風だって」
「風のせいにするの、ずるい」
少女が笑った。
由美。四十六年前の夏だった。高校最後の夏、二人はよくこの海へ来た。
受験勉強が嫌になると、隆司が自転車で由美の家まで迎えに行った。
夕方から海へ来て、砂浜に座り、何をするわけでもなく、将来の話をした。
大学の話、東京の話、いつか二人で暮らす話。
「隆司は東京行くんでしょ?」
「ああ」
「都会の女の子に浮気しそう」
「しねえよ」
「する」
「じゃあ由美も来ればいいだろ」
「東京?」
「うん」
「私も?」
「当たり前だろ」
由美は嬉しそうに笑った。
「じゃあ約束ね」
十七歳の二人にとって、未来は約束すれば手に入るものだった。来年がある。再来年がある。二十歳がある。三十歳がある。その先もずっとある。疑ったことなど、一度もなかった。
夏休み最後の日。二人はこの浜辺で花火をした。最後に残った二本の線香花火。
「どっちが長いか勝負しよう」
由美が言った。
「俺が勝ったら?」
「何でも一個、言うこと聞いてあげる」
「何でも?」
「変なこと考えたでしょ」
「考えてない」
「顔に書いてある」
二人で笑って、同時に火をつけた。小さな光が生まれた。ぱちぱちと火花が弾ける。由美の顔が明るくなったり、暗くなったりした。
「来年もやろうね」
由美が言った。
「線香花火?」
「花火」
「いいよ」
「ここでね」
「ああ」
「約束」
「約束」
しかし、約束は果たされなかった。その年の冬、由美は交通事故で亡くなった。隆司が東京の大学へ合格したことを、一緒に喜んでくれた、そのわずか二週間後のことだった。
春を待たず、卒業式にも出られず、由美は十七歳のまま、いなくなった。
「……じいちゃん?」
声がした。隆司は我に返った。
「火、落ちたよ」
孫娘の言葉に手元を見る。線香花火は消えていた。砂の上に、小さな赤い点が残っている。
「そうか」
「もう一本やる?」
「いや……いいよ」
隆司は笑って、暗い海を見た。四十六年前と同じ波の音がしている。
高校を卒業後、隆司は東京へ行った。大学を卒業し、就職もした。妻と出会い、結婚もした。子どもが生まれ、家を買った。子どもが巣立つと孫が生まれた。
気がつけば六十三歳になっていた。由美のいない人生を、四十六年も生きた。不幸だったわけではない。むしろ幸せだった。
妻を愛している。子どもたちを愛している。孫たちも可愛くて仕方がない。だからこそ、誰にも言えなかった。
幸せに生きれば生きるほど、ときどき思ってしまう。
由美。君にも、この時代の景色を見せたかった。六十三歳になった僕を見て、笑ってほしかった。
皺が増えたね、お腹が出たね、と。
あの頃みたいに笑ってほしかった。そして僕も見てみたかった。六十三歳になった君を。白髪の混じった君を。目尻に皺のできた君を。おばあちゃんになった君を。
十七歳の由美しか知らないことが、今になってたまらなく悲しかった。
「おじいちゃん!」
孫が呼んでいる。
「写真撮るって!」
「ああ。今行く」
振り返ると、息子夫婦がいる。二人の孫もいる。この写真を妻に見せたら、きっと「私も行けばよかった」と言うだろう。
隆司は家族のところへ歩き出した。途中で一度だけ、海を振り返った。誰もいない砂浜。
それでも一瞬だけ。十七歳の少女が、そこに座っているような気がした。
線香花火を手にして、こちらを見て、あの夏と同じ顔で笑っている。
隆司も笑った。さよならは言わなかった。もう四十六年も前に言ったはずだから。
家族のもとへ戻る。孫娘が隆司の手を握った。その小さな手は温かかった。背後では、変わらない波の音がしている。隆司はその手を握り返した。
そして胸の奥で、遠い夏の日に思いを馳せる。
君がいた 眩しい夏は 過ぎゆけど
想いはぽろり 夜に落ちゆく
線香花火の光が消えても、あの夏の思い出が、隆司の中で消えることはなかった。
